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芸術文化の資金調達について研究している橋本裕介さんと考えた大学演劇サークルのクラウドファンディングの話_あのとき、私は(飛行機に乗って)

はじめに


あのとき、私は(飛行機に乗って)とは、2021年から早稲田小劇場どらま館のnoteにて連載されていた記事企画の特別出張版です。海外を拠点に活動されている方を対象に、「学生時代、何をしていたか?」を聞いています。

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今回のインタビュー

④橋本裕介さん(Berliner Festspiele チーフドラマトゥルク)

1976年福岡生まれ。京都大学在学中の1997年より演劇活動を開始、2003年橋本制作事務所を設立後、京都芸術センター事業「演劇計画」など、現代演劇、コンテンポラリーダンスの企画・制作を手がける。2010年より京都国際舞台芸術祭を企画、2019年までプログラムディレクターを務める。2013年から2019年まで舞台芸術制作者オープンネットワーク理事長。2014年から2022年までロームシアター京都所属。2022年9月よりベルリン芸術祭チーフ・ドラマトゥルク。文化庁「新進芸術家海外研修制度」にて、2021年3月〜2022年3月ニューヨークに滞在。

芸術との出会い

ーまず、橋本さんが舞台に興味を持ったきっかけは何でしたか?

僕は、自分でダンスを習ったり子供の頃に演劇部に入ったりするようなことは全くなくて、むしろそういうことをちょっと冷ややかに見ていたような立場だったんです。高校の頃は法学部か経済学部に入ろうと思っていました。90年代半ばの当時、まだギリギリ日本の経済がいい感じで、 霞ヶ関の役所か大きな企業に就職すれば一生安泰だっていう風に思われている時代だったので、自分もなんとなくその方向に行って、いい暮らしがしたいぐらいのことしか思っていなかった。しかしそのためには熾烈な競争があるわけですよ。自分はその競争の中でうまくいかなくて 浪人をすることになって、浪人している時に、ある雑誌(※1)に出会ったんですよね。

※1 季刊 InterCommunication(インターコミュニケーション)

自分が受験勉強のために読んでいた文章を書いている学者たちが、雑誌の中で現代芸術、それも舞台芸術を批評していることに驚きました。今の時代のことを批評的に考える人たちは、 芸術についても関心を持っているということを知ったのがその時初めてだったんですよね。
それがきっかけで映画や美術館に行くようになったりして、最終的に出会ったのが舞台でした。で、観た舞台は山海塾(※2)っていう日本の舞踏のグループです。僕自身、舞踏がどんなものかっていうのはその時は全く知りませんでした。

※2 山海塾
1975年に主宰・天児牛大によって創設された舞踏カンパニー。
1980年より海外公演を開始し、主にフランスと日本を創作活動の拠点として、およそ2年に1度のペースで新作を発表し続けている。

何より驚いたのは、そういう前衛芸術運動(※3)をしていた人達っていうのは、従来の西洋を模範とした近代芸術の延長としてではなく、自分たちが自分たちの面白いと思う価値基準で新たな芸術様式を作ったということです。 西洋近代は長い年月をかけてある美しさの基準を作り上げてきたわけですよね。 その決められた基準の中で、いかに高いクオリティを出すかっていうことが近代までの芸術活動のスタンダードだったりする中で、自分で一から面白い、美しい、あるいは優れていると思われる価値を生み出せるっていう事を知ったのがその時でした。

※3 前衛芸術
おもに芸術、文化、政治の分野における実験的、革新的な作品や人々のことを指す。

それで僕は現代芸術って面白いなっていう風に思った。なぜならば、 当時の自分っていうのは受験勉強をしている浪人生だったので、 常に模擬試験みたいなものの中で自分が何番目にいるかという、 他人が定めた尺度の中で自分を意識する生活だったけれども、一旦その尺度を捨てても生きていくことができるかもしれないという風に思った。それが舞台に興味を持ったきっかけでした。

ーさまざまな芸術に触れるようになった中でも、特に演劇に興味を持ったのはどうしてですか?

僕は高校の時に器械体操をやっていて、舞台上でパフォーマンスする人の身体感覚がイメージできたことが大きいですね。音楽もパフォーマンスだけど、音楽の場合は楽器を演奏しているわけであってメディアが楽器なんですよね。 だけど演劇やダンスはメディアが身体。舞台にある身体そのものが表現の一部になっています。
例えば、アフリカ系アメリカ人の人が踊っている姿を見るだけで得られる情報は多い。 あるいはドラァグクイーンみたいな着飾った人が自分のセクシュアリティのことを表現している。 それは、その人の存在そのものが表現の一部になってるわけですよね。そういう身体自体が醸し出す、身体がそこにあるということだけで発してしまうメッセージが含まれているところが、舞台芸術の興味深いなと思ったところです。

ーなるほど...!

それで、大学に入ったら舞台に関わることをしようと思い、文学部に志望を変えました。
ただ入学した京大の様子は、それほど前衛を追求しようみたいな雰囲気ではなかったかな。 芸能界に近付いていくような形で売れたらいいな、みたいな雰囲気でやっている人たちがちらほらいた。あくまで学生サークルとしてやっている人と、プロになりたい人の両方ともいたけれど、プロ志望の人のビジネスモデルっていうのが、昔に言うところの「小劇場すごろく」(※4)みたいなものが頭のどっかにあって。

※4 小劇場すごろく
キャパの小さい劇場から少しずつ大きい劇場へと上演場所を映していく、会場の大きさが出世の証という考えに基づく活動スタイル。ゴールは本多劇場や紀伊國屋ホールとされることが多かった。

ーその雰囲気は今も一部あるなと思っています。例えば小劇場すごろくに近いような夢「〇〇劇場を踏みたい」「〇〇劇団に出演したい」など。私のサークルにも芸術的なもの、商業的なものが好きな人などいろんな人がいます。けど学生の演劇サークルとしてはそれでいいのかもしれないと思ったり...。やはり当時は商業に偏っていましたか?

関西においては商業的なものに偏ってたと思う。 今でこそ関西方面でも海外と繋がる場所があるけれど、その当時は海外のパフォーミングアーツとネットワークを持つのは東京しかなかった。だから演劇を続けたい人たちは商業的な道しか想像ができなかった。

ー当時はどのような団体が憧れられていましたか?

劇団新感線は伝説のように伝わっていた。あとは今はないけど惑星ピスタチオという団体があって、深夜だけどテレビ放送されたりとか東京公演も頻繁にやっていて、注目されていましたね。
自分が目指すものとは違う方向性のものを追求している人たちが多く、最初の2〜3年はどうしたらいいのかなと思いながら続けていました。そんな中でも、いろんな舞台に関わっている中で、お客さんを集めることのノウハウが磨かれていったんです。

ー吉田神社の話、私好きでした。(※5)

(※5 別インタビューより)
その後、劇団で野外劇をやることになったんです。それも吉田神社で。たまたま僕は当時神社の近くに住んでいたので、「ちょうどいいから神社に交渉へ行って来て」と言われて、神社の宮司さんのところに開催の交渉に伺ったんです。それまでも、舞台に立つ他にチケットもぎりなど裏方スタッフのようなこともしていましたが、場所を押さえたり、企画したり、宣伝したり、といったことは全くの未経験でした。でも、このことが今やっているプロデューサー的な仕事の原点になりました。本当に初めてだったので、この時はもう資料も何も用意せず、手ぶらで行ってしまったんです。そうしたら宮司さんに「君が何者なのかどうかも分からない状態じゃどうしようもない、せめて企画書を作ってきたまえ」と指導を頂いてしまいました(笑)それから持って行った企画書もチェックして頂いて何度も書き直して…吉田神社の宮司さんが、僕にとってプロデューサー業の最初の師匠といえるかもしれません。(https://www.kyotodeasobo.com/art/static/kotoba/2013/10/07.htmlより引用)

いわゆるパブリックスペースで公演することになって、 演劇を知らない人たちとの接点が増えたおかげで、その人たちに説明する言葉が磨かれ、結果的に公演が成立しただけではなく、地域の人たちも関心を持って見に来てくれたことが、ある種の自分にとっての成功体験になりました。そういう活動を続けていると、「どうもあの劇団の制作の橋本は客を集めるのが上手いらしいぞ」 みたいな感じになってきて。で、自分の劇団の公演が忙しくない時によその劇団の広報の仕事を手伝うようになっていきました。

自分で仕事を作っていく過程

そんな中で「砂連尾理+寺田みさこ」というダンスのアーティストと出会ってね。彼らが海外にも公演をしに行くようになった。それがきっかけで自分も日本以外でも何らかの形で関わって仕事をすることに意識が向くようになってきました。そこでようやく、自分が最初に舞台芸術に出会ったきっかけになる雑誌に書かれてあったような、批評に耐えうる芸術表現としてのパフォーミングアーツにだいぶ近づいてくるようになったなと。それが京都に来て5年とか6年目ぐらいですね。 でも、そういうアーティストのツアーマネジメントをするうちに、だんだん自分でゼロから企画を作ってみたいと思うようになって。 京都芸術センターとか、当時の京都造形芸術大学(現在の京都芸術大学)の春秋座という劇場にいろんな企画を持ち込むようになりました。
劇場のような場所って、作品発表をするだけじゃなくて作品を作る上でもいい場所だなと思っていて。ここ20年ぐらいで全国的にもだいぶ稽古場が増えてきたと思うんだけれども、昔は稽古場が非常に貧相で、よっぽど老舗の劇団以外は自前のアトリエを持ってないから、レンタルスペースを借りないといけなかった。舞台美術は持ち込めないし、照明のテストもできない。でも劇場だったら全部揃ってるわけだから、いい作品を作るためにはできるだけ本番に近い状態でクリエーションをするっていうことが重要だろうという風に思っていて。だから劇場でもっと作品を作りませんか? というようなことを僕は京都でいろんなプロジェクトを通じて提案して実践してきました。
ただ費用対効果という意味においては決して良くない。こういうプロジェクトを続けるためには、もっと注目されてお金が継続的に集まるような仕組みにしなければと思っていた。しかし、なかなか1本の作品を見るために京都の外からは、支援のために評価をする人が来てくれなかった。 そこで、ある週末に京都に1泊2日来たらそこでまとめて作品が見られるようにして、その中に海外から来た日本初公演の作品や、京都で作った作品とかも含めてやれば、遠くからでも人が来るんじゃないかなという風に思って、フェスティバルという形式を取ろうという風に思いました。それがKYOTOEXPERIMENTを立ち上げた1つのきっかけですね。そうでもしなければ、自分の仕事がない状況だったんだよね。

ーKYOTOEXPERIMENTを行う前から劇場に企画を持ち込むなど、自分で仕事を作っておられましたが、それは自分が実現したいことをやる場所が他になかったということが大きいのでしょうか。

うん。なかったし、仕事を頼まれたりしたこともなかった。そういう意味では今回このベルリンでの仕事が人生で初めてちゃんとした仕事のオファーだったね。

ー自分で仕事を作っていく姿勢が本当にすごいと思いました。

自分の経歴を振り返って紹介するとそう言ってくれる人が多いんですけど、そうしないと食いっぱぐれてたから必死になってたんだよね。あとは既得権を持っている人が気に入らなくて、その人から予算や権限を奪い取るためにその人より面白いことをプレゼンしようと思っていたんです。

ーちょっと邪悪な部分からのエネルギーが橋本さんを本気にさせたのですかね...笑

邪悪なのかなあ。自分にとっては大真面目ですよ。でも見方によっては独善的だよね。自分がやった方が上手くいくと思っていたということだからね。

KYOTOEXPERIMENTに携わった10年間

無事KYOTOEXPERIMENTはスタートして前と比べられないぐらい大きなお金が動くようになって、お客さんも増えたけれど経営的に不安定だからどうしようかなと思っている時に、京都市が京都会館という古い劇場施設をリニューアルするというニュースが流れてきて。どうせリニューアル するんだったらそこをKYOTOEXPERIMENTのメイン会場にしたいと提案していったわけです。そんなやり取りをしているうちに僕も職員になりました。だから今までは先鋭的な芸術のことだけを考えていたのが、伝統芸能、クラシックバレエ、オペラ、あるいは地元の人々や子供向けの演目などにも関わるようになり、一気に舞台に関しての見方が広がって勉強になったと言える。
ロームシアターでもプログラムディレクターという肩書きで仕事をしており、 ロームシアター京都の実施事業のプログラムを作っていました。しかし、作品やアーティストを選ぶ権力が僕にかなり集中してしまって。文化の世界において、それは多様性が失われていくということだから、これは早く変えないとまずいだろうなと思っていた。
京都に住んでいる人たちは、京都にいれば、KYOTO EXPERIMENTとロームシアター京都のプログラムを合わせて2ヶ月に1本以上のペースで海外の作品が京都にいながら見られることになります。とはいえ世界中であまたある作品の中から選んできて、10本ぐらいの作品を紹介するっていうのはものすごく責任あることだと思うんですよ。 だって一般の観客に「これが今フランスで代表的なダンスのアーティストの作品です」って紹介したら本当にそうだと思っちゃうからね。それを一人の価値観でやるのは良くない。それで10年経ったらやめようと思って、今の3人をうまく見つけて任せることができた。
本当はそのあともそのままロームシアターで仕事を続けるということを考えていました。 とはいえ結構働きづめだったのもあって、一旦落ち着いて勉強したいなと思っていたんです。 海外で勉強しようかなと思っていた時、2019年にあいちトリエンナーレ2019で「表現の不自由展・その後」がありました。
日本の今までの文化政策が誤魔化してきたことの反動がこの事件かなという風に思った。この国は文化を支援するお金をここ20年増やしてきたけれども、でも増やすための目的っていうのが、表現の現場と相容れるものではなかったってことだよね。つまり、僕は現場ではどんなものでも表現されるべきだっていう風に思っていたし、表現の自由は保障されるべきだ思っていた。もっと言えば、現代の日本の社会に対して批評的な眼差しを与えることが芸術表現として重要だとすら思っていたけれども、まあはっきり言って国からしたらそんなことは必要ないと。観光客が喜ぶような当たり障りのない芸術さえやってくれればいいんだと。 そのために予算を付けているんだっていうミスマッチが一つ明らかになった。 かつ、表現の自由が侵害されているということに関していろんな議論を起こしていく中で、芸術の外にいる一般の人たちは非常に冷ややかで。「自由に表現したかったら自分の金でやればいいじゃないか」みたいな声が非常に多かったわけですよね。 そこで気づいたのは我々や我々の先輩に当たる人たちは努力をして政府やいろんな自治体と交渉して文化予算を増やしてきたけれども、その原資っていうのは税金で、一般の人たちから集めたお金であると。だから、政治家たちに折衝するのと同時に、社会的な理解を得る努力をもっとするべきだった。それが足りなかったのが今回のような事件につながったのではないかと考えたんです。

芸術の生態系

それで研修するならどこがいいかなと思った時に、民間寄付によって多くの芸術活動が支えられているアメリカに行こうと決めて、2021年の3月から2022年の3月まで滞在しました。
いろんな関係者にインタビューをして、資金調達の方法というよりは、どういう考え方でお金を集めているのか、どういう考え方でお金を提供しているのかとか、そういう仕組みの元になる考え方をインタビューを通じて考えた本を最近出版できました。(※6)

※6 橋本さんが出版した本:『芸術を誰が支えるのかーアメリカ文化政策の生態系』

京都に帰ったらそれを活かして日本の文化政策を前進させるようなことをしようと考えていたんですけど、アメリカ滞在の後半に今のボスから電話がかかってきて、ここに来ることになりました。
ドイツは舞台芸術にとって天国ですよ。日本とは比べ物にならないくらい税金が投入されているし、商業的なものと芸術がちゃんと分かれているので、人々は消費するっていう意味じゃない姿勢で劇場に来る。ものを考えるためとか、議論するために劇場に足を運ぶ。 「推し」を見に行くとかではない。その辺が日本はごっちゃで、それは面白いとも言えるけど、 僕のような立場だと仕事しづらい。

出張でアテネに行った時に訪れたデュオニソス劇場
橋本さんからのご提供

ではなぜ税金がふんだんに投入されているドイツに来たかと言うと、1つは今のボスから誘われた時に僕が今までやってきた仕事、パフォーミングアーツのプログラミングとかキュレーションというものの専門性を評価してくれたっていうことが自分にとって非常に嬉しかったからです。
日本ではそういう職能は確立されていないし、存在すら全然認知されていないと思うんですよ。でも僕は必要だと思っていて。 たとえ日本で商業的なものと芸術的なものの境界が曖昧だったとしても、少なくともたくさんの人々が評価をしたり楽しんでいる表現の元をたどれば、どっかで誰かが実験して試して、評価を受けて磨き上げられたものが一般の人たちも楽しめるような表現形態へと結びついている。それを考えたら、どっかで誰かが「この表現はこの先の財産になっていくかもしれない」っていうものを見つける必要があるんじゃないか。そうしないと永遠に同じことをやり続けることになる。逆に最初の実験的な部分をアーティストの手弁当でやらせておいて、大きな資本を持っている人がその表現を見つけてそれをただ同然で搾取して自分たちのものにするとか、そんなことをしたらダメなわけですよ。それでは芸術の生態系が成り立たないので。
大きな資本が遠慮なく新しい表現を取り入れていくためには、きちんと実験をする部分に公的なサポートが入るべきだろうと。そしてサポートを当てるべきものを選ぶ時にキュレーションとかプログラミングの手腕が必要だろうという風に思っています。
KYOTOEXPERIMENTをやっている時に役所の人からは、「これ橋本さんの趣味でしょ」 ってよく言われました。「僕の趣味であるとか好き嫌いっていうことではなくて、今どういう表現を京都で紹介すべきかっていうことを考えて、今年はこういうテーマを持ってそれに基づいてこういう風にプログラミングしてるんですよ」って毎回言っても、その程度しか伝わってなかったわけです。たまたま業界に人脈のある人間が仲間たちを集めてやっているフェスティバルくらいにしか思われていない。そういう視線をずっと感じていて、客観的に知識と経験に基づいて作品が選ばれているということを認められる世の中にならないと生態系の部分で新しい表現を発掘したり育てる部分が弱くなる。だから、ボスに今までの職能が認められたことが自分にとって重要だったんです。

アメリカの文化政策の資金調達

ー『芸術を誰が支えるのかーアメリカ文化政策の生態系』という本について、内容を少しご紹介していただけますか?

まず一つは、支援の仕組みは草の根的であるってことだよね。
つまり、支援が必要だと思う人が声を上げて、それがだんだん動きになりお金などをサポートする仕組みが出来上がってくる。どこかで誰かが設計図を作って、芸術支援の枠組みができているということではない。それはautonomy(自立性)を非常に重要視しているという点でいかにもアメリカっていう感じがする。だからアーティストや劇場、フェスティバルは常にお金集めばかりやっている。何人かの芸術監督は、この仕事で芸術的な仕事は10%だ、残りの90%はお金集めだと、冗談混じりに言っていた。
もう一つは、大金持ちや大金持ちが作った財団が多くの支援をしており、その支援が適切に現場に行き渡るために、アメリカでは中間支援組織と呼ばれる組織が非常に有効に機能している。中間支援組織は、アーティストのポエティックな言葉を戦略的な言葉に置き換えて、現場のニーズを文化政策として提言する。そして大金持ちが作った財団は、そのストラテジーに対して投資に近い意味合いで寄付をする。そして受け取ったお金を中間支援組織は自分達の運営費を差し引いて、再配分する形で現場に渡している。 もちろん有名になったアーティストは、直接支援者を見つけることもあるけれど、駆け出しのアーティストはいきなり大金持ちとは出会えない。そういう時に芸術のジャンルや地域ごとの中間支援組織が、できるだけきめ細やかに支援を現場に行き渡らせる機能を果たしている。日本にできつつあるアーツカウンシルがそのような形で発展させていったらいいんじゃないかと本の中では紹介している。今は文化庁の補助金を直接劇団に渡しているけれど、そうなったら東京の劇団ばかり支援されるに決まってる。だからもっとその地域の実情に合わせて地域の文化が発展するように、きめ細やかにお金が流れていくようにしなきゃいけないんだけど、そういう仕組みを改めるためにも、いろんな地域にあるアーツカウンシルがアーティストや劇場にお金を再配分していくのがいいんじゃないかという提案をしています。
アメリカにいて、芸術の生態系がある程度成り立ってるなと感じた。 つまり、単にサポートがお金があるところからもらうところへ一方通行で流れているのではなくて、アーティストはちゃんとお金を出す人たちに還元をする意識を持っている。社会の一員であるという意識をアーティストや芸術団体は持っていて、そのことを伝えていく努力をしている。だからこそ支援する流れがあり、流れを良くするために中間支援組織がいる。有名になったアーティストは生態系の一部として、お金がより集まるような動きもしたりする。 例えばビジュアルアーティストであれば、自分の作品を中間支援組織に寄付し、中間支援組織はそうした寄付を元手にパーティーやオークションをして資金調達をして、資金をもたないアーティストたちに再配分している。アーティストだから単に支えられる立場だということではない。

ーアメリカでは自分の活動を続けるために常に社会への還元を考える必要性がありますが、日本ではそういった緊張感なしに芸術活動が行われている現状があるのでしょうか。

芸術に限らず日本の社会って、市民社会が未成熟だと思った。本来市民社会っていうのは、自分たちが社会の一員で、主体的に参加することで社会が回っていくということだけれども、日本では「市民」がサービスを受ける側であることに慣れすぎている気がするんですよね。

Theatertreffen(ベルリン演劇祭)のオープニングの様子。芸術監督であるマティアス・ペースの挨拶に多くの人が聞き入る。

大学の演劇サークルが行うクラウドファンディングについて

ーありがとうございます。
(ここで時間がなくなりそうになる)
もう一つだけお聞きしたいことがあります。
私は昨年、所属するサークル(劇団くるめるシアター)で新しく入ったサークル員と一緒に公演をする新人公演の主宰をしました。私のサークルは、1人 2〜3万ぐらいお金を出し合って公演をするんです。ただ、入ったばっかりの1年生にいきなり高額な負担をさせるのは私はすごく嫌だったんです。
そこで、クラウドファンディングのようなものをしてSNSで一般の人に向けて支援を募りました。そうしたら卒業した先輩や演劇関係者、全然知らない方も含めて支援してくれて、後輩のノルマが完全になくなるくらいには集まりました。
しかし、その時に学生の演劇サークルがそういった支援を募ることに対して批判が起こりました。演劇サークルは自主的な活動で、やりたい人がお金を出し合って公演することは健全なのに、「お金をください」という姿勢がサークルにあることはある種商業的になってしまうのではないかと。私はもらえるならいいじゃんと思っていたので批判が出たことは想定外で、結局どうすればよかったのか結論は出ていなくて。資金調達を研究された橋本さんがこのことに対してどのように思うのかをお聞きしたかったんです。

アメリカでは非営利の団体の中でも、公益的なものか身内的なものかで法人のステータスが違うんですよ。芸術団体は「公益に資する」というステータス。 もう一つは、大学の同窓会とか地域コミュニティクラブ活動みたいなもの。それらは不特定多数に利益があるわけではないけれども、一定のコミュニティの人たちに対して、コミュニティがいい形で醸成されるという意味で必要だと捉えられている。だから資金調達として寄付行為をしたらある程度税制の優遇が得られたりする。
大学で脈々と学生の自主的な活動が続けられているっていうことは、巡り巡って教育的な効果があり、その効果は大学全体の歴史にとって文化になっていくものであると。早稲田大学っていうのは日本の大学の中でも非常に重要な位置を占めているから、その大学の中で学生が自主的な活動をすることは、巡り巡って社会にとって意味のあること。だから別に資金調達をしてもいいと思う。ただ、誤解を招かないようにするためには、 例えば手始めにサークルOBなどの同窓会に呼びかけるなどすれば論争は起こりにくかったかもしれない。
人からお金を集めたから商業的になるということではないと思う。大学が持っている公共性とそれに所属しているということが、 大学文化というのを支えていると思うから、その大学コミュニティに属している人が支えることは、ある種の生態系として大学が続いていくことにつながる思う。

ーわたしの行ったクラウドファンディングは、公益的なものか身内的な物かで言えば後者で、SNSで周知するよりも先にコミュニティ=サークルに呼びかける向きのものだったとわかりました。私のサークルではOB、OGと現役のサークル員の繋がりがないと言ってもいいくらいで、困った時に「OB、OGに頼ろう」という発想が出てこなかったのだと思います。サークルのメンバーには、正直に言うとそういう繋がりは面倒だと思っている人も多いかもしれません。でももし私が卒業したあと、後輩から資金繰りに困っているという相談を受けたら間違いなくお金を出しますね。
私が行ったクラウドファンディングは一時的なものでしたが、もしOBOGと繋がる窓口のようなものを確保することができたら、私が卒業したあとにもその窓口が続き、サークルが幅広いサポートを受けられる可能性を残すことができます。そうなればやっと、私がやりたかった取り組みが私の独力ではなくサークル全体のものとして続くのかもしれないと感じました。

インタビュー日:2023年5月22日

あとがき

橋本さんにお話を聞くのは今回のインタビューで実は2回目でした。2月に私は有楽町アートアーバニズムプログラムYAUのプログラムの一環である「ファーストライン」に参加しており、その中のレクチャーで橋本さんがオンラインでお話ししてくださる日があったのです。その時に、橋本さんの学生時代の経歴や京都での仕事のお話などを聞き、とても興味が沸きました。
その後連絡を取り、ベルリンで実際にお会いすることができました。中華料理をご馳走してもらいながら現地での生活のことや京都のことなどを、レクチャーよりも砕けた会話の中で話してくださいました。橋本さんはずっと京都で活動しており、東京を目の敵にしていた時期もあったそうです。京都でいいものを上演していても「東京でやってよ」と言われ京都に観にこようとはしない人たちに、無意識の東京中心的な思考を感じる、といったお話は東京育ちの私も「うわー自分もそういうところあるかも」と思わされました。そして、私が卒業後の進路に焦りを感じていることを相談すると、焦って現場に出るよりも学べるうちは学んだ方が良いというアドバイスもいただきました。
「学ぶのに遅すぎるということはなく、思い立った時に行動に移せば良い」
あと5年くらい経ったらこの言葉の深さをさらに感じることができそうな気が今からしています。

Theatertreffen der Jugendの会期中のBerliner Festspiele。

そのあとTheatertreffen der Jugend(学生向けのベルリン演劇祭)の演目を一緒に観に行きました。この日は雑談で終わってしまったので別日にインタビューさせていただき、上記のお話を伺いました。橋本さんは今までさまざまなインタビューを受けたことがあり経歴については既出のため、せっかくなら直接しか聞けないようなことも聞きたいと思いサークルでの経験のことなども相談しました。私はインタビュアーとしては恥ずかしくなるくらい未熟ですが、今の私の目線からの疑問をぶつけられたのは現地でお会いした甲斐があったなと思い良い経験になりました。たくさんの人に届きますように!!

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