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ニッポンには対話がない 学びとコミュニケーションの再生

対話について、ずーっと関心がある。
佐伯胖さんの『学びの構造』を読んだからかもしれない。会話でもなく、討論でもなく対話。でもなかなか対話を実践するって難しい、それは自分に原因もあるだろうし、相手側にも原因があるんだと思う。そうやってお互いに責任を分担しながら進めていくことが、対話の難しいところなのかもしれない。

個人的に平田オリザさんのする、対話の話や演劇の話がすごく好きで、それは手法論じゃなくて、どうしてそれが重要なのか、そもそも人と人とは分かり合えないのだから、みたいなことが前提にあるからだと思う。

この文章を書きながら、授業づくりネットワークの「揃わない前提の授業とクラス」を思い出す。私たちは基本的に揃わない。でも、そうしたことをもっともっと念頭におきながら学校教育を進めていく必要があるんじゃないだろうか。

北川さんの言葉の中で

「人間であるということ以外に共通点はないと思うくらいのつもりでしゃべらないといけない」と。ただ、これは二つ意味があって、そのくらいの共通点がないんだと思ってしゃべらなくてはいけないという点と、もう一つは同じ人間だからほんとうに最終局面になればわかる部分もありうるという点です。

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という言葉があって、思わず笑ってしまった。ただ笑いながらも考え直してみると、いや本当にそうだよなと思い直さざるをえない。

自分のことを棚に上げながら主語を大きくしていつも書いている。
学校教育において、対話の機会はたくさんあるけれど、本当に対話が起こっているかと問われると、その機会をあまり活用しきれていないんじゃないかな。
教師が求める答え、正解主義の呪縛から解き放たれることは難しい。校内研究だって、授業づくりは児童像よりもどうやって教えるか、検討会も代案やポジティブなフィードバックよりも、粗探しや賢者の視点から物申している。提案したとしても、そこから対話にならないことがたくさんある。

こういう文化の中で、子どもたちにだけ「対話を大事にましょう」と言っても、そもそも具体的に対話をするってどういう状態なのかということについて、教員が理解できていないんじゃないだろうか。(自分のことを棚に上げながら主語を大きくしていつも書いている)

だからやっぱり、職員の間で、共通の土台を作っていくとか、学校教育目標から目指す姿を考えてみるとか、一見遠回りに見えることから小さな一歩を踏んでみるってことが必要なんじゃないだろうか。
そんなことしている時間はないのかもしれないけれど、そんなことを思う。


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