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「余裕と余力」 4年・鈴木郁也

早稲田大学ア式蹴球部4年の鈴木郁也です。
よろしくお願いします。


先日の弟のブログに感受性の話が書かれていた。とても良い気付きを得られているなと感じる。1年程前に書いた私自身のブログの内容も同じく感受性だった。私が3年で気付けたことを彼は2年で気付けたということはとても羨ましいことだ。彼は入部のための関門であるランテストに苦しんだ過去があり、私はそれを近くで観ていた。当時、励ますためにもア式蹴球部だけが全てではないと彼に伝えていた。しかし、内心はここでしか得られないものを学んで欲しかった。彼のブログにも書いてあった「あなたはもう一度入部前に戻れるとしたら、ア式蹴球部に入りたいと心から願いますか?」の答えが『入りたい』だったことはとても嬉しかった。
少し弟思いの一面を見せてしまいましたが、彼のブログを読んでの素直な私の気持ちだ。

このようなことを友人に話すと「余裕があるね」と言われることが多い。「さすが兄貴だね」と。もちろん当然のことである。私の方がア式蹴球部に長く在籍しているのだから。

今回のブログでは私が最近考えていた「余裕」について書きたいと思う。前置きが長くなってしまいましたが、お読みいただけると幸いです。


余裕がある人はかっこいい。自分は幼い頃からそう思っていた。「余裕があるね」「余裕だね」と言われることは褒められているようで嬉しかった。

今の自分には余裕がある。私はそう自分自身を捉えている。

今年の1月から新チームが始動し、私自身は選手とTM(学生コーチ的な感じをイメージして頂けたらと思います)という役職を兼任する形となった。両方を全うすることは時間もかかることだし、責任もとても大きかった。それでも、チームが掲げるビジョンやミッションを体現できるように取り組んだ。もちろん、失敗も繰り返しながら現状に満足せずに前に進み続けるように行動してきた。そんな日々を繰り返していくうちに、最初は大変だったことが今となっては当たり前のものとなり、すっかり自分の心の中は落ち着きばかりがあふれるようになった。選手と両立させるためのスケジュール管理や選手とのコミュニケーションの取り方、大人のスタッフの方とのやり取りなど、型がある程度自分の中でできたため、こなす日々が増えていった。別にそのことに対して何も自分は思っていなかった。自分が努力したから成長できたのだな、そのように感じていた。

すると、周りからはまた「余裕が出てきたね」と声をかけられることがあった。この言葉にネガティブな意味はないと思っていた。TMの仕事も後輩に引き継ぎ始め、ある意味自分の役割はある程度果たしてきたと思っていた。

しかし、監督とある機会に話をすることがあった。監督からは話の流れの中で
「郁也は余力があるように見られるタイプなのかもしれない」と言われた。

この時から、私自身の中での余裕の捉え方が少しずつ変わっていった。

冒頭にも書いたが、私は「余裕がある人はかっこいい」そう思っていた。しかし、この価値観に違和感を感じ始めるようになった。

そこで、余裕がなさそうな人を探して見ることにした。

たまたま出てきたのは、トランプ大統領だった。
バイデン氏に負けそうになると、潔く負けを認めない姿があった。
世間からは潔さがないと言われていた。しかし、それでもトランプ氏は認めなかった。
以前の自分であれば、余裕がない(格好悪い)人だなと感じていたかもしれない。しかし、今回は彼なりの美学を感じた。諦めるのは余力がなくなってからで良い、できることを全てやってからで良いという意思を感じた。(別にトランプ氏が好きなわけでも嫌いなわけでもありません)

トランプ氏はひとつのことにとても執着し、結果を出すことに全力を注いでいた。一生懸命にその結果に対して行動している姿から感じるものがあった。さらに、彼は喜怒哀楽の感情をよく表現する。その姿に自分自身がカッコ良いと思っていた余裕というものはないけど、余力がないほどに何かに励む姿はカッコ良く、自分にはないものだと感じた。

振り返ると、私は余力がないほどに何かをやり遂げたことはないかもしれない。全てある程度の努力をし、平均以上の結果を得て、満足し、周りからは余裕があるように見られ、ある意味、優越感に浸っていただけかもしれない。ただクールに余裕ぶっていただけかもしれない。

今の自分には余裕がある。ということは、まだまだやれる自分、まだまだ努力できる自分がいるということだ。コンフォートゾーンにいる自分に今、満足してしまっている。パニックゾーンに飛び込んでみろ。何か思い切って挑戦してみろ。結果に執着して、感情をさらけ出してみろ。
そう思うようになりました。

そうして一生懸命に生きる過程で自分自身が本当の意味で大きく成長できると思う。

後期の立正大学戦で監督がテーマに掲げた、「セレンディピティ」という言葉がある。気になって調べてみた。
すると、「プランドハプスタンス(計画的偶発性)」という言葉が出てきた。
これは、キャリアというものは8割が予期しない偶然の出来事により形成されるということである。そのキャリアが自分にとって幸福なものにするためには積極的に行動し、周囲へのアンテナを高くしながら新たな可能性に向けて努力する必要がある。

私はこの言葉がとても刺さった。これからまだまだ長い私の人生がより豊かなものであるためにも、余裕を手に入れるのではなく、今は余力がなくなるほど頑張らねばならないなと感じた。

そのためにも、第一歩として残りのア式蹴球部の活動をより良いものにしていきたい。とはいえ、すぐに全てを変えることは難しい。ただ、結果にこだわり、執着するトライはすぐにできる。目の前の試合に勝つ、得点やアシストなどの点につながるプレーに関わるなど。そのための努力をまずは初めていく。そこに拘りを持ち、何かをやりきった先に本当の豊かさがあるはずだ。


熱いことも少し書いてしまいましたが、最近感じている素直な自分の思いです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。



鈴木郁也(すずきふみや)
学年:4年
学部:社会科学部
前所属チーム:FC東京U-18


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