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【#Real Voice】 「逢」 4年・高田侑真

私は11年間のサッカー人生をもうすぐ終えようとしている。
 
ある日、友人に「サッカー人生はどうだった?」と聞かれた。
 
私はこの問いに、すぐ返答することができなかった。
というのも、サッカーに終わりが来ることを考えたことすらないほど、サッカーに全てを懸けてきた人生だったからである。
 
自分に問いかけてみる。
 
サッカーに全てを懸けてきたこれまでの人生は、楽しかった?辛かった?幸せだった?
 
でた答えは、幸せだった。である。
 
でもなぜか腑に落ちない。
 
大会で優勝したこと、優秀選手賞をもらったこと、年代別日本代表に選ばれたこと...
 
幸せと感じた理由を考えてみたが、どれもいまいちピンとこなかった。
 
なぜ幸せと思ったのだろう。
これまで自分はサッカーにおいて何をもって幸せと感じてきたのだろう。
 
幸せと感じた理由をぼんやり考えていた。
 
すると、どこかで聞いたことのある言葉がふと浮かんだ。
 
 
「しあわせはいつも自分のこころが決める」
 
 
これは詩人・書家の相田みつをさんの代表作ともいえる詩である。
 
この詩の好きなところは、しあわせは自分のこころが決める、ではなく、”いつも”自分のこころが決めるという、敢えて”いつも”という言葉が使われているところである。
 
私はこの方についてもっと深く知りたいと思い、相田みつを美術館という、相田みつをさんの作品が展示されている美術館へ足を運んだ。
 
作品を見てまわるにつれ気付いたのだが、相田みつをさんの詩のほとんどは「自分」に対して書かれている。
 
「自分」と向き合うことに、とことんこだわった作品の数々に触れていく中で、ある2つの詩に大きな感銘を受けた。
 
 
「ひとの世のしあわせは   人と人が出逢う
  ことからはじまる   よき出逢いを」
 
 
「生きていてよかったと思うことのひとつ
  それは人間が人間に逢って
  人間について話をするときです」
 
 
この2つの詩から「幸せ」とは何かにという、自分への問いに答えが出た。
 
「出逢い」である。
 
私の幸せの原点は、人との出逢いにある。
 
出逢いが人を感動させ、感動が人を動かす。
人を動かすのは理論や理屈ではない。
 
 
出逢いがなければ何も起こらない、出逢いから全ては始まるということなのだ。
 
 
元々、「幸せ」という言葉は「仕合わせ」と書かれていた。
 
「仕合わせ」の意味は、めぐり合わせ。良いめぐり合わせも悪いめぐり合わせもあるということ。
 
思い返せば私のサッカー人生は、まさに出逢い、「仕合わせ」の連続だった。
 
サッカーを始めた小学5年生の頃、エリート選手ばかりの名門チームに、リフティングすらできない私を受け入れてくれた監督。
試合に出てもミスばかりで迷惑をかけていたのにもかかわらずいつも励ましてくれたり、気にかけてくれていたりした優しくて頼りになるチームメイト。
 
サッカー選手としても人としても成長させてくれて、たくさんの愛情を注ぎ私を大きく育ててくれた中学時代の監督や、ゴールキーパーコーチ。
 
サッカーへの熱量や、サッカーに対する姿勢や価値観を変えてくれた年代別日本代表の監督。
 
違う部活ではあったものの、日々切磋琢磨し合ってきた高校時代のクラスメイト。
 
顔を粉砕骨折した時、かなり複雑な状況ではあったが無事手術を終えて、優しく寄り添ってくれたお医者さん。
 
そんな出逢いのなかでも、早稲田大学での4年間はこれまでにないほど刺激的だった。
 
所属しているア式蹴球部の部員は百数名、いろんな人がいる。
 
人一倍優しくて、逞しく心の芯がしっかりしている人、学連の仕事とサッカーの両立に苦しみながらも懸命に頑張っている人、試合に勝てて良かったと号泣している人。
 
同期だけでも本当に魅力的な人ばかりだ。
 
そんなみんなと過ごすア式蹴球部での日々は新しいことの連続だった。
 
学年ミーティングでのみんなの発言を聞いたり、監督が話していることを自分なりに解釈しようとしていると、
あ、こーゆー視点もあるのかと、刺激を受けることでちょっとずつ自分の世界が広がっていき、ものの見方が変わってきた。
 
ものの見方が変わると、自分の日常がちょっとずつ変わっていく。
それが楽しくて仕方なかった。
 
サッカーをしていなければ出逢わなかったかも知れない。
サッカーをしていたからこそ出逢えた、サッカーが出逢わせてくれた、このめぐり合わせはかけがえないものだ。
 
 
そうやってこれまでのサッカー人生を振り返っていくと、試合の勝敗よりも、自然と頭に浮かんでくるのは、これまで出逢ってくれた人たちの顔である。
 
 
私がここまで歩んでこられたのは、逢うべきときに逢うべき人と出逢えたからだということ。
本当にこれに尽きると思う。
 
そんな沢山の出逢いのおかげで、自分を忘れるほど、毎日夢中でサッカーをしていた。
自分を忘れているときの自分が、本当の自分だと思う。
 
だからこそ自分を忘れている時間こそが一番充実していて「しあわせ」といえるのではないか。
 
何かに夢中で、自分を忘れている時間というのはリアルタイムでは感じることができない。
振り返ってみて、その時間が「しあわせ」だったと気づく不思議なものだ。
 
 
 
夢中で駆け抜けてきた11年間。
 
私にとっての「しあわせ」を見つけた今、
あの問いにも胸を張って答えることができる。
 
最高に「しあわせ」なサッカー人生だったと。
 
 
出逢いが私を突き動かし、私を大きくさせてくれた。
道に迷った時はいつも誰かが手を差し伸べてくれた。進むべき道を照らしてくれた。
 
 
だから、今度は私が誰かのこころの灯火になる。
 
 
 
沢山与えてもらった「しあわせ」を次は私が与える番だ。


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高田侑真(たかだゆうま)
学年:4年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:東山高校


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