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「人生をかけた選択 〜Jのトレーナーになるために〜」 2年・江田祐基

「それでは最後に、スポーツ科学部卒業後の展望について教えてください。」

「はい、スポーツ科学部卒業後は鍼灸の専門学校に通い、鍼師の資格を取得したいと考えています。その後、Jリーグのトレーナーとして活動し、最終的には日本代表のトレーナーとしてW杯に帯同し、日本の勝利に少しでも貢献したいです。

「卒業後は鍼灸の専門学校に通うつもりなんだね。スポーツ科学部に転部したからといって、必ずしもトレーナーの道に進むことができるとは限らないよ。実際にトレーナーコースに進んでも、就職先を選ぶにあたって他の業種を選択する人も結構いるし。それでも君はトレーナーコースに行きたい?」

「はい! そのために同世代の人よりも2年も多く勉強してきたので。自分は転部するために今まで頑張ってきました。スポーツ科学部へ転部するタイミングはコース選択をする2年生に上がるタイミングでしかできないことを知っていたので、この日に懸けて試験を受けに来ました!」

「なるほどね、だいぶ苦労してここまできたんだね。(笑)」


これらの会話は、実際の転部試験当日の面接官と私の会話の一部である。


転部試験が終わった後、私はいつものように東伏見のグラウンドへ向かった。部室に到着し、着替えを済ませ、心を少し落ち着かせてから練習に参加した。
グラウンドに入ると、さっそく周りのみんなから

「転部試験どうだったー?」
「ちゃんと面接官に自分の想い伝えた? その前にちゃんと話せたの?(笑)」

などとイジられた。(笑)

私は
「自分の想いはしっかりと伝えられたと思うよ!」
と笑いながら答えた。


その2日後の3月9日月曜日、ついに合格発表の日を迎えた。スポーツ科学部への転部試験を受けた人は自分も含め、受験番号から考えておそらく2人だったと思う。「自分が落ちていたら最悪だな」と思いながら、Webサイトに掲載されている合格者受験番号表を確認した。


結果は合格。

自分の受験番号が載っているのを見た時、やっと、やっと、やっと今までの自分の努力や想いが結果として表れてくれたと思ってめちゃくちゃ嬉しかった。

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ということで、去年まで私は人間科学部に在籍していたが、現在はスポーツ科学部に在籍している。今までの自分の人生を振り返ると、この場所に辿り着くまでの道のりは決して平坦なものではなかった。むしろ、小学校時代から振り返ると様々な壁に直面し、その度に様々な選択をしてきた。それはサッカーでもそうだし、もちろん受験でも。


小学6年生の夏、全国少年少女草サッカー大会、通称清水カップという全国大会があった。次の試合に勝てばベスト16というところまでチームは勝ち進んだ。その次の相手はネオスFCという埼玉県のチーム。試合は相手に先制点を許したが、自分が同点ゴールを決めて追いついた。しかし、続くPK戦で自分がPKを外し、チームは敗退。結局その大会は255チーム中25位という結果に終わった。

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その数日後、最後の夏の大会である、さわやか杯を迎えた。チームは順調に勝ち進み、決勝トーナメントに駒を進めた。しかし、決勝トーナメントでチームは敗れ、都大会にすら出場できなかった。しかも自分がまたPKを外して負けた。


最後の大会が終わった後、私は中学受験をしようと心に決めた。というのも、冬の全国高校サッカー選手権大会で、当時、都立高校として初のベスト8進出という快挙を成し遂げた中高一貫校があった。私も「その高校でサッカーがしたい」と思い、受験という選択をした。
受験を決意した日から本番まであっという間だった。

結果は、不合格

掲示板に自分の受験番号がなかった時はショックだった。受験に落ちたショックというよりかは、「この高校でサッカーができないのか」という気持ちの方が強かった。

不合格の結果から約1ヶ月後、私は地元の中学校に進学することになった。

「今度こそ自分の行きたい高校でサッカーがしたい」
その想いで中学3年間を過ごし、本気で勉強と部活に取り組んだ。その頑張りが認められたのかどうかは分からないが、体育優良生徒として表彰された。
だが、高校受験ではその頑張りはまたしても結果として表れなかった。

都立高校を第1志望にしていたが、

結果は不合格

続く第2志望の私立高校も

結果は不合格

結果的に第3志望である高校に進学することになった。


そして、再び月日は流れ高校生になった。
「行きたい高校には行けなかったけれども、この高校でまた好きなサッカーを頑張ろう!」と思った。
しかし、やはり自分の思い描いていた通りにはいかなかった。去年のブログにも書いたが、高校2年生の夏、右膝の半月板を怪我し、手術をした。怪我は順調に回復し本格的なリハビリが始まった。リハビリは、治療やトレーニングも含めてほぼ毎日約2時間みっちりやった。その努力の甲斐あって、何とか練習に復帰することができた。久々にやるサッカーはとても楽しく、もう怪我人には絶対に戻りたくない、と思った。

しかし、その数週間後、私は再び怪我人に戻ってしまった。

今度は右足の人差し指を骨折してしまったのである。怪我をした瞬間、スパイクの中で何かが割れたような音がした感覚があった。自分でも「あ、これ折れたな」というのが分かった。案の定、スパイクを脱ぐとソックスの一部分が飛び出ているのが見えた。

「またリハビリをしなくてはならないのか」と、思うのと同時に、「また体力を戻さなないといけないのか」と思った。個人的には後者の方がきつく、気が遠くなる感じがした。

最終的には何とか復帰はしたものの、特に結果を残すことなく高校サッカーを終えた。


「また受験か、今度こそは行きたいところへ」
その想いで再び受験への道のりがスタートした。私が第1志望として目指したのは、早稲田大学スポーツ科学部。

「ア式蹴球部に入って学生トレーナーとして活動したい」

高校時代の怪我をした経験から、強くそう思うようになった。最初は選手として入部したいという気持ちもあったが、本当にやりたいことは何かを考えたときに「少し違うな」と思った。

最終的な結果だけお伝えしたいと思う。

現役時、結果は不合格

1浪目、結果は不合格

1浪目で不合格だと分かった瞬間、
「やっぱりおれは行きたいところに行けない人なんだなぁ。そういう運命なんだろうなぁ。。。」
と思った。そう感じてしまうのも無理はない。


今までの結果だけ振り返ると、

中学受験失敗。
高校受験失敗。
大学受験2年連続失敗。

ここまでの落ちこぼれはおそらくあまりいないと思う。受験後は数日間、放心状態だった。何をするというわけでもなく、ただ刻々と過ぎていく時間。1日がやけに長く感じた。
このままでは本当に自分が腐ってしまう、嫌でもこの先の進路について考えなくてはならなかった。

その時に真っ先に頭に浮かんだのが、

「早稲田大学スポーツ科学部に入って、ア式蹴球部で学生トレーナーとして活動したい」

その気持ちだった。いや、その気持ちしか出てこなかった。

その気持ちに目覚めてからの行動は早かった。
親に「もう1年チャンスが欲しい」と何度も頼み込み、何とか説得することができた。自分にとって、受かっていた大学に行かないという決断は苦渋の選択であり、それと同時に、もう一度受けてもまた受かる保証はない、というリスクを伴うものだった。


そして、再び月日は流れ、人生5度目の受験勉強がスタートした。ちょうどその年はFIFA W杯 ロシア大会の真っ只中だった。私は勉強の息抜きに、W杯の日本代表の試合を見た。日本の初戦の相手はコロンビア。おそらく日本中の多くの人たちは、「日本は勝てないんじゃないか」、そういった感情を少なからず抱いていた人が多かったのではないかと思う。しかし、その下馬評を覆し、見事コロンビア代表相手に勝利した。

その後、日本はグループステージを突破し、ノックアウトステージへと駒を進めた。日本が上のステージへと進むに連れ、テレビなどの報道でも日本の快進撃が数多く取り上げられ、国中が盛り上がっていた。W杯という世界的なスポーツイベントが、こんなにも日本中の人の心を掴むものなのかと思った。

そして、日本中が盛り上がりを見せる中、日本はベルギー代表との決戦の日を迎えた。その試合の中継は夜中から朝方にかけてではあったが、私は生放送で見た。試合は日本が2点を先制する最高の展開。見ていて楽しかったし、もしかしたら勝てるかもしれないと思った。しかし、最後の最後で逆転され、そのまま試合終了。日本初のベスト8進出とはならなかった。試合には敗れたものの、国中の人がその試合の行方を固唾を呑んで見守っていた。テレビを通しての観戦ではあったが、W杯独特の緊張感。そして、いよいよ始まるという高揚感。テレビ越しではあったが、今でも強く目に焼き付いている。

「自分もいつかこの舞台に立ちたい」

テレビで見ていて素直にそう思った。
日本のベルギー代表との試合終了直後、高校時代お世話になったトレーナーの方に
「自分もW杯にトレーナーとして帯同したいという想いがより一層強くなりました!」
と連絡したのを今でも覚えている。と同時に、受験へのモチベーションも一気に高まった。


そして迎えた本番当日。
もう後にも引けない状況だった。
「ここまで来たら、やれることを一生懸命やろう」
その気持ちで試験に臨んだ。

結果は、、、、、、、

合格

ただ、スポーツ科学部ではなく、人間科学部だった。
スポーツ科学部には、またしても手が届かなかった。
しかし、早稲田に受かったことに変わりはない。その直後、私はその日のうちにア式蹴球部にメールを送った。私は当初、スポーツ科学部でないと学生トレーナーはできないと思っていた。だから、本当は学生トレーナーを志望しているが、駄目な場合はマネージャーとして活動したいという主旨のメールを送った。
しかし、その翌日の返信には、学部関係なく学生トレーナーとして活動できるとのことだった。

その数日後、実際に練習を見学して次の週から仮入部することになった。そして、仮入部期間を経て、正式に学生トレーナーとして入部することができた。
2019年4月19日のことだった。


あの日から約1年7ヶ月、現在はスポーツ科学部に在籍しながら、学生トレーナーとしてア式蹴球部に所属している。ありがたいことに、1年生の時から関東リーグの前期3節、後期は全節、試合に帯同させていただくことができた。その中で失敗や成功を繰り返し、日々新たな刺激を得ることができた。そして、チームの歴史的残留の瞬間をピッチで味わうことができた。

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その瞬間から今日という日まで、どれくらい自分は成長できただろうか。まだまだ自分に甘く、1人の人間としても未熟。それに加えて人の言われたことに流され、自分の意思がブレてしまう。いわゆる、優柔不断ってやつだ。しまいには、周りの人からはおどおどしているように見えるとまで言われる。

結局、何も成長していなかった。
トレーナーとしての知識もそうだが、人としての常識みたいなものが欠けている。このままではア式蹴球部において、自分の存在価値を見出すことができない。どうしたらこの状況を変えられるのだろうか。自分の頭の中でグルグルしていた。


そんな夏のある日、郁也(4年・鈴木郁也)から、
「明日、足首のリハビリをしに正悟さん(笹木正悟さん・早稲田大学 ア式蹴球部 H17卒)のところ行くけどお前も来る?」
と声を掛けてもらった。

私は
「俺が行っても良ければ行きたい!」
と答えた。

次の日、郁也が運転してくれる車に乗って正悟さんのところに向かった。そこは大学の施設内で、私が今までに見たことがない機械や道具が備えられていた。早速リハビリが始まり、リハビリは約1時間ちょっとで終了した。

その翌週から、毎週月曜日は郁也に協力してもらって正悟さんのところに通い続けた。実際にリハビリの見学をすることで、新たな気づきや発見がある。すかさず大事だと思ったことはメモ帳に記した。

そして、たまたま正悟さんから別件で横浜に行くという話をいただいた。それは、横浜市スポーツ医科学センターに行って、ある選手の対応をするというものだった。具体的には、私がその選手の見学を希望すれば見学できるようにしますがどうですか?、という内容だった。

私はすぐに「是非行かせていただきたいです!」と返事をした。

次の日、その選手の見学をしに横浜市スポーツ医科学センターを訪れた。医科学センターにはア式の学生トレーナーの先輩にあたるOBの方がリハビリスタッフとして勤務されている。正悟さん繋がりでその方を紹介していただいた。また、選手の方も私が見学したいという気持ちを汲んで快く見学を許可してくださった。

その選手の診察後、早速リハビリが始まった。元々リハビリの見学は午前中だけの予定だったが、

私が
「是非午後も見学させていただいてもよろしいですか?」

とOBの方にお願いしたところ、その方は、
「いいですよ!時間は大丈夫?」
と逆に心配してくださった。もちろん選手の方にもお願いし、午後のリハビリも見学させていただけることになった。


そして、その翌週から毎週月曜日、その選手の方の協力のもと、今度は横浜市スポーツ医科学センターへ通うことになった。午前は10時から13時まで、午後は14時から17時頃までリハビリの見学をさせていただいた。リハビリでは、自分の知らないトレーニングメニューを教えていただいた。また、実際に選手の方のリハビリをサポートさせていただくことができた。その時間はどれを取っても自分にとってはとても貴重な時間であり、メモ帳を片手に気づいたことやポイントなどをメモした。

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そして、約1ヶ月間に渡ったリハビリの見学期間を終えた。OBの方だけではなく、見学を快く受け入れてくださった選手の方にはとても感謝している。そして、こういった外の環境に出るきっかけを与えてくださった正悟さん、郁也にも感謝している。本当にありがとうございます。

現在はというと、継続してア式の選手と一緒に医科学センターを訪れている。実際にそこで学んだことを、東伏見の現場でリハビリの選手であったり、選手のウォーミングアップに取り入れたりしてアウトプットしている。そこで私なりに試行錯誤し、トライ&エラーを繰り返している。

正悟さんに後日改めて見学したことを報告すると、正悟さんからこんなお言葉をいただいた。

「東伏見でしか学べないことはたくさんあります。しかし、東伏見にしかいないと学び損ねることも、またあります。外の世界にも目を向け、情報をキャッチするアンテナを大切に。もちろん、東伏見の活動をベースにしながらね。そして、色んな人との出会いも大切にしてください。それが一番の財産になるはずです。」

私は現在、この言葉の持つ意味を身にしみて感じている。私が今こうして学生トレーナーとして活動できているのは選手がいるからこそであって、選手がいなかったら私はトレーナーとして活動することはできていない。そう考えると選手一人ひとりに対してリスペクトの気持ちを持つのは当然のことであるし、その気持ちを忘れてはならない。だから私は選手のことを常に気にかけ、選手目線でコミュニケーションを取るように心掛けている。

「今日膝の調子はどう?」
「足首良くなった?」
「肩の調子はどんな感じ?」
「腰は昨日と比べてどうなん?」

トレーナーとして当たり前のことではあるが、この当たり前のことがいかに大切であるかを学ぶことができた。それだけでも私が外に行動した価値があると思う。

また、選手の目線に立って行動することの大切さも学ぶことができた。例えば、実際に選手が行なっているフィジカルメニューの走りを自分でもやってみる。そうすることで、選手がどれくらいの強度でやっているのかを肌で感じることができ、選手に対して声を掛ける時も相手の気持ちになってアプローチすることができると思う。だから私は夏の期間、1人黙々とグラウンドを走ってトレーニングをしていた。

さらに、先に述べた自分を少しでも変えるために、9月から筋トレも始めた。というのも以前、高校時代にお世話になったトレーナーの方にお会いした時、「大きいトレーナーの方が、包容力があって選手に対して安心感を与えることができるかもしれないね」という話をされていた。それならばということで、見た目からでも少し変えることが、過去の自分を変えることに繋がると思った。

そして、できる限りカテゴリー関係なく練習に帯同するようにしている。それもまた当たり前のことではあるかもしれないが、選手一人ひとりのコンディションの状態を自分の目で見て確認し、把握しておきたいからそうしている。まだまだ自分にできることは少ないが、少しでも過去の自分を変えたいという気持ちで取り組んでいる。それが選手に対して良い影響を与えられているかどうかは別として。



私は今までの選択を決して後悔はしていない。中学受験に失敗した時も、高校受験に失敗した時も、そして大学受験に失敗し続けた時も、自分の人生は自分で選択してきた

確かに、はたから見たら

中学受験失敗。
高校受験失敗。
大学受験2年連続失敗。

というふうに落ちこぼれのように思えるかもしれない。実際、私が入りたかったスポーツ科学部に転部するまでには、大学受験する時から考えると約4年近くかかってしまった。

しかし、その間に私はある力を身につけることができたと思う。

それは、
「あるひとつの目標に対してどんなことがあってもブレずに努力し続け、粘り、そして根気強く耐え続ける力」

苦労した分、人の痛みに共感することができると思う。これらのことは強いていうなら、他の人にも負けないと自分が自信を持って言える唯一の武器である。逆に、今までの私の人生は、私にしか歩んで来ることのできない特別な道だったのかもしれない。そう考えると、私はとても貴重な経験を積んでこられたのかなと思う。



最後になるが、私は冒頭の面接官との会話の一部にもあったように

「将来はJリーグのトレーナーとして活動し、最終的には日本代表のトレーナーとしてW杯に帯同し、日本の勝利に貢献したい」

という叶えたい大きな夢がある。その夢を叶えるためには血が滲むような努力をしなくてはならない。

今の自分じゃ到底無理だと分かっている。
何を馬鹿げたことを言っているんだ、と思う人がいることも痛いほど分かっている。

ただ、これだけは言いたい。

「人生において何かを目指すのに遅すぎることはない」

これは私の実体験であるし、ほんの少しは体現してきたと思っている。

ダサくてもいい、這いつくばってでもこの夢の実現に向けて努力していきたい。

もちろん選手に感謝し、リスペクトしながら。



江田祐基(えだゆうき)
学年:2年
学部:スポーツ科学部
出身校:日本大学鶴ヶ丘高校


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