見出し画像

【短編小説】逆境のダガーナイフ episode 2

episode 1→https://note.com/wanpakutsk/n/n222b971424da?sub_rt=share_pw

 防犯グッズとは名ばかりの、小型カメラや盗聴器ばかり取り扱う怪しいサイトを、幾つも調べ上げた。さる個人ブログ経由で、十円玉サイズのGPS装置を八千円送料込みで購入し、届いたのは一週間後の夜。郵便受けに投げ込まれていた粗雑な包装を解くと、やはり十円玉サイズのGPSが入っていた。私はすぐと使い道を思索した。

 第一の壁を接近とするならば、第二の壁は仕込みだ。いつどこにどうやって仕込むかが本作戦の鍵となる。例えば四丁目の路地なら人気が少なく、仕掛けるにはもってこいだが、その分接近リスクが高い。第一に、この戦いの最終局面に到達するまで、ひとときでも彼女に私の存在が認知されてはまずいのだ。どこか道の途中で鉢合わせれば、それはもう惨劇。悲劇。最低最悪の終幕。どうあってもだめだ。

 終わるならば、美しく終わらせたい。何せ、唯華に託す物語こそ私の全て。人生の終着駅。ここで死んでも構わない。だからこそ、最初で最後の真剣勝負。女神の心を掌握し、神域に足を運び入れるも、地獄の門を叩くのも、全ては私の一挙手一投足で分岐する。

 答えを出すことは容易ではなかったが、骨が折れるほどでもなかった。というのも、思いのほか彼女自身の警戒心が薄かったのだ。あれから何度も駅までの道を追った。ロータリーで見失わず、改札の前まですぐ後ろをついて歩くことができた。回りくどい技なぞ持ち出さず、そのまま行き先を突き止めることだって、或いは可能であったのかもしれない。が、進めない。最後の一歩が踏み出せない。途方もない引力に苛まれ、距離が縮まる。だが届きそうになると今度は、すさまじく強烈な磁力に因って跳ね返される。空々しい話だが、こればかりは嘘偽りのない真実だ。信じていい。

 とどのつまり、その謎めいた力の正体が唯華自身にあったのか、私の心の中に生じていたのか、定かではない。きっとそこには、少なからず畏怖や畏敬の念も含まれているのだろう。このことを経て、私はまたしても浅田唯華という女性の強大さを、まざまざと思い知らされたのだった。

 天空を駆け上がる太陽が猛威を振るう八月も半ば……。私と唯華の生活は、既に繋がっているも同然だった。彼女が家を出ると、私も家を出る。彼女が向かう駅までの道のりはいつも同じで、私一人で何度も往復できるほどに記憶した。しかし相も変わらず駅の向こうには進めない。その暮らしはまるで、古き悪しきゲームでもやっているみたいだった。くだらない脚本に踊らされているような気がして、五臓六腑が煮え返る。まったく、鼻持ちならない。曩のタスクに挑むには、まだ何らかの条件が足りていないとでも言うのだろうか。

 で、これは少し逸れた話になるが、またひとつ人生に絶望が加わった。それは、私たちを取り巻く町の憧憬だ。なんと陰気臭いことだろう。風は吹いているのに、町中が鎮座したまま人を見下ろす。朽ちかけた雑居ビルの数々。路上に蔓延るチンピラ。雨が降ると噎せ返るような臭いを発し、人の吐瀉物や生ゴミが水溜まりに腐りかけている。猫の死体を見つけたこともあった。家の裏でカラスがゴミを啄むと、その羽音が耳障りでならない。

 来る日も来る日も唯華だけがそんな町を颯爽と駆け抜け、私はその後を蛇になって歩く。この惨めさたるや筆舌に尽くし難い。彼女こそまさにマリアンヌ。やはりたった一人のマリアンヌ。腐爛しきった町を凛と歩く彼女は、女神と呼ぶ他ない。誰も彼女に触れられず、誰も彼女に届かない。願わくは、彼女と二人で逃げ出したい。こんな町、こんな国、こんな惑星から逃げ出して、二人だけの国で永遠を。

 彼女の致命的な隙を見つけ出したのは、それから数日が経った或る朝のことだった。鞄に見えたアトマイザーと、大元の香水が入っているであろう箱。それだ。それしかない。故にそれが、私にとってはこれ以上無い好機であった。

 勝機と見たら迷わず進むのが、一流の勝負師だ。三流は自滅し、二流は回避し、一流は見に回る。その攻めと守りを、使い分ける。

 で、今こそ踏ん張りどころと読んだ私の動きは速かった。それまで一度も突破したことのない改札をすぐ後に続いて潜り抜け、煩わしい人波を全て回避し、なお彼女の背後を陣取ると、電車がやって来る少し前に可能の手提げ鞄から香水の箱を取り出した。そして、すかさず用意していたGPSを仕込むと、また鞄に戻した。ここまで、ほんの数秒。後は、彼女の勤め先を特定し、夜には先回りして再び背後を陣取る。で、昼間仕込んだ機器を回収する。まさか、アトマイザーの中身が空になって詰め替えるようなことが、こんなピンポイントで発生する訳もあるまい。まして彼女は勤め先に赴くのだ。そんな隙が、月に何度もあっては馬鹿らしい。万が一にもその日と重なるようであれば、どうで勝ち目のない勝負。清く散って、死に花を咲かせる所存だ。

 ありふれた御伽話なら、こんな卑劣な男は地獄の血の池に放り込まれて然るべきだ。しかし、ここは既に地獄の一丁目。地獄に迷い込んだ可憐な天使の分身は、地獄の鬼達に食い荒らされる前に、英雄が助け出してやらなければならない。彼女もきっと、心のどこかでは待ち侘びているのだ。うらぶれた暮らしに溶けた自分自身を救ってくれる、正真正銘の救世主が現れるその日を、ずっと。

 ならば迎えに行こう。白馬か、タクシーか、原付に乗って迎えに行こう。この私こそ、霧のような世界で、彼女に届く唯一の存在なのだから。

 魑魅魍魎が跋扈する町で、私はついに敗北を喫した。GPSが示す場所は、他でもない上野の美術館であった。そうだ。食われた。天使の仮面を被った怪人に、食い荒らされた。心を。
 勝負事にはいつも運が絡む。がしかし、今回ばかりは私自身の戦略が全て裏目に出た。

 罠は香水。小賢しい天使の輪に誘われ、落とし穴に転落した。馬鹿なことだ。おかしな話だ。第一に、彼女ほどの人間が、すぐ後ろをついて回る男の気配に気づかぬ訳がない。私の驕りと、彼女の余裕綽々とした態度が、惨憺たる結末を生んだ。

 結句、私の仕組んだGPSは、あの美術館の入り口の、人目につかない日陰に捨てられていた。いつ、どうやって。私にはもう知る術がない。となると、私は一刻も早くあの家から逃げ出さなければならないのだが、この時は既に空虚の極み。腹を切ることもままならず、どこかの向日葵よろしく、頭を垂れ、駅から家までの裏路地を這った。

 夜、こんな日に限って静寂が続いていた。古ぼけたインターホンの消え入りそうな声で目を覚まし、その男と対峙したのが、二十三時を過ぎた頃。探偵の、岩井だ。

 さる個人ブログ経由で購入した漆黒のダガーナイフを背に隠し、扉を開けると岩井がいた。彼は、どこ吹く風といった語り口で、

「ああ、どうも。ご無沙汰していますね。今村……正義さん」

 あまつさえ嫌みったらしく、続ける。

「私があなたに辿り着いた理由、知りたいですか? 知りたいでしょう? もちろん、お教えしましょう。しかしその前に、あなたの頭脳がまだ生きているなら、推理のひとつくらい聞かせていただきたい。今日の夜は長くなりそうですからねえ」

 何かの小説を音読するような声であった。私は努めて冷静に、動揺と鼓動の震えに気づかれぬよう、返した。

「じゃあ……お言葉に甘えて」

 言いかけた瞬間、岩井は右拳で私の鳩尾を突いた。鈍い痛みが全身を駆け巡り、私はその場に崩れ落ちた。隠していたナイフが、すぐ目前に。

 そして岩井は、先刻と変わらぬ声色で言う。

「推理、聞かせてくださいよ」

 這いつくばったまま、私が口を開こうとすると、今度は泥塗れの革靴で蹴り落とされた。身体の内側からしなるような音が聞こえ、神経か骨かどこか深い場所に攻撃が伝う。私は声も出せず、ただ悶絶するしかなかった。岩井は、呆れたように私を見下し、続ける。刹那に放られた言葉は、私がナイフを握るには十分だった。

「人にはね、何があっても踏み込んではいけない領域があるんですよ。端から見れば、あなたは珍しくもないストーカー。人間の倫理観に基づく言葉を与えるなら、どうしようもない変態野郎ってところですか。ただまあ、それはあくまで一般論。あなたの罪は、そんな単純なものじゃない。いいですか? まず第一に、あなたは探偵を欺こうとした。第二に、彼女を……浅田唯華を軽んじた。第三に、その軽んじた彼女との駆け引きに負けた。まったく、みっともない。奴隷……奴隷が……奴隷めえええ!」

 岩井は全て吐いた。顔は見えなかったが、さぞや満足気な表情を浮かべていたに違いない。私は、彼の推理に反論する余地を持ち合わせていなかった。唯華は、私の存在に気づいていながらも無視を決め込んだのだ。そして、そのことが逆に私を調子づかせた。まともじゃない。馬鹿じゃないか。

 しかしながら、私には解せなかった。そして、その解せぬ根拠に、ある疑惑を抱いた。と、同時に漸く声が出た。

「あんたは……唯華の、何なんだい」

「なんだあ?」

「ただの探偵じゃないことはよく分かった。あんたを無能だと見誤った僕の負けだ。しかしね、あんたまだ……大切なことを言ってない。そうだろ? あんたも、僕と同類なんじゃないか? ほら、天使の名前を、もう一度口にしてみなよ。聞こえるぜ。あんたから零れ落ちる言葉の端々から、よく聞こえる。そしてよく分かる。あんたと唯華の間に、何の繋がりもないことがね」

 それからの彼の反応は、概ね想像通りであった。
 まず、こめかみを蹴り、狭苦しい玄関の隅に追いやられた私の後頭部を、革靴の踵で踏みにじった。それからは、もう滅茶苦茶だ。彼は私を散々殴り倒し、蹴飛ばし、踏みつけた末に、まるで別人のような口調で、言葉を放る。

「何がだ……この俺の何が分かる……癇にさわることばかり言いやがってコノヤロウ……」

 探偵としての岩井じゃない。人間でも、男でもない。言うなれば妖怪。それはまさにこの町の至る所に蔓延り、淀んだ景色に紛れ込む魑魅魍魎そのもの。彼もまた、私と同じ修羅の道を往く狂人だったのだ。そのことに気づかれぬと、高を括っていたのだろうか。或いは、初めから望んでいたのか。いずれにせよ、防戦一方のまま命を奪われる気など、さらさらない。私はついに、固く握ったダガーナイフの刃を、彼の大腿部に突き立てた。

 禍々しい夜に響く、断末魔の叫び。私は呼吸をも忘れ、彼に組み付いて押し倒した。  

episode 3→https://note.com/wanpakutsk/n/nfe7b853faf97?sub_rt=share_pw

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?