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【#Real Voice】 「怪我を経て」 2年・前田拓磨

はじめまして。同志社大学から国内留学中の前田拓磨です。

国内留学って何?と思った方のために一応この制度について説明しておくと、もともとは新島襄と大隈重信というそれぞれの創立者が互いに理解しあっていたということから、相通ずる建学理念をもっており、創立以来深い交流を結んでいたということが発足の理由だそうだ。1年間または半年間派遣、受入れが行われ、異なる地域や文化で学び、視野を広げ、個性を磨くことを目的としているらしい。

面白いですよね。実際に文化や色の違いを触れることができて、毎日がとても充実しています。是非、同大学受験生や在学生の方、参考にしてみてください。


ところで、


なぜ国内留学を使ってまでしてア式にやってきたのか。


誰もがそう思っただろう。でも理由はシンプルで、ア式のような強いチームを築き上げる術を知り、それを所属元の同志社大学体育会サッカー部に還元したかったからだ。これは私の使命であり、それ以上でもそれ以下でもない。

では、なぜ強いチームを築き上げる術を知りたいのか。


それは、私が選手ではなく学生コーチだから。


では、なぜ選手ではなく学生コーチなのか。


それは、怪我をしたからだ。


今回はこの場を借りてその怪我について綴ろうと思う。
 
 
 
 
高1の夏、所属していたサッカー部の試合中の出来事である。
 
 
スルーパスに抜け出し、キーパーと1対1。思い切って左足を振り抜いた。
 
 
私はピッチに倒れていた。
 
 
ゆっくり目を開けた。
 
 
左目が何も見えない。
 
 
瞬きした。
 
 
やっぱり見えない。
 
 
何度もやってみたがダメだった。すぐに両親へ電話をかけた。父が出た。母も一緒だった。
 
状況を伝えた途端、母の声色は変わった。母の落ち着かない様子は電話越しでもすぐに伝わった。外出中だった両親はすぐに予定を打ち切り、そのまま私の元へ向かった。
 
すぐに眼科へ向かうことになった。しかし、日曜日だったこともあり、殆どが休診日だった。受診できる眼科を必死になって探す母。以前お世話になった眼科に緊急外来で電話をかける父。
 
 
「息子が怪我をしたからすぐに診察してほしい。休診日とはいえ、今困っている患者がいる。あなたたちは患者を見捨てるつもりなのか。
 
 
そういった内容の電話だった。しかも普段温厚な父が、かなり強い口調で。
 
結果的にその眼科で受診することができた。
 
 
診断は
 
 
『網膜剥離』
 
 
しかもかなり深刻な状態だった。黄斑部(視神経が集中する網膜の中心部)と呼ばれる視力を出す上で最も重要な部分まで網膜が剥がれていた。更に、そこに出血した血液が流れ込んでいた。言わば最悪の状態。直ちに手術が行われた。恐怖と不安に押し潰されそうだった。
 
 
 
 
長い手術が無事終わった。
 
眼帯をしていたので視力が回復したのかどうかしばらくわからなかった。経過診察で眼帯を外した。左眼に僅かではあったが光を感じた。ぼんやりしていてはっきりとは見えなかった。下半分の視野も欠けていた。それでも嬉しかった。何も見えなかったところから考えれば、大きな進歩だったのだから。
 
そこからしばらくうつ伏せの生活が続いた。網膜を付着させるために、眼の中に空気より軽いガスを入れたためだ。すごく不自由だった。食事を取る時も、トイレに行く時も、寝る時も、ずっと下を向いた状態。首が痛かった。しかもこれが1週間も続いた。
 
そして、この間に厳しい現実を突きつけられた。私のサッカー選手としてのキャリアに終止符が打たれた。
 
もっとサッカーをしたかった。
 
もっとサッカーが上手くなりたかった。
 
もっとサッカーを楽しみたかった。

 
考える間もなく、涙が溢れた。しばらくこの事実を受け入れられなかった。
 
 
胸が張り裂けそうだった。
 
 
更に、追い討ちをかけるかのように再び悲劇が襲う。
 
 
 
 
術後しばらくして、ふと左眼に痛みを感じた。初めは手術によるものだろうと思い、気にしなかった。しかし、時間が経つにつれ、その痛みは増すばかり。再び急いで診察室に入った。
 
 
診断は
 
 
『続発性緑内障』
 
 
眼圧を調節する機能に異常が生じ、眼圧が異常に上昇してしまうというものだ。術後の炎症を抑えるための目薬が原因だった。眼圧が非常に高く、放っておけば更なる視野欠損、最悪の場合失明の可能性もあったため、すぐに手術することになった。
 
 
 
 
2回目の手術はすぐに終わった。
 
ようやく家に帰れる。やっとこの地獄の日々から解放される。そう思うと嬉しさが込み上げた。
 
 
だが、まだ終わらなかった。
 
 
また左眼に少し痛みを感じた。目薬には充分気を付けていたし、手術もした。さすがに大丈夫だろうと思っていた。しかし、痛みは増すばかり。
 
 
前回と全く同じ。
 
 
再び手術かもしれないという恐怖と肥大化していく痛みに、血の気が引いた。
 
 
またすぐ診察室に入った。やはり眼圧はかなり高かった。私も詳しいことはよくわからなかったがとにかくこの手術で眼圧が下がりきらなかった。そして、別の方法で再び手術することになった。
 
 
確かに辛かった。でも、不思議と1回目や2回目よりも気が楽だった。慣れもあったのだろうが、それよりも何よりも母の存在が大きかった。母は、私が手術を受けると決まるたび、何度も、何度も励ましてくれた。
 
 
「大丈夫、いつかは必ず治る」と。
 
 
恐怖と不安の呪縛から、私を少しでも解放させたかったのだろう。その「大丈夫」という言葉は、何の根拠もないのに心強かった。そして何より、そんな母の存在が心強かった。
 
 
 
 
そして無事、3回目の手術は終わった。

ようやく眼圧が下がった。容態も安定した。結果的には、視野欠損に白内障(眼の中のレンズが不純物により白く濁る病気。人工レンズに取り替えれば特に大きな問題はない。)と、後遺症は残ったものの視力は失わずに済んだ。
 
 
 
 
長い、長い怪我との戦いが終わった。
 
 
 
 
私がこの怪我を経て伝えたいこと。
 
それは
 
 
「感謝」
 
 
ありきたりな言葉かもしれないが、この怪我を乗り越えた私にとって、最も忘れてはならない言葉。
 
入院して手術、退院したと思えばまた入院、そして手術と、当たり前からはかけ離れた日々。術後はサッカーをすることも観ることもできない。それどころか、家族や友達と目を合わせて話すことすらできない。風呂にも入れない。普通の体勢で食事を取ることも、寝ることもできない。
 
 
そんな毎日を過ごし、当たり前のありがたみを切実に痛感した
 
 
そして、そんな当たり前の環境には必ず誰かの支えがあるということも。
 
 
部活でも同じだ。当たり前のようにグラウンドがあって、そこで当たり前のようにサッカーを楽しんで、当たり前のようにア式蹴球部として活動している。試合では、当たり前のように相手がいて、審判がいて、運営スタッフがいて、サポーターがいる。そして、そこには監督、コーチングスタッフ、マネージャー、トレーナー、OBと、多くの人のサポートがあって初めて成り立っている。
 
 
そんな環境は、決して当たり前じゃない
 
 
改めて、その環境とそこに携わる全ての人に感謝する。
 
 
当たり前への感謝と自分を支えてくれる全ての人への感謝。
 
 
この2つの感謝を忘れずに、その人達への恩返しのためにも、これから頑張っていきたい。
 
 
 
 
そして最後に。
 
 
 
 
親の支えがなければ、私の左眼は今頃何も見えていなかったのかもしれない。今こうやって当たり前のように生活できていなかったかもしれない。
 
 
 
 
本当にありがとう。



◇前田拓磨(まえだたくま)◇
学年:2年
学部:スポーツ科学部 ※同志社大学との学部学生交流制度(国内留学)による
出身校:青山学院高等部

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