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『帰還兵の戦争が終わるとき 歩き続けたアメリカ大陸2700マイル』イラクで負った心の傷 終わらない戦争と癒やし


帰還兵、復員軍人の精神面の問題は古くて新しいテーマだ。戦中、戦後は日本でも問題視されたし、現代ではイラクに派遣された自衛官の中にもPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し苦しんでいる人たちがいる。


9.11米国同時多発テロ事件以降、10年以上にわたりアフガニスタン、イラクとの非対称戦争を行ってきた米国には、かなりの数の帰還兵、復員軍人が存在する。そして彼らの多くがPTSDなどの精神疾患を抱えているのだ。


米国では戦争従軍者の精神面のケア不足が社会問題となっている。この問題に関する書籍としては『帰還兵はなぜ自殺するのか』という名著が日本語に翻訳されている。


本書も彼ら帰還兵の問題を扱ったものだ。ただ、復員軍人当人の著作である点が前述の本との違いだろう。


著者トム・ヴォスは代々奉仕家の家系に生まれた。父母も祖父母も社会貢献を旨とした。トムは、陸軍に入隊し国に貢献することが、それに続く道だと思ったという。


入隊後の新兵訓練では、徹底して「個」を消し去り、集団を優先するよう教え込まれた。つねに「われわれ」を主語に思考し、部隊を最優先するよう教育されるのだ。この経験が帰還兵を呪縛することになると、トムは考察している。


その後トムは、イラク戦争で活躍した多機能部隊、ストライカー旅団を構成する第21歩兵連隊第3大隊に歩兵として所属。激戦地のモスルに派遣され、辛い経験を重ねる。


例えば、部隊に向かってくるダンプカーを止めるため、トムは交戦規定に則り3度の威嚇射撃の後、運転手を射殺した。だが、車からは武器も爆弾も見つからなかった。


運転手は民間人で威嚇射撃に気づかなかっただけなのではないか? 本当に殺すべき相手だったのか?


戦地では良心を蝕む経験が続いた。そして何より彼の心を深く傷つけたのは、尊敬する2人の軍曹の死であった。


こうした経験と、個を否定し全体の最適化を図る思考により、トムは帰還後、戦争を知らない周囲の人々に対し心を閉ざしてしまう。仕事を辞め、酒やドラッグに溺れ、自殺願望にさいなまれる。PTSDと診断されても、中心のピースが抜けたジグソーパズルのような診断だと感じる。


PTSDでは説明しきれない心の変調がトムを苦しめていた。このままでは自殺してしまう。すでに同じ部隊の戦友が自殺している。とにかく動かねば。トムは同じ帰還兵のアンソニーと共に徒歩で米国を横断する旅に出た。


困難な旅の中で出会った人々の思いやりが、心を閉ざしていたトムを次第に変えていく。心を開いた彼は、心を癒やしてくれる瞑想と出合う。さらに、モラルインジャリー(道徳的負傷)という新しい心理学の概念を知る。


これは、一般市民としてのモラルと戦地で生き残るための価値観とのギャップが人格を引き裂いてしまう心理現象だ。多くの兵士たちはPTSDに加え、このモラルインジャリーに苦しんでいたのだ。


今後も米国では帰還兵の問題が深刻化していくであろう。本書はこの問題に対する1つの処方薬になるかもしれない。そしてこれは、日本が今後、国際社会の中で直面しうる問題でもあるのだ。


※週刊東洋経済 2021年8月7日号 


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