見出し画像

長崎励朗『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学』がとても面白かったので、感想を述べようと思ったら、例のごとく関係ない話が長くなってしまったの巻

■ 序:資本主義者を撲滅せよ

最近、他人を「資本主義者」とdisるのがマイブームだ。誰もが「またおかしなことを・・・」とクビをかしげながらも、これが案外ひびくというか気になるようで、非常に興味深い。

そもそも、そんな言われようも無いわけだが、大体のdisられ被害者が実際どう反応するかというと、あの手この手で自分は単なるカネの亡者ではない、との主張を始めるのだ。これが愉快である。現代資本主義社会に問題がないわけではないが、そもそも資本主義者でいったいなにがイケないのか、おれには答えが見つけられていないのに。

資本主義者の反対はなにかというと、たぶん共産主義者を持ってくるのが妥当なんじゃないかと思うが、攻撃された多くの不幸にして善良な人々は「カネではないヒューマンなウエルビーイングを重視する立場」が資本主義者の反対である、と思うようである。(まあ、そのように誘導しているわけだが)

そもそも、資本主義というのは、個人の生き方の問題ではなく、社会システムのことを言う時に使う言葉だ。こうやって、言葉の意味や使い方をズラして日常に遊びをもちこんでいく。そういう娯楽なのだが、瞬時にそれを見抜く者は少ない。

そういうことを思いながら、資本主義者達の反論に対して、さらに攻撃を加える。

「おまえのテレビは何インチだ?」

言うまでもないが、昨今、かつての大型テレビと言われるものでも相当安い。もはやテレビの大きさで資本主義度が測れるわけではないのだが、そこは昭和生まれの悲しさである。個人差はあるが、概ね40~50インチ以上の数字を答える事に心理的な抵抗を感じる奴が多いのだ。さあ震えながら70インチであると答えるがよい。

ちなみに、営利を追求する邪悪なメガコーポであるSONY社のHPによると、昨今では8畳のリビングで55v型以上、10畳以上となると65v型以上の大きさが「おすすめ」とされている。科学の進歩とは恐ろしいものだ。


■ 序2:ひたすら無個性に行われる個性の追求

資本主義者disは、冗談のようでいて、実のところ、冗談ではない。自分が実際に批判を試みているのは、稼いだカネの金額(≒消費の金額)が、自らの有能さの証左であり、ステータスなのである、といったありがちな価値観についてだ。真面目に訂正すると、資本主義はあんまり関係なくて、消費主義を(意図してかどうかを問わず)是とするアティテュードをdisっている。

もう少し丁寧に言うと、こうだ。ほとんどのブランド品などに言えることだが、モノの値段は一定の水準を超えると、品質と価格が適切にはバランスしなくなる。特にファッション(衣服等)に関して、それが言える事はよく知られている事だろう。(オシャレ家電を除くと、テレビのような家電は実際にはたいていが値段相応だ。ただ、ことオシャレに関しては、品質と価格のバランスが崩れているようにも思われる)

付け加えると、見る限り多くの人は、アーティストでもなければ何でもないただのビジネスマンであり、ファッションアイテムが美的に優れているかどうかなどという点に関して、確固たる基準で判断しているかどうかも、まあまあ怪しい。

つまり、すべてとは言わないが、世の中の高級品につけられている値段は、ただおカネを沢山払うというハードルを設けるためにつけられているもので、実用的にはたいてい無駄金である、という事がある。

となると、不幸にして食うに困っている人は全く話が別だが、一定程度食えている人にとって、稼ぎを増やしていく、という事は、特に意味のある行動ではない。人生に本当に必要なものを手に入れるのに必要な金額は、そんなにとてつもない額ではないのだ。結局それは、ステータスを求めているだけのことである。人との差異をいかに確保して、自分を保つか、という問題に対して、資本力によって、多くの人がリーチできないであろう階層を攻めていく、という戦略と言ってもいい。

もう少し背景を眺めると、そのベースには、自分というものはなにかという事を考えた場合に、結局は「人と違うもの」でしかない、という根本的な人間の仕組み、みたいなものがある。

さて、そこで自分は素朴に思うわけだ。多くの人が思うような「高収入で良い暮らし」といったステレオタイプの枠組みの中で、より上位層を目指す、というのは、1ミリもユニークさを感じない凡人中の凡人のような行動な上に、変な選民意識のようなものも見え隠れして、どちらかというと、ヒューマンなウエルビーイング的なものからかけ離れた行動なんじゃないかと。そういった「選民の階段を人々に競わせる」といった地獄めいた仕組みは、悪辣な資本集積企業が長年にわたり巧妙に築き上げてきた、邪悪で狡猾に耳障りよく偽装されたマーケティングなどという人類を堕落させる呪術により仕掛けられた罠に過ぎないのであり、そもそも世間で喧伝されている大量生産品を購入する消費行動のどこに自分らしさがあるのだろうかと。

他人と差をつけたい、それはわかる。ただそのやり方が、なんの工夫もなく世の中でなんか良いとされているものに飛びつく、強いて差をつけるとしたら経済力、みたいなのはなんだかなあと思うわけだ。

自分がdisっているのは、そこに疑問を持たない事、そのものなのである。
やつらは言う「そんなことを考えて生きているわけではない」のだと。そう、考えもしないのだ。

かくいう自分はどうか。言うまでもない。腐敗した資本主義社会の黒幕たる資本家の手先として、1円単位でカネの行方を追いかけ、悪くない額のJPYを自らの自由と交換する。鏡に映るのは、飼いならされた資本主義の尖兵の姿そのものである。かかる矛盾を抱えながら生きていく事が人生なのだ。ままならないものである。

ただ、強いて言えば、自分は消費に対しては非常に無関心で、不況をもたらす病原であるとたびたび批判されるところの、「カネをほとんど使わないタイプの人種」ではある。生活に必要なだけの収入はある。これ以上に、人が買えないものを買うためのカネを得る必要もないし、他人より優れた能力があるという事を、収入というスコアで示すゲームにも特に興味がない。

もっと言えば、人より優れている必要を感じない。能力が、優れる、優れないというのは、結局のところ世の中にはびこる尺度にのっとる行為であり、「収入が高い=おれは能力が高い」みたいな価値観に従って生きるということは、結果として、ありきたりなモノサシでしか物事を判断できない、なんの創造性もない人間ですよ、という事を世に触れ回っている事になると(結構本気で)思っているからだ。

要するに消費主義を支えているのは、大雑把に言うと「おれも貴族になりたい」とかそういう類のメンタリティだ。おれは大衆とは違うんだぜ、そういうわけだ。間違ってはいけないのは、そういう罠に絡めとられがちないわゆるハイクラスのビジネスマンというのは、結局は労働者に過ぎないということだ。思い出してほしい。労働者にとって、あくまでもブルジョワジーは打倒すべき存在であり、自分もブルジョワジーになりたいなどという欲望を抱くことは言語道断なのである。異論は認める。

さて、この手のシンプルに言って「メインストリームに対抗する事を是とする価値観」みたいなものを、カウンターカルチャーなどという。自分のようなタイプが、カウンターカルチャーっぽい人の典型例である。

白状すると、こういうなんちゃって反主流派的アティテュードも、高度に洗練された現代消費社会の中では一種のテンプレ的なマーケティングターゲットであると既にみなされている。つまり、凡人中の凡人とまでは言わないが、それに次ぐぐらい、よくある話、つまりファッションのひとつなのだ。おれは大衆と違うんだぜ。そういうわけだから、比べてみると言うほどの違いはない。事実、消費主義をdisるテキストは、資本主義者のプロパガンダ情報メディアForbesの記事になるほどポピュラーなものだ。

恐ろしい話である。現代消費社会に逃げ場はないのだ。現代消費社会に対抗する立場ですら消費の一ジャンルとしてしまう。しかし、よく考えてみれば、社会の内、外、みたいな言い方が無いわけではないが、厳密に言うと社会の外にいる人というのは、ほとんど存在しないのである。従って、自分がどれだけユニークであろうとあがいたとしても、社会のどこかにマッピングされ、何かしらカテゴライズされてしまうのはやむを得ない事だ。

ただ、いやだからこそ、自らカテゴリーを切り開くような存在を目指そう、というカテゴリーに属する事に、全く意味がないとは思わない。それは長い目で既存のカテゴリーに影響を及ぼし、いずれはブルジョワジーを打倒することに繋がるかも知れないからだ。

などという事を常日頃から考えているわけなのだが、さて、そろそろ本題に入ろう。

そういう差異を演出するファッションアイテムとして、ポピュラーなもののひとつに音楽がある。我々カウンターカルチャー陣営にとって、重要なのはとりわけロックというジャンルなのだが、ロックに限らず、様々な音楽(を含む)ムーブメントは、その時代時代の社会背景と結び付けると様々なものが見えてくる。

今日は、そういう本を紹介しようと思う。少々前置きが長くなったが。


■ 長崎励朗『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学』(創元社)

「ロックで社会を変革する」
「苦労人がホンモノの音楽を創る」
「電子音楽は「非人間的」である」
「パンクは頭が悪い音楽である」

ポピュラー音楽について、こうした偏見めいたナゾのテンプレートがある。ところが、なぜそう言われるようになったのか、実際どうなのか、というところをクリアにした「それなりにちゃんとしたもの」は、今まで案外なかった。

例えば、自分の大好物である「ロックは反体制」めいたテンプレがあるが、大体素人でこのテーマについて話をすると、あらぬ方向に進む。なぜなら、ロック愛好家というのは隙あらば「自分とロック」について自分語りを始めたがるものだからだ。偏見である。もちろん自分もそういうタイプの奴だ。

この話を始めると、若かりし日に、変革の精神をふつふつとたぎらせていた精神的ロッカー・・・つまり、陸サーファーだ・・・たちが、その後一般的にどのような中年になっていったか、という話をしたくなるが。その事に関しては、過去にグダグダ述べたことがあるので、今日はそこそこにしておこう。

ちなみに、同じような事は、過去のフォークソング界隈でも見られた。要するに「いちご白書をもう一度」的な物語である。まあ誰しも、そういった「もう若くないさ」的な古傷を抱えているものだろう。さらば青春の光。

さて、本の内容に話を戻そう。著者である長崎氏は、そういったナゾのテンプレートの正体を学問的ツールを用いて問うてみせる。

ロック=社会変革テンプレの発端となった「ヒッピー」と、享楽的でしかなかった「モッズ」、2つのムーブメントを比較し、その担い手たる若者たちの社会階層の違いから、その精神が目的とするところの違いを描き出して見せる。比較的恵まれた社会階層の「意識高い」連中であった「ヒッピー」たちと、「週末はブライトン」でしかなかったイギリス労働者階級の「モッズ」。そして、ロン毛ジーンズというスタイルが社会でふつうになると同時に、かつて社会に異を唱えたカウンターカルチャーであったヒッピーは、すっかり体制側となってしまったように見える。ただそれは、元々恵まれた階層出身者が順当なポジションに収まっただけなのでは?これは、果たして「ロックが社会を変革した」と言ってよいものなのだろうか。

そうやって、ロックが長年抱えてきた社会変革という呪縛を、ある意味脱呪術化、つまりどうしてそうなったかという仕組みを説明することを試みる。これが第1章である。しかし、そうなってくると、自分の身の回りにいた数々の「陸ロッカー」たちの変節っぷりについても、実に順当な話だったという事になり、未だに「Walk on the Wild Side」を引きずっている自分のような人間がアノマリーであるに過ぎないのだ、という話になってくるわけだが・・・まあ、そりゃそうだな。そういやあいつらヒッピーみたいな格好してたなあ。

ともかくだ。本書において、各論が正しいかどうかという事は、実はそれほど重要な問題ではない。面白いのだ。論考として面白い上に、様々な情報をつないでみる、並べてみる、といった、「頭の中の地図」を作ることにより、物事をいかに鮮やかに捉えることができるようになるか、という本書が掲げるテーマの強力さをまざまざと見せつけてくれる。

著者の長崎励朗氏は社会学者(プロフィールには趣味と書かれているが)であり、名前は「レオ」と読む。若干キラキラしているので、どんだけ若いやつが出てきたのかと当初思っていたが、世代はあまり変わらないようである。あまり知名度は高くないような気がするが、コロナ禍において、Youtubeに社会学関連の講義をアップしてくれていて、自分は結構前に気に入って全部聴いたクチだ。つまりファンである。

脱線するが、ビジネスとは、まさに社会の中で営まれる事であるし、組織というのはまさしく社会的な機構そのものなのに、その専門家たるビジネス系のコンサルタントの多くが、あまり基礎的な社会学っぽいもののセオリーをかじったような形跡がないように感じることが多いことがずっと気にかかっている。もちろん、自分も素人なのであまり大きなことは言えないのだが、2020年代になってもなお、ガバナンス界隈の人達が、いまだに特段の疑いもなく「近代化、合理化」をせっせと推し進めている現状みたいなものを見るにつけて、いったいこの人たちはいつの時代からタイムスリップしてきたのだろうかと、暗澹たる気持ちになることが無いではない。近代合理主義についてマックス・ヴェーバーがその行きつく先を「鉄の檻」と表現したのは100年も前の話だ。

日々の実践の中で、「大きなセオリー」が役に立つことは確かに無いかもしれない。目の前の問題に取り敢えず対処しなければならないこともあるだろう。ただ、そうした個々の「取り敢えずこんなもんだよね」というカジュアルな思考停止の蓄積の結果、50年~100年後の世界が一体どういうものになるのか、そういうことを専門家は考えるべきだ。そして、日々の実践においても、これは世界を長尺でみた場合に良い方向に向かわせることなのだろうか、と問い、時としてJPYをマイニングするブルシットジョブに手を染めざるを得ない小市民的自分、という現実との矛盾に大いに心を悩ませる。そんな風に生きて頂きたいものである。

まあ、それはいい。世界のことを考えるなんてロマンチックな事はブルジョワ連中にやらせておけばいい。おれの人生を生きよう。

話を戻すと、長崎氏が講義でも折に触れて言っているとおり、氏のスタンスは「セオリーは使ってナンボ」、「結果、面白い論になっているかどうか」というものである。その点では、本書はマッチョな学術書というわけでもなく、ロキノン的ポエムでもない、いい塩梅の知的な論考、いわば「ポップな学問書」といった仕上がりで、知的エンターテイメントとして優れた作品となっている。ディスクガイドとしても、音楽ファンであれば読んで損はしないだろう。もっとも、音楽にあまり馴染みが無い人が読んでもあまり楽しめないのかも知れない。


■ ワイルドサイドを歩け

さて、本書の最終章では「アンダーグラウンド」の存在意義のようなものが論じられる。著者がいう「アンダーグラウンド」とは、「メインストリームとは異なる価値観が支配する場」のことだ。

既に社会で価値を認められた、洗練されたもの「以外の」もの。そういうものを楽しむ自分なりの「尺度」を持つことは、ファッション軍拡競争・・・ハイブランドのようなバカ高い服、オブジェのような椅子、巨大なテレビ・・・のような消費社会の急流から逃れるための処方箋のひとつだ。借りてきた尺度に自分を当てはめ、社会的評価を得ようという試みの多くは失敗する。アプローチがありふれ過ぎているために、圧倒的なレッドオーシャンだからだ。そこで勝ち残ることは並大抵ではないし、仮にいったんは良いところまでいけたとしても、先端を行く層はさらに新たな地平を切り開き、競争は永遠に続く。

競争により自己の優越性を示したいというのは、人間が元々持っている性質であるように思う。それを完全に否定することは難しい。しかし、カネを持っている奴がスゴイ、といったある意味普遍的な、硬直的な価値観に過度にコミットすること、しかも多くの人間がそうすることが、いい結果を招くような気もしないのだ。少なくともそういう競争の中から、本当にイノベイティブなものが生まれるとは思わない。そういうものは、価値の不確かなものたちがさまようアンダーグラウンドからやってくるように思う。

そういった物事を評価する自分なりの尺度を持つために必要な事。そのひとつが自分なりの「頭の中の地図」を持つことなのだろう。また、自分がなにを好きか、なにを語れるかが明確になることは、自分とは何かという問題にひとつの回答をもたらしてくれる。本書はそういう気づきを与えてくれる。

カルチャーについてではないので、もちろんそのまま当てはまるわけではないが、似たようなことを、自分もずっと重要であるとぼんやり考えてきた。紆余曲折あって、自分はインフルエンスなイケてるビジネスパーソンとしてブランディングする事はまあまず不可能なのだが、そういうメインストリームのレースから降りてみると、またちがった風景が見えてくるのだ。

そこには華やかなビッグディールもビッグマネーも存在しない。しかし、本当に看板ではなく個人のスキルや個性をベースに、仕事を頼んだり頼まれたりという関係がある。平たく言えば、人間らしい付き合いがあり、世間の評判がどうたらという事と無関係に物事が決まっていく。大手企業じゃなくても、腕や人間的な好き嫌い、挙句の果てには一緒に仕事をして楽しいかどうか、みたいなナゾの基準に基づいて仕事が来る。つまり、自分なりの尺度に基づいて、仕事を頼むかどうかが決定されている、という事だ。それは本来当たり前のことのように自分は思うが、メインストリームでは実際問題難しい事のようだ。

こういうフィールドのことを、自分の言葉で長らく「ストリート」と呼んできたが、「ワイルドサイド」と言い換えようかと最近は悩んでいる。(ビジネスシーンでアンダーグラウンドというと、「悪いことをしている」事になるので、候補にはあったが除外したのだ)

ビジネスにせよカルチャー的なものにせよ、メインストリームから外れたところに、面白い物事はごろごろ転がっている。時代がどう変わろうと、自分の人生を生きるために、そういったものを知り自分の「頭の中の地図」を更新していこう。

(追記)
著書自ら著作の内容その他について語る動画が投稿されている。これを見ることにより、より楽しめる。今後も、続編がゆるりと投稿される予定になっているようだ。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

サポートまでは言いません!だって、スキ!みたいなやつなら、ただで喜ばせることが可能ですもの!