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【#Real Voice 2022】 「明確化」 1年・川辺球尊

今回部員ブログを担当させていただく、スポーツ科学部1年の川辺球尊です。
「かわべきゅうと」と言います。10代の未熟な者でありますが、今現在の私の率直な想いと考えを通じて、皆様の人生に微量でも影響や何か考えるきっかけを生み出すことができれば幸いです。

私自身が言うのも何ですが、「きゅうと」と言う名前、珍しい方だと考えております。したがって、比較的早く名前を覚えていただけます。また親しみやすい名前なのかもしれません。

現に、ア式蹴球部の同期や知り合いの方からは、「きゅうそん」だとか「キューティー」だとか「キューピー」だとか「きゅうじ」だとか様々なあだ名で呼ばれております。正直、嫌いじゃないです。自分という「存在」が複数人いる感じがして。

なので、このような感覚にさせていただく皆様には感謝しなければいけませんね。
「ありがとうございます。」
そして、何よりも両親、祖父母に感謝しなければなりませんね。
「両親から子へ最初に送られるプレゼントである名前がこんなにも素晴らしいものであることに。」
そして
「どのような時も101%の愛をくださることに。」


1,視点と視野

私の人生を振り返る。真っ先に出てきた答えは

「サッカーと共にあり、サッカーに人生の基盤を教わった」

大半の幸せな経験や悔しかった出来事や人生の教訓を得た出来事には全てサッカーが関係している。本当にそうなのかと自問自答する。  
うん。私が記憶に残っている出来事には、全てサッカーが何かしら関係している。その時にふと考える。

「サッカーだけ、やってきたと言っても過言ではない人間に魅力などあるのか?」

なぜ思うのか。それは早稲田大学に入学して、様々な人に出会ったからである。勉学を極めている方、他のスポーツでオリンピックに出てしまうような高い競技力を持っている方などがごく普通にいる。そのような人々と交流し、コミュニケーションを取ると、新たな価値観や考えが生まれた。

今までは自分の生まれ育った地域の方々や、サッカー関係者としか関わっていなかった。
だからこそ、サッカーを夢中で行なっていることに浸り、何の疑念も抱かなかった。しかし新たな世界を見ることで、サッカーをただひたすら行なってきた人生に疑問を持ち始めた。

当たり前のことだが、人それぞれ趣味や好きなことが違う。職業や人生の原動力や信念も多種多様である。そのような社会で、サッカーという存在に「ただ好きだから」という単純明快な理由で依存して良いのか。「川辺球尊」の人生とは何か。果たしてこのまま時を過ごして、将来、社会に貢献できる人材になることができるのか。頭の中で不安とクエスチョンマークがループしていた。


ここからはサッカーの話をさせていただく。大学入学以前は、私は攻撃のポシション、いわゆる「点を取る、関わる」ことが最も大きな役割でプレーしていた。もちろん、点を取ることやそれに関わることに楽しさは感じる。だが私は、ゴールを守るポシションも楽しそうだなと思っていた。理由は攻撃のポシションで生き残る自信がなくなっていたからである。

そう思ったきっかけは高校生時代に遡る。私を知っている方ならご存知だろう(笑)。
簡単に説明すると、私自身が驚くほど「自信」を失い、「悲観的」になり、サッカーが「大好き」から「大嫌い」になったからである。

そりゃ上手くいくわけない(笑)。でも私なりにもがき続けたのだ。自分に失望して、泣きながらも。だから後悔はしていない。他者からすれば、サッカー人生において間違いなく無駄な時間を過ごしたと思われても異論はない。しかしながら、意地でも「あの経験があったから今の自分がある」と胸を張って言うために、私は再起をかけるのだ。


話が大きく脱線したこと、申し訳ございません。高校時代のことを語ると涙がこぼれそうになり、胸の底から込み上げてくるものがありますので。話を戻します。

3ヶ月ほど前、試合で後ろのポシションを任された。サイドバックと言われるポシションだ。プレーが案外上手くいった。そして何より楽しさを感じた。
なぜなら、同じサッカーとはいえ、役割においてゴールを守ることを重要視され、見える景色が全く違ったからだ。ゴールを守り、相手からボールを奪い取ること、シュートブロックすることは新鮮であり、違った喜びを覚えた。
そんなこんなで今も後ろのポシションをやらせていただいている。 

この期間に「守備の教科書」と呼ばれる本を買ったり、3バックの一角に入ったり、公式戦で初イエロー、初レッド、初オウンゴールをしてしまったりと、私のサッカー人生にとって初めて尽くしの経験をさせていただいた。刺激的である。
1年前の「川辺球尊」には予測ができないだろう。人生何が起きるか分からない。いや、これこそが人生の醍醐味なのかとも感じる。


ここまで文章を読んでくださった方は、きっと思うだろう。

「サッカーだけ、やってきたと言っても過言ではない人間に魅力などあるのか?」

この考えはどこにいったのだと。
何が言いたいのかと思っているのだろう。


では、いきます。

ある日の練習、私は攻撃のポシションを任されることになった。その時に以前よりも簡単にゴールを決めること、得点に絡むことができていた。それはなぜか。

ボールを持った瞬間、守備者の立ち位置のずれや、守備者のマインドがわかる。
だからその弱点や攻撃者にやられて嫌なことをする。それがほんの数秒間で瞬時に判断できた。その瞬間、ビビッときた。  

「視点、視野が変化したことで物事の見え方がこれほどにも変わるのか。」と。

自身の無知さを痛感したと共に、サッカーの面白さを体感した。それ以降、視点と視野を広げることを意識している。そうすると新しいものがサッカーはもちろんのこと、社会に生きる1人の人間としても見えてくる。

「今までは〇〇のように捉えていたのに、こういう見え方やマインドがあるのか。」と。

あれあれ?
サッカーで学んだことが、間接的に「人生」という最も重要なものに活きているではないか?
サッカー=社会ではないことは明確だが、サッカー(皆様、私自身が本気で打ち込んでいること)が人生の教科書になっているのではないか。いわばこのように捉えられるのではないか。


「サッカーが人生、社会の縮図であり、グラウンドの中で、その人の信念やマインドを育む。そういった人生に彩りをもたらすヒントがゴールチャンスのように落ちているのではないか。」

私はそう捉えた。腑に落ちた。サッカーをただやるだけでは社会に役立つ人材にはなれないが、サッカーという「人生と社会の縮図」の中で、もがき苦しみながら学ぶことに意味はあるのだなと。


2,スゴハセヨ

ある人が言った。
「スゴハセヨ」と。

正直何を言っているのか分からない。もはや言った張本人も忘れているかも知れない。それでも私の頭の片隅に残り、素晴らしく楽しい思い出になっている。
「ありがとう。」

寮生活のある場面。
同期と一緒にお風呂に浸かった。何を話したかは覚えてもいない。それでもみんなとアホみたいに笑いあって、幸せに感じたことを鮮明に覚えている。

2つのことに共通しているのは「何気ない日常に埋もれる小さな幸せ」である。「スゴハセヨ」に大きな意味なんかない。(言葉の意味はあえて調べない、その瞬間に感じた幸せだけを噛み締めることも人生の魅力であるから)お風呂場で笑いあったことも他者からすれば、価値はないかもしれない。

でも私にとっては、

価値ある瞬間」

なのだ。

いわば、幸福や喜びは日常にゴロゴロ溢れていて、それを感じることができるか、気づくことができるかが重要だということ。
私は上手くいかない時やネガティブ思考が続いた時には、大きな幸せを求めていた。
「何かいいことないかな、この状況が180度好転しないかな。」と。

実際にそのようなことが起こりうる可能性は低い。むしろ負のマインドに陥れば陥るほど。なぜなら、何気ない日常に落ちている幸せやヒントを見逃しているから。 
だから、ビジョンを持つことは非常に大切だが、「今」に目を向けることも大切である。

心の感情、周りの環境、「当たり前」という観念を外し、物事に感謝する。そうすれば何気ない出来事に幸せやヒントを感じ取り、人生に感謝できるから。感謝や幸せを噛み締めると少しはポジティブな気持ちになるはずだから。

きっと皆様もそうではないのか?いやそうだと信じている。


「川辺球尊は皆様の支えや努力があって、人生を歩むことができております。本当にありがとうございます。」


3,宿命と向き合い、運命に戯れ、使命に生きる。

宿命に立ち向かえ」

世の中には変えることがほぼ不可能に近いことが多々存在する。例えば、才能、性格、身長、容姿、他者の考えていることなどである。もちろん変えることができないと断言はできないが。 

「もっと才能があればな〜。」とか思うだろう。
私においては、サッカー選手の中では身長が小さい方である。だから空中戦は頭を使わなければ、勝つことはできない。

「もう少し身長が高ければな〜。」
なんて思ったことがないとは言えない。だからといって明日20センチ身長が伸びているわけではない。

いわば、

「自身が持つ武器や特徴を生かす必要がある。」

他者と比べて違いやコンプレックスがあるとする。一見マイナスな見方をしてしまいがちである。しかし、そこで視点を変える。 

「欠点、コンプレックスと捉えるか、あなたにしか生み出せないことがあると信じ、強みと捉えるのか。」

このマインドが重要だろう。隣の人が持っているものに目を向けるのではなく、自分が持っている個性や知識に目を向け、どのように活かすかを考える。そうすれば私(あなた)にしか歩めない人生を生きることができる。

そう。「宿命に立ち向かえ」

「運命と戯れよ」

人生には困難や挫折や絶望が必ずある。それは他者から見ればちっぽけに見えても当事者にとっては苦しく、辛い。なぜなら「負の耐性」がついていないからである。

「苦しみを味わえば味わう程、人は優しくなり、強くなる。」
「失敗は成功するまで続け、やがてその努力が身を結ぶと成功のプロセスと変化する。」

よく言ったものだ。その通りだろう。皆様はいかがでしょうか?
けれどわかっていてもすぐ忘れちゃうもの、生きていると不安に陥ってしまうもの、恐怖に陥ってしまうもの。

そのような時にこそ運命と戯れるぐらいの気持ちが心に余裕を生み、積極的かつ主体的に挑戦できるのではないかなと仮定してみる。
運命と戯れるために必要なことは、いい意味で自分に期待しすぎず、良い時も悪い時も「この経験が最後に役立つから問題ない」といった楽観的な思考を持つことなのではないか。

「川辺球尊は弱い人間である。」
つい先日も私の未熟さを痛感する出来事があった。

「早稲田大学ア式蹴球部の基準に学年リーダーであるお前が足りていない、それが学年全体に影響している。」

とてもありがたいお言葉をいただいた。私自身の未熟さと甘さが生み出した結果だ。自分自身が腹立たしいし、嫌いになる。無力な自分に失望した。

しかし、ここで感謝をするのだ。まず、自分にご指摘をしてくださった方に。なぜなら人に言うことは労力は使うからだ。そしてネガティブな指摘ともなると、当の本人も決してポジティブな感情は抱かない。それなのに指摘してくださる。これこそが「真の優しさ」である。私はこの学びと教訓を成長へのプロセスと捉え、変わります。
「ありがとうございます。」

そしてア式蹴球部には、素晴らしい人格者や才能に溢れた学生、スタッフがいる。その人々からさまざまなインスピレーションを受けることができ、私自身がより深みのある人間になる。
その環境があることに感謝しなければならない。


「主体性=アイデア+責任」

主体的に行動を起こすことが大事なことなのは以前からわかっていた。しかし「主体性」の本質は理解出来ていなかった。また「主体性」の言語化は出来ておらず、ただ響きの良い言葉だなと感じていた。そんな時に早稲田大学ア式蹴球部監督である、外池さん(外池大亮)が上記のように言った。  


納得できた。見事な言語化である。本質を理解してアクションに移っているか、いないかでは、吸収量に天と地ほどの差が生まれる。もちろんその差異や変化に気づく「感受性」は必須だが、本質を理解し、言語化でき、発信することで、初めて言葉の意味の真相に辿りつけるのだろう。
うん。まだまだ足りない。いや、足りなすぎる。
でも、この現実に向き合える環境がア式蹴球部にはあるのだ。
「ありがとうございます。」


そう考えると、失敗や弱みが
「伸びしろ」
に感じる。
より成熟した「川辺球尊」に出会えると思うとワクワクする。負の出来事や感情も全て運命として捉え、触れ合う。良い意味で楽観的に。

しかしここで謙虚さを失ってはいけない。謙虚さを失う時に、人は堕落していく。自らの弱さと肯定的に向き合うのだ。決して目を逸さずに。ベクトルの矢印は常に「川辺球尊」に。そうすることで新たな景色をみることができるはずだ。

「困難や苦難を運命と捉え、戯れよう。良い加減で。」
うん。私の中で確信が生まれた。


使命に生きる」

改めて繰り返すが、私はさまざまな人がいるおかげで存在する。

小学4年生から高校3年生まで「大宮アルディージャ」というJリーグのクラブに育てていただいた。特に高校生時には、私がどのような状況でもスタッフの方々はたくさんの愛を持って、接してくださった。サッカー選手として全く成長できなかった自分にすら。


クラブに対しては、小学生時代から大切に育てていただいたにも関わらず、高校生時代には何1つ恩返しができなかった。むしろ自分を使ってくれないという事実にだけ目を向け、感謝の気持ちを失いかけた時もあった。本当に目を向けるべきところは自分の心であるべきだったのに。自分の可能性を否定していた「真の川辺球尊」であるべきだったのに。

だから私は、

「愛返し」

をする。大宮アルディージャに、スタッフに。サッカーを通じて。人間として1流に成長して。


そして、今私が早稲田大学に入学し、ア式蹴球部に所属できるのは、たくさんの方々がサポートしてくださったからである。時には埼玉のもう1つのJクラブのスタッフの方からサポートしていただいた。こんなことが起こり得るのだろうか。

私の好きな言葉でもある
「気持ちには引力がある」
と言う言葉の本質を理解できた経験となった。

感謝以外の言葉が見つからない。
なぜなら「早稲田大学」が、「ア式蹴球部」がサッカーの楽しさと1人の人間としての伸びしろを引き出してくれるから。

決して忘れない。人生の分岐点として勝負を懸けた受験で成功し、今この瞬間に部員ブログを書いていることを。
そして忘れかけた時に立ち返る、心の原点としてここに記す。

「恩返し」

サッカーに絶望し、逃げ出そうとしていた自分にもう1度チャンスをくれた。
だから私は闘う。

「早稲田のために」 「ア式蹴球部のために」

そうだ。これこそが

使命に生きる。」

皆様のこれからに、このnoteが1ミリでもお役に立てれば幸いです。

きゅうと

川辺球尊
学年:1年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:大宮アルディージャU18

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