見出し画像

【#Real Voice】 「人生の美しさ」 3年・柴田徹


人生は素晴らしいことばかりではない。
楽しいことばかりではない。
何なら苦しくしんどいことの方が多い。
でも、だからこそ人生は美しい。


いきなり何だと思わせてしまったかもしれないが、もうすぐ1年の終わりを迎えようとしている今、私の中に抱いている感情がこれだった。

まだまだ社会の大きさも把握できていない、どこで何が起こって今の社会が成り立っているのかも詳しく知らないようなちっぽけな私ではあるが、この時代に生まれ、この時代を生きてきて良かったと、今生きている人生は美しいものなのだと感じることができている。


今年1年間何があったかと頭の中で振り返ってみても、これといって人生を変えるようなとてつもなく大きな出来事があったわけでもないし、自分にとって何か節目となるような年だったわけではない。
サッカー選手を目指している以上は、毎年毎年が大きな勝負の年であることには変わりはないし、1日1日で人生が変わってしまう可能性があることにも変わりはない。
そういったことを加味した上でも、何かが大きく変わるような1年であったという印象は自分の頭の中では正直あまりなかった。


もちろん何も印象に残っていないわけではないし、忘れられない試合、忘れられない練習、忘れられないサッカー以外の出来事だってある。
ただ、人生を劇的に変えるような何かがあったわけではないということだ。

それでも人生は美しいと感じることができた1年だったのには、何か訳があるのだろう。何気ない日常を価値のあるものにできていたのだろうか。
自分自身の中で何か小さな変化があり、その積み重ねで今笑えているのではないだろうか。
無意識の領域の中で、自分が気づかないレベルの変化を繰り返してきたのだと思う。

学校に行って授業を受け、帰ってきて部活に行く。
自主練をしてケアルームで江田にケアを手伝ってもらう。
夕食を食べ、自分の好きな時間を過ごして寝る。
たまには数少ない友人と出かけたり、1人でふらふら自然を浴びに行ったり。

自分の中で無意識のうちに決められているであろういくつかの行動パターンの中で、今日は何をするか、何をしたいのか、何をしたら満足がいく1日を過ごせるのかを考えて行動している。
もちろん、その考えが外れる日もあれば、大当たりする日もある。良い1日だったと感じることもできれば、もったいない1日を過ごしてしまったと感じる1日もあるということだ。毎日が正解であり、毎日が不正解であったと思っている。


おそらく側から見たら、自分という存在が活動するコミュニティは非常に狭く、浅いものである。
有名なサッカー選手や、大手企業の社長、世界で活躍しているようなすごい人がどのような日常を過ごしているのかはあまり詳しくは知らないが、その人たちに比べてしまえば、関わる人のレベルや人数、生活している環境、食べているものなど全くと言って良いほど異なるものばかりだろう。
ただ、今の自分のコミュニティを無理に広げようとは思っていないし、広げることができたところで今の自分の立場や地位には見合わないものになってしまっては意味がない。その時々で必要なコミュニティを築いていくことが重要であり、その時々のコミュニティの中でどのように有意義な人生を送っていくかを考えた方が、先の人生においてどのような立場に置かれても、うまく自分の送りたい人生を送っていくことができる気がする。


そんなことを言っても実際は何が正解なのかはわかっていないし、この考えに確信を持てているわけではない。ただ、今の自分はそう思っている。
1年後には考えが変化しているかもしれないし、早ければ明日にでも何か考えが変わるきっかけがあるのかもしれない。時代の流れとともに考えも変化する。それがまた人生なのだなと感じている。


自分の私生活と同様にア式蹴球部での活動でも同じことが言える。1年間同じ仲間とサッカーをしていれば、同じ人に対して感じることも変わってくるし、新たな一面を見つけることもできる。今までに出会ったことのないその人に出会えたり、内に秘めている思いを聞いてハッと驚かされたり、いつの間にか大きな変化を遂げていて、衝撃を受けることさえある。
ア式蹴球部という100人近くいる大きな組織の中で、全員と深い関係性を築くのは難しいからこそ、私の感じ方が大きく、やや大袈裟なものになってしまうのかもしれないが、シーズンが終わる頃、明らかにシーズン当初とは別の組織、別の個人になっている。洗練されているのか、180度変わっているのかはわからないが、とてつもないスピードで時間とともに変化、そして進化しているのだと思う。


それはプレーも同様である。
シーズン終盤になるにつれ、1本のパス、キック、ステップ、どの動作をとっても、その感覚が毎回どれも異なるように感じるように陥り、技術を洗練させることの難しさを痛感した。はたまた、本当にこの体の動かし方、ボールへの足の当て方で合っているのかという疑問を、蹴る度に、体を動かす度に感じる。どれが正解かもわからないし、良い感触でできた1回があったとしても次の一回には全く感覚が異なっていたりする。
だからこそサッカーは面白いし追求したくなる。

上を目指したいとか、活躍したいとか色々な思いがあるが、これに関してはシンプルな探究心である。
自分の体はどうなっているのか、なぜ感覚が異なるのか、全ての動作を全く同じ感覚で行うことができるようになるのか。途切れることなく動いている私の体の細胞によって、体の繊維は変化し続けている。
考えれば考えるほどに途方もないが、精密機械になるようなことが可能なのではないかと夢見がちではあるが、少しの期待を抱いてしまうほどに私はサッカーに憑りつかれているのだと思う。私がサッカーに憑りついているのかもしれないが。

人間関係においても、サッカーにおいても、何においても時間が経つにつれて自身の感覚や感情、物事の捉え方というものは変化してくるし、自分が変化していると同時に少なからず周りも変化している。
そういう些細な変化に気づき、何かを感じることができるようになったのは、いつもと変わらないような何気ない日常の中から、何か新たな意味を見出そうと、いつもと違う何かを探し、小さな発見があり、そこから感じ取れることの幅が広がったからではないかと思う。

サッカーというスポーツは社会から見たらほんの一部のものなのかもしれない。ただ、サッカーをしている私からしたら、そんなちっぽけなものかもしれないサッカーは、全くと言って良いほどに小さくも狭くもない。
サッカーというゴールの見えない、完成形があるのかもわからないスポーツをしている1人の選手として、膨大な量の情報に目を向け、頭を常に回転させることは、必然的に向き合うことであり、そうでもしなければ、とてつもなく早い時間の流れとともに変化し、進化していくサッカーという競技に置いていかれてしまう。

そういったことを考える中でこの1年間は、私の考えをどこまで深めることができ、その考えを体にどこまで落とし込めるのか。
そして、どこまで到達することができるか、どこまで進化できるかという自分に対する大きな期待を抱くのと同時に、本当に自分はその止まらない、止まることができないであろう、サッカーの進化の波に乗っかり、自分が思い描く輝かしい自分になっていくことはできるのかという不安や焦燥感に駆られたりもした。


本当に思考も行動も休むことがなかった激動のシーズンだったと感じる。


そんな1年間だった。




今振り返ると本当に早かった。あまりにも早すぎた。
考えと行動の速度が合わない。時間の流れについて行けていない。
そんな感覚に何度も陥った。時間よ、少し待ってくれと何度も思った。

でも、もうシーズンは終わってしまったし、2021年も終わろうとしている。

そういう目に見える時間の流れですら、現実ではないのではないかとすら感じさせられるほどに早すぎる1年であった。
そして、濃すぎる1年でもあった。

私はこの1年間何ができただろうか。目に見える何かを残せたのだろうか。
数字としては全くと言って良いほどに何も残すことができなかったが、何かを残せていたと感じ取ってくれる人がいたのであれば、この1年間の自分にしかない価値を生み出すことができたと言えるのではないだろうか。



冒頭で人生は美しいと謳い、この1年間を過ごし、今感じていることを長々と語ってきたが、正直な話、この1年を過ごしている中では、苦しい、しんどいと感じることの方が多い1年だった。

2年時には達成できなかった全試合フル出場を掲げて臨んだ今シーズン。
リーグ戦が開幕してすぐに怪我をし、試合に戻るまで1ヶ月近くかかった。やっと戻れたと思いきや、全くと言っていいほどに上がってこないコンディション。
年間を通じてずっと痛かったであろう足首。急に痛くなる膝。
やっと良いコンディションで戦えたと思った次の試合ではコンディションがこれほどまでかと落ちてしまったり、また違う箇所に痛みを覚えたりと、思い描いていた自分のシーズンからは程遠かった。


それに加え、ストレスなのか勝たなければいけないというプレッシャーなのかはわからないが、寝ても寝ても眠い日々が続いたり、睡眠不足で常にイライラしたり、全然笑えていなかったり、グランドに行くだけで吐き気がする日もあった。


今思うと、身も心も相当追い込まれていたのだなと思う。


そんな思いをしてもついてこない結果。
勝てば報われると、勝てば何かが変わると。
そう信じて何とか前を向いて、目の前のものに向き合うことができていた。決して逃げなかったと言い切れる。
それだけの1年間を過ごしてきたと胸を張って言える。


もちろん体がおかしくなっていくことに対する危機感から、逃げた方が良いと思うこともあったし、実際何度も逃げかけた。
でも、今は逃げなくてよかったと思っている。
あの時の成功も失敗も楽しい感情も悔しい感情も逃げていたら何も味わうことができなかった。1年間みんなと戦い抜けて良かった。


早慶戦やインカレのびわこ成蹊大戦など、大事な試合で自分のミスで負けて涙を流したり、プレーのパワーが足りず、前半途中交代させられたり、アシスト、ゴールが全くと言っていいほどできなかったり、ディフェンスラインでありながらも複数失点が多かったり、自分の無力さを痛いほどに突きつけられたりもした。
1人では何もできないのだと、何度も感じさせられた。


その度に絶望した。何度も心を折られた。何度ももう無理なんじゃないかと思った。

サッカーをやめた方がいいのではないか、なんてそんなくだらない問いすらしてしまう日もあった。


それでも這い上がることができた。立ち上がることができた。また前を向いて歩みを進めることができた。


なぜなんだろう。


それは、小さな幸せを感じることができたからだと思う。


学校帰りの綺麗な夕焼けの空を見て気分が緩んだり、
普段いく定食屋さんで新しいメニューを発掘できたり、
たまたま見た月が満月だったり、
時計を見た時に時間が自分の誕生日と同じだったり、
早慶戦やPK失敗した次の日に笑わせてくれる人がいたり、
敗戦の事なんか考える暇もないくらいに熱い練習をしたり、
笑顔で試合に送り出してくれる人がいたり、
忙しいはずなのに自分のことを気にかけてくれる人がいたり、
一緒にジョギングしてくれる人がいたり。

日常生活のどんな些細なことでも、ア式蹴球部の活動の中のどんな一言、どんな関わり方でもそれが幸せなのだと、どん底に落ちた時に改めて感じることができた。



自分は恵まれているなと、痛いほどに実感した。
本当に今も今までも自分に関わってくれている人には感謝しかない。
ありがとうございます。



小さな幸せは目には見えないものだから
小さな幸せは金じゃ買えないものだから
小さな幸せは目には見えないものだから
小さな幸せはきっと大きな幸せだ

これはケツメイシの「小さな幸せ」という歌の一部分だ。ぜひ聞いてみてほしい。
本当にこの通りだと思う。



細かい部分は案外見えていなかったりする。
何かのきっかけで見えるようになったり、感じ取れるようになったり、そのきっかけは嬉しい出来事からかもしれないし、絶望を感じている状態からかもしれない。
いつどのタイミングでそれが訪れるのかは誰にもわからない。

そしてそう感じとることができるものはお金とは変えがたいものである。
人生お金が全てという人がいるが、もちろん否定はしないし、お金はとても重要なものである。でも、お金で買えないものもたくさんあるし、お金では変えられないものに本当の価値があると私は思う。
それは、家族であり、友人であり、また、私がどん底に落ちた時に感じ取ることができた些細かもしれない幸せと感じた出来事全てであり、それは決してお金では買えないものなのだ。


幸せをお金で買えるとしたら私は喜んで買うが、おそらくそこに本物の幸せは少ないのではないかと感じてしまう。
新しい服を買ったり、どこかに遊びに行ったり、お金を払えば多くのことが可能になるが、お金はその行為を可能にするだけであり、幸せを得るものは実はそのお金を払った先にある何かではないかと思う。
新しい服を買っておしゃれをして幸せに気分になれる。どこかに遊びに行ってお金を払って何かをして、その何かで幸せな気持ちになれる。お金は大事だが、結局幸せは全てをお金で満たすことは不可能なのだと思う。


だからこそ、わたしはそのお金では買えない幸せを大切にしたい。
小さな幸せを感じ取れる人間でありたい。


今年1年間を通じて、そう思うようになった。
全ては絶望していた時に見たり、感じたたりした自分を取り巻く環境の素晴らしさ、自分に関わる人たちの暖かさのおかげでこのことに気づかせてもらった。



そして、歌詞の最後にもあるが、その小さな幸せというのは、大きな幸せになるんだとも感じるようになった。



絶望の淵に立たされた時に感じた小さな幸せのおかげで、今私は笑えている。顔を上げて、一歩一歩歩みを進めることができている。


これって実はとてつもなく大きな幸せなんじゃないかなって。


小さな幸せを感じ取ることさえできれば、人生って本当の意味で豊かになるんじゃないかな。小さな幸せがきっかけで気分が和んだり、広角が少しでも上がったり、頑張ろうと少しでも思えたり、何か前向きな思いを少しでも持てたのならば、それだけで良い人生を歩めているってことなのではないか。


成功=豊かな人生

ではないんだと。そう思う。


どんなに小さくても、どんなに些細でも、誰も気づかないようなことでも、その人が見つけた小さな幸せならば、それだけでその人の人生が麗しいものになっている証なんじゃないかなと思う。

何度もどん底に落ちた今シーズン。
満足のいく日の方が明らかに少なかった。
楽しいと思えた日の方が絶対に少なかった。
それでも、色々なことを学ぶことができた。経験することができた。何とか走り抜けることができた。


辛く、苦しい状況が続いた1年間だったが、本当に充実していたと思う。
それは小さな幸せに気づくことの素晴らしさを知ることができたから。
小さな幸せを感じた先にある景色を見ることができたから。

敗戦のショックも、ミスのことも、嫌なことも、小さな幸せを感じ取ることができれば、全て忘れられるわけではない。完全に切り替えられるわけでもない。

それでも、また前に進む勇気を与えてくれる。また頑張ろうと、心の底から思わせてくれる。何度でも這い上がろうと、もがこうと自分に抗うことが出来る。


人生は素晴らしいことばかりではない。楽しいことばかりでもない。何なら苦しく、しんどいことの方が多い。
でも、だからこそ、人生は美しいのだと、心の底からそう感じることができた。

小さな幸せが人生は美しいものなのだと私に教えてくれた。




来年は、このチームの主将を務める。


おそらく今シーズンよりも悩むだろうし、辛く苦しいことが増えるだろう。
ストレスもプレッシャーも今年の比ではないくらいにかかってくる。


それでも私は前を向いて進み続ける。決して歩みを止めることなく。
自分自身に抗い続ける。
臆することなく挑み続ける。


そして、その状況を心の底から楽しみたい。

自分を信頼し主将を託してくれた同期の為に。
小さな幸せを感じさせてくれる皆の為に。

そして、最後に皆と笑う為に。


覚悟はできた。


さあ、最高の景色を見に行こう。



画像1

画像2

画像3

画像6

画像4

画像5

画像7

画像8

画像9





柴田徹(しばたとおる)
学年:3年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:湘南ベルマーレユース




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?