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儀式は我々に何をもたらすのか『RITUAL(リチュアル)ーー人類を幸福に導く「最古の科学」』(ディミトリス・クシガラタス)

面白い本だと思うんだけど、あんまり話題になっていない。人類学地味ですか?そうですか…


・日常には案外ナゾの儀式があふれている

手を合わせて「いただきます」。
一杯目は「カンパイ!」。
年始には神社に詣でる。
結婚するとき、法的手続きでもないのに、少なくない費用を投じて行われる披露宴。
卒業式、成人式、七五三、厄除け、方位除け、葬式、墓参り、、、etc

我々は21世紀を生きる現代人である。気象のような途方もないものですら預言や雨ごいではなくデータとロジックに基づく予報が行われているし、病気になれば、宗教めいた施設ではなく、現代医学をマスターした医者に行く。そんなあらゆるものが近代科学めいたものに席巻された時代であっても、我々は、根拠や効果が実はよくわからない儀式を相変わらず愛好し続けている。

古今東西、人類の社会でおよそ儀式と呼べるものがまったく存在しない文化はない。また、共同体で大規模に行われる祭りのような儀式だけではなく、個々人・・・・例えば、スポーツ選手やゲームプレイヤー(ギャンブラーを含む)、アーティスト・・・・が、重要な場面を前にして個人的な儀式を重んじている例(必ず便所にこもるとか)は数え上げるときりがない。

そうしたものは、なぜどこにでもあり、なぜなくならないのか。

いや、なくならないどころか、今も新たな祭り=フェスティバルが世界中で開発され、行われている。

バーニング・マンのようなナゾのイベント、大規模な音楽フェス、イルミネーション、巨大な焚火の会、投資家とサウナ・・・・どこからどこまでが儀式か議論の余地はあるものの、儀式類似の祭典はいくらでもある。

人間性を疑われる事を承知で言えば、葬式に何人が参列しようが、物理的にこの世に存在しないであろう死者はなんとも思わないだろうし、我々の生活が(関連産業は別として)具体的に良くなるわけでもない。今風に言えば、そんな非科学的なことに使う金があるのなら、子育て世帯に分配してはどうか?というような事にもなりそうなものである。だが、そうはならない。

儀式みたいなものは実用的な利はなくとも、参加者のメンタルに何か影響するのだろう。これは誰しもが思いつくことだ。おれも墓参りをサボろうとすると家族に怒られる。

でも、どうやって?なぜ?

儀式やフェスについて、

「あれはスゴイ体験だった」
「人生観が変わった」

そういう声はよく聞かれる。しかし、そこで終わっていては進歩がない。人類の進歩と調和・・・・我々はショーワの夢を未来に引き継いでいかなければならないのだ。儀式のナゾは解明されなければならない。

と思ったかどうかは知らないが(多分違う)、こうした「世界の謎と不思議に挑戦する」系の研究に取り組む研究者たちがいる。

・儀式研究はテクノロジーの力を得て進んでいる

その最前線の一部を一般読者向けに紹介する書籍が、ディミトリス・クシガラタス著『RITUAL(リチュアル)ーー人類を幸福に導く「最古の科学」』(原題、Ritual: How Seemingly Senseless Acts Make Life Worth Liging)だ。
名前がヤタガラスみたいでカッコいい。

人間の心理はさまざまな角度から研究されている。ネットなどでちょいちょい紹介されるような、よくある心理学実験っぽいものの他に、さまざまな測定手法や生命科学の進歩に伴い、体内の化学伝達物質の値を用いるなど、人間のメンタルメカニズムを解明する取り組みは進んでいる。

儀式を対象とした研究において難しかったのは、大規模な儀式を実験室内に持ち込めなかったことだ。しかし、ウェアラブル端末の進歩により、儀式の場に実験室を持ち込むことが可能となりつつある。

火渡りの参加者に心拍モニターを取り付ける、結婚式参加者から血液を採取しオキシトシン(社会的な結びつきに重要な役割を果たす神経ホルモン)値を測定する、タイプーサム(めっちゃ針が刺さって痛いお祭り)参加者の皮膚伝導(ストレス度合いを表す)を記録する、そうした(ときにはクレイジーな)取り組みを通じて、儀式が生理学的、神経科学的に人体にどのように作用するかの解明が試みられている。そうしてわかってきたことは、儀式が象徴的な意味だけではなく、内分泌学的な観点からも人体に具体的に作用している可能性があるということだ。

本書は、よくある人類学ものとして、興味深い儀式の記述を通じて読者の旅情めいたものをかきたてながら、文系学問っぽい定性的な考察・説明に理系サイエンスっぽい研究結果をプラスし、儀式という古典的なテクノロジーが人間に及ぼす社会的・生理的な影響についての研究結果を紹介する興味深いものだ。心身のストレスが人にどのように作用し、一見無意味に思える儀式のような活動が、人体や共同体にどういう影響を与えるのか、今後、さらに解明が進む事を期待させる。

・儀式を侮ってはいけないのかも知れない

現時点で、本書から我々が得られる学びのひとつは、一見無意味に思える活動は、ほんとうに無くしてしまって良いのか?という反省的な問いだろう。生産性の向上が求められ、共同体の利益に比して個人のプライベートのウエイトがあがりつつある昨今、コスパ的な価値観から、または世代間の価値観の相違から、職場の運動会のような「無駄」「非効率」っぽいものは分が悪い状況にある。それは一応は正しいのかも知れない。

とはいえ、忘れてはいけないのは、我々は未だ人間の事をちゃんと理解していないということだ。人間集団がお互いを何かしらつながりのある仲間と認識し、共同体を形成するために何が重要かという問いは特に難しい。組織目標の達成という観点からだけでも共同体運営は難しいのに、それが組織成員個人の人生にとっても価値あるものであるかどうか、という事まで言い出すと、複雑さはぶち上がる。そんな中で、未だ解明されていない儀式のようなものを安易に捨てていいかどうか、我々はまだ十分な知識を持っていない。

一杯目はビールで乾杯。誰がそんなことを決めたのか、それに何の意味があるのかまったくわからない。ビールが飲めないからと他のものを頼むのはよくあることだが、「いや、自分カンパイだけはしないって決めてるんで」と来られるとどうだろうか。飲み会に来ない人以上に異邦人のように感じられても不思議ではない。逆に普段はあまり関わりがない人でも、同じテーブルで取り敢えずグラスを合わせれば、多少なりとも仲間のような気がしてくる。極端な例ではあるが、儀式とはそういうものだ。

組織やコミュニティについて考えるうえで、人類の歴史を通じて滅びず受け継がれてきた儀式のようなナゾの活動について、深く考えてみることはおそらく有用であろう。本書はその一助となり得るものだと思う。

・不確実性、ストレスの軽減とアドバイザー

個人的に興味深かったのは、不確実性がストレスの原因となるシチュエーションで行われる儀式的な行動を説明する「代償性制御モデル」という考え方だ。これは、ある領域で制御できないことを、別の領域で制御できるものを見つけることで埋め合わせるという心理的なメカニズムのことらしい。

企業経営にまつわる諸活動は、不確実性への対処だと考えてみることが出来る。商品を買ってくれるかわからない人にハンコを押させるのが契約であるし、人材が組織に利益をもたらす可能性を高めるために行うのが教育や指導であるし、もっとミクロな活動に着目すれば、書類ができるかどうかわからない状態の不確実性を低減した状態が、書類がドラフトされた状態である。

契約書のようななんらかの物理実態(電子も含む)の作成や、入金のような客観的な成果の獲得とおおよそ紐づいた事象のように、不確実性が相当程度低減できたと直感できるものは良いが、組織運営においては、どうしても相当の期間に渡って不確実性があまり低減できないものがある。例えば、新規事業の成否とか投資家に対する開示がポジティブに受け取られるかネガティブに受け取られるかわからないといったケース、人材の採用、人事異動といったこともある。業種によっては、気候による原材料作物の出来不出来、といった要素もあるだろう。

そうした企業経営にまつわる不確実性を軽減する必要がある場面では、しばしば専門的な知識を有するアドバイザーが起用される。後に紛争になる可能性を考慮し、リスクを分析し、起こり得るシナリオを特定したうえで、それに対する対処を検討・提案する。M&Aの実行に際して、リスク要因を分析し、必要に応じて取引条件に織り込む。こうした活動は、必ずしもすべての不確実性をゼロにはしない。場合によっては、不確実性があることを明らかにするだけに留まらざるを得ないこともあるだろう。

とはいえ、不確実性の存在を了解することは、おそらくストレスの軽減に有効だ。予測もつかない状態から、なんらかの予測ができる状態になることは、仮にそれが不確実性の低減をほとんどなし得ていないものであったとしても、過度のストレスに対処する役には立つだろう。シュートの前にバスケットボールにキスをしたり、出港前に大漁祈願をしたりすることに比べると、ほとんどの場合はまだ理屈が通っているものが多いと思うが、仮に占いみたいなものであったとしても、何かしらストレスを軽減してくれるのであれば、意思決定者にとってはありがたい助言となり得る可能性がある。

自分も一応アドバイザーのような仕事をする身分ではあるが、正直言って、自分が具体的にはなんの役にも立っていないと感じられるケースは度々発生する。こちらとしては、申し訳ないような気持ちになるわけだが、なぜかわからないが発注主のほうはおそらく一定程度満足しているのだろう、契約が維持され、報酬が支払われるということがよくある。これを人柄とかキャラとかで済ませてしまうのは単純だが、それでは進歩がない。どうすれば、再現性のある業務に落とし込めるか、というのは自分が長年抱えているテーマのひとつだ。

不確実性から来るストレスの問題はそのナゾに迫るヒントになるかも知れない。代償性制御モデルの考え方で行けば、問題となっている不確実性自体はコントローラブルである必要がない。モデルの言うような他の制御可能なものを見つけること以外にも、コントロールを取り戻す(または確保できている)感覚を得ることが、リスクテイクせざるを得ない場面においては重要なのかもしれない。なんなら、錯覚であっても問題ないのだ。

自分の考えでは、自分に起こる物事をコントロールできる感覚を持てているかどうかは、仕事の楽しさみたいなものと密接に関係する要素のひとつだ。多くのつまらない仕事やツラい仕事は、やらされ感や無力感みたいなものと関わっているように日ごろ思う。これも結局はストレスの問題なのかもしれない。

そういうことを考えると、もしかすると自分との面談は、単に「やってみないとわからないですね」という一言が聞ける儀式として、不確実性な意思決定に主体的に向かわせる”Take Back Control”的な一言として、何かしら機能しているものなのかもしれない、などという考えが浮かぶ。いずれ、現場での経験・検証を通じて言葉にしてみたいものだ。

科学が急速に進歩した(と思われる)近代以前では、人々にとってコントロール可能だと感じられる物事は今よりずっと少なかっただろう。そういう時代に、人々の人生やコミュニティを支えてきた儀式的なもののエッセンスをうまく活用することは、情報技術を中心にめまぐるしく変化を続ける現代的な不確実性に対処するために、今も我々にとって重要であり続けているのかも知れない。

そんなことを考えさせる一冊であった。

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