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【短編小説】逆境のダガーナイフ episode 3【完結】

episode 2→https://note.com/wanpakutsk/n/n3353e50c9e79?sub_rt=share_pw

 人間の身体を殴打すると、酷く不快な音がする。動かなくなった岩井を玄関先に引きずり出したところで、私は力尽きた。夏のアスファルトには湿り気があった。

 向かいの家に、いるはずの唯華は姿を見せなかった。彼女が一枚噛んでいることは間違いなく、私を貶めた黒幕もまた、彼女自身であることはもはや疑いようのない真実であった。

 傍にある死体の足に突き刺さったままのダガーナイフを抜き取り、もうひと仕事と洒落込むことも考えた。が、動かない。身体がへばったというより、心が折れた。もうだめだ。

 思えば、何もない人生だった。人に愛されたことはないし、多くの人間が見つけるか、或いは見つけられずとも収まっていくはずの型が、私には何もない。天使の背中に誘われ、辿り着いた見知らぬ町に、嫌になるほど溢れているチンピラも、半グレも、売人、娼婦、プータロー、何も変わらない。あまつさえ、追いかけていたはずの天使は、つまらない怪士だった。

 そしてふと考えた。唯華は、私の死を願うだろうか。それならそれで、悪くないと思えた。きっと、岩井と私の死体を見下ろすとき、彼女は一瞬だけ、本当の顔を晒してくれるだろう。呆れた女だが、美しさだけは真実だった。

 朝の薄明が差し込む頃、私は仰向けになったまま目を閉じた。眠りにつきたい気分だった。暗い町のどこから人がやって来ても、誰がやって来ても、もはや何の脅威にもならない。命の炎は間もなく消える。ひとつのちっぽけな物語が、あと少しで幕を閉じる。そんなものだ。特別なことじゃない。

 都会の隅の、名前もない舗道の上で、傷だらけになった男の死体と、横には空っぽな男の死体。明日テレビのニュースになっても、若いアナウンサーに読み上げられて終わるのが関の山。誰の記憶にも残らない。

 遠のく意識の中、物騒な町で聞き慣れたサイレンと、血の臭いだけが身体の奥深くに染み込み、続けざまに鼻腔を刺したシトラスの香りが、私の頬を完璧に崩した。

 連続ストーカー殺人犯の岩井正義が、善良な一般男性の自宅に金品目的で押し入り、男性が防犯グッズによって応戦。岩井は返り討ちに遭い、意識不明の重体。その後、救急搬送された病院で死亡。岩井と揉み合いの末、重傷となって同じく病院に搬送された一般男性には、快方に向かった。そして、男には被害者女性からの感謝状が贈られた。不気味な夜が少し遠い過去となった或る日、白日の下に晒されたその奇妙な事件の顛末は、あまりにも出来すぎた日常のワンシーンとして、人々の興味を惹きつけた。男は姿を晦ましたが、被害者女性の代表としてメディアに出演したひとりの女は、マリアンヌの名を背負った女傑。

 奇しくも、天使と酷似した女の仮面を脱がせた唯一の男は、その日英雄に仕立て上げられた狂人で、またその狂人にしても、彼女の素顔を直視することは叶わず、並々ならぬ抑鬱症状に悩まされながら、誰も知らない白い部屋の中に封殺された。音もなく、匂いもしない。生活を続けるだけの淡泊な空間の中で、その腐った物語はエンドロールを迎えたらしい。

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