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「足りない何かを追い求めて」 2年・柴田徹

いつもお世話になっております。スポーツ科学部2年の柴田徹です。
今年もありがたいことに、自分の思いを言葉にする機会を設けていただけました。
私が今思っていること、感じていることが皆さんに少しでも伝われば幸いです。


では早速始めます。

私には最近思うことがある。
それは「欲望」についてだ。

今地球上に生きている全ての人類は、自分自身の欲望の元に生きていると思う。
行動欲、食欲、意欲、物欲、睡眠欲等、その場所、その時の精神状態によって異なった欲望を常に持ち合わせている。
それらをもとに行動し、日々、喜怒哀楽をはじめとした、様々な感情を抱いている。
一人ひとりが全く違った感覚を持ち合わせているのだから、人間という生き物はよくできているなとつくづく感じる。


「人間、欲望がなくなったら終わりだな」と感じる。

「何のために生きているか」と聞かれたら、自分の夢や目標のため、限られた人生を満喫するため、今に一生懸命すぎて何も答えられない人、何となくという人、多種多様の意見が出てくると思う。
人それぞれの生き方、考え方があって素晴らしいと思うし、私ごときに周りの人の考え方をどうこう言う権利はどこにもない。
ただ、大きく広い視野でその答えを見たときに、誰しもがその時々の自分の欲望に忠実に生きているのではないかと思った。

そうなったときにひとつの疑問が生じる。
誰しもが自身の欲望の元に何らかの行動を起こしているのであれば、「何もしない」という行為は欲望ではないのではないだろうか?

難しい問題ではあるが、私は、ある種欲望なのだと考えた。
自分自身で行動を起こすとき、最終的な決断は脳で下される。
それは何においてもどんな局面においてもそうだろう。
何かをしたいから何かをする。何かをしたくないから何かをしない。何かをしたいけど失敗したら恥ずかしいからしない。といったように、行動の前に何らかの渇望や迷いがあり、それらをもとに、脳がどう行動するのかを決める。何もしないというのも、この一要素に含まれるのだと思う。
つまり、何もしたくないという欲望のもとに何もしていないのだ。

「欲望」という聞き慣れたようで、案外聞き慣れていない言葉。
こう考えると、この言葉は我々が思っているよりも膨大かつ広大な、計り知れないものなのかもしれない。

多くの人は、「欲望」という単語を耳にすると、何か大きなことを成し遂げようとしているような、何か企んでいるかのような印象を抱くと思う。
だがそれらは必ずしも前向きな要素のみではない。
大きな夢を叶えるものもいれば、殺人、万引きなどの大きな罪を犯して人生を台無しにしているものもいるように、欲望には様々な要素が含まれる。
全ての人に存在している「欲望」、もちろん私自身の中にも多くの欲望があると思っている。


これまで欲望について触れてきたが、ここからは欲望と私自身の現状を関連づけて話を進めていきたい。

最近私は、サッカーをしていても、何気なく生きていても、どこか物足りなさを感じる。
これといって何が物足りないかは正直明確になっているわけではないが、どこか何かを欲している自分がいる。
これまでの人生において、ある事象に対して熱く明確に何かをしたいという感情を抱いたことはあったが、現状の私のように、思い描けない何かを欲している状態は初めてだ。
そのため、少し戸惑いを持ちながら、毎日を過ごしている。

私自身の過去を振り返ると、全てが一瞬の出来事で、一瞬一瞬を懸命に、そしてその時々で素早く情報を取捨選択し、目標を定め、その目標に向かってひたすらに突っ走ってきたように思う。
今よりも未熟で、考え方も一辺倒であったため、私がこれだと思ったことに対しては、何の疑いもなくただまっすぐに行動していた。
その過去は間違っていたとは思わないし、今までの全てが現在の私を形成しているため、多くのことを経験できてよかったと思っているし、後悔などしていない。
だがそのような過去を辿ってきた私が、今になって全く違った感覚に陥っているのはなぜか。
それは、大学に入学したからというよりは、ア式蹴球部という組織の一員になってからであるように感じる。
自分が意識しないうちに、多くの人の感性に触れ、そこから学び、様々な要素が自分の中の一部に落とし込まれていたのだと思う。自分が成長するために他人に触れようなんて考えは毛頭なく、これまでのア式蹴球部での日常の全てが、過去の自分からは想像できない領域へと足を踏み入れることを可能にしているのだと思った。

そう考えると、今までとは違った物足りなさという感情が生まれてきたことも不自然なものではなく、自然なもののように感じる。
新たな自分を発見させてくれたこの環境には感謝するばかりだ。

ただ、私の違和感の正体が何となくわかっても、それ自体が私自身の物足りなさを埋める何かにはならなかった。

物足りなさの正体は顔を出してくれず、答えは何なのか、自問自答する日々が続いた。毎日多くのことを考え、多くの時間で試行錯誤したが、一向に埋まらない何か。果たしてこの問題が解決される日は来るのだろうかとすら思った。答えの見えない日々の中で、やや無理矢理ではあるが、私なりのひとつの答えを導き出してみた。

「このままで良い」と。
現状維持(考え方も行動も全てが今まで通り)という意味ではなく、「何かを求め、何かを探し続けている、今この状況のままで良い」という意味だ。


今の私が物足りなさを感じているということは、何かを求めているということであり、何かの欲望を持っている状態だと言える。
先ほど欲望の話をしたと思うが、万が一今の私が何かに満たされてしまったら、どうなるのか。
満たされた私に満足し、行動をやめるだろう。つまり全ての成長のチャンスや手がかり、これから経験するであろう事象のきっかけを失うということになる。

「欲望がなくなった瞬間、人間は終わる」 これは、「満たされてしまったら、人間は終わる」とも言える気がする。
満たされても、次の欲望が湧いてくるとは必ずしも言えない。歳を重ねるごとに、経験したことのないことよりも経験したことがあることの数の方が増えてくる。いずれ満たされてしまうかもしれないと考えると、私が今置かれている何か物足りず、何かを欲し続けている状況はどこか理想的なのではないかとすら思える。

何かを求める、何かが欲しい、何かを見つけたい。こういう感情は人間の本能的なものだ。だが、いつその欲望がなくなってしまうかはわからない。生きている内に無くなる可能性もあるし、死ぬまで無くならない可能性だってある。いつ私の中から欲望が消えてしまうかわからないと考えると、今私が抱いているひとつひとつの欲望をしっかりと果たしていくことが大切なのではないだろうか。

ひとつの欲望を果たすことで、その過程、結果から学ぶことも大いにある。欲望が無くなってしまうのを恐れ、体を、心を動かすことができなければ、何の発見もなく現状維持のまま息絶えていくことになるだろう。ひとつひとつの欲望をしっかりと果たし、新たな自分の一面を発見していく。その積み重ねの集大成として、欲望が私の中から無くなった時、その時が私という人間が完成する時なのだろう。

今はまだ全く、未来の私を想像することができない。だがそれでいいのだ。

「未知数であるからこそ旅は面白い」

予め未来が分かっている旅に誰が出るだろうか。
旅は何も知らないからこそ胸の高鳴りを感じるのだ。
人間もそれは同じだ。経験したことがあることをわざわざ二度やろうとは思わない。新たな領域に足を踏み入れるから、また違ったものを発見していけるのだ。


自分の中で初めての経験であるため、今この状況に不安や迷いはあるが、決してマイナス方向に進んでいるとは思っていない。
小さな発見から、何かを学び、僅かながらではあるが、一歩、また一歩と歩みを深めることができている。答えは見えないが、この日々が正解だったと言える日が来るよう、自分の信念をしっかりと持って前に進んでいきたい。


私の中の満たされない何か。

それは正体もわからず、いつ顔を出してくれるのかもわからない。
だからと言って、私は私自身を探し続けることを決してやめようとは思わない。
常に前を向き、今から学び、自分の体の一部にしていくつもりだ。

今、この瞬間に私が私自身のために必要だと思うことを実行し続ける。
その積み重ねが、まだ見ぬ自分自身を見つけ出し続けてくれるはずだ。
全て私次第であり、簡単なことではないが、どこまで知らない自分をこの先見つけることができるのか楽しみで仕方がない。
貪欲に、常に野心を持って、私が私自身を大きくできるように欲望に常に忠実でありたい。


新たな自分を見つけるために

足りない何かを常に追い求めていきたい。

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柴田徹(しばたとおる)
学年:2年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:湘南ベルマーレユース


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