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【短編小説】鉄の街、そして月光

 夜中の一時を過ぎたのに、ちっとも眠くならない。体育の時間に疲れてしまって、学校から帰ってすぐに昼寝。しかも信じられないほど寝ていたからだと薄々自覚はしている。
 小学生の聖子は薄暗いキッチンの中、手探りで冷蔵庫を探す。
 静まり返った自宅は落ち着かないけど、誰からの視線を気にすることはない。冷蔵庫を開けると財宝の箱を開けたような光が聖子を包んだ。

 牛乳を一杯。背の低い聖子は気にしてか、牛乳をよく飲む。今は背の順では先頭だけど、卒業する頃には、ひとつ後ろに並びたい。高望みは失望するだけだと自分に言い聞かせ、もう一杯。

 「聖子ちゃん、寝れないの?」

 同時にキッチンの明かりが灯った。聖子がゆっくり振り替えると、聖子の母親がかくれんぼの最初の一人を見つけたような笑みを浮かべていた。

 「寝れなくないし」
 「牛乳なんか寝る前に飲んだら、お腹ぐるぐるぐるーだぞ?」
 「別にいいよ」

 母親に見つかることは聖子にとっては計算外だった。牛乳で白くなった口許を水道で洗うと、聖子ははぁとため息をついた。

 「昨日、学校で何かあったの?」
 「いや、普通に授業」

 母親っていう生き物は何かと子どもの情報を手に取ろうとする。聖子にとって何もない一日も、母親からすれば何かあってほしい一日だと思っているらしい。そんな話題などないなぁ、と。聖子は一日を振り返る。
 しいて言えば、クラスの莉々ちゃんが新しい服を買ってもらったとはしゃいでいたこと。聖子は別に自分のことじゃないしと、昨日の出来事からのエントリーから外していた。

 「ねえ。聖子ちゃん」

 ママはいたずらっ子の瞳で聖子の肩を叩いた。

 「夜の海、見に行く?」

 海。
 聖子は特に海について魅力を感じていることはなかった。ただ、塩水が波打って、塩っ辛い風が吹いている所という認識だった。

 「行かないよ」

 聖子の母親はふんふんと鼻歌交じりで余所行きの身支度を始めていたので、コップをテーブルに置いた聖子は何も言わず母親に従うことにしてみた。
 
 適当な外行きの洋服に着替え、小さなリュックを背負った聖子は「誰にも会うことなんかないけどね」と靴を選んでいた。ストラップのついた黒いパンプス。そこまで履きなれてないけれど、海への興味のなさをここでアピールさせた。
 玄関を開けると空は満月、遮るものなく月光が街を照らす夜が広がる。母親は車のキーをくるくると回していた。
 今時、そんな人いないって。昭和のデートの誘い方じゃないんだし、と聖子は口にはしないが一人で突っ込んだ。

 深夜の通学路は森のようだった。聖子がランドセル背負って通いなれた道はガラガラで、信号機が黄色の点滅で暇をつぶす。
 真っ暗な車内ではAMラジオが夜な夜な一人語り。小学生の聖子も知っている中堅タレントがパーソナリティーを務める深夜ラジオ。テレビで見せるキャラとは違い自意識過剰なことに、聖子は少しながら戸惑いを見せた。
 やけに裏方の笑い声が激しい。お便りの内容があまりにもくだらなすぎて酸欠になるぐらいの声量で笑い続けるが、車窓は静けさを保ちつつ、大きなカラスの翼に街が覆われているようであった。

 「この番組もずいぶん長いね。お母さんが中学生の頃からやってるしね」
 「そうなんだ」
 「中二病なんて言葉も、この番組から流行ったっけ」
 「聞いてないし」

 AMラジオの音質はこそこそ話にぴったりだ。聖子はスカートのすそを握り、脚をぴーんと伸ばして聞き耳立てる。
 こそこそ話と言えば、クラスの莉々ちゃんと授業前によそのクラスの子の話をしたことを思い出した。「高橋ちゃんって占いが得意なんだよっ」という、何でもない話。そして、占いが当たりすぎて高橋ちゃんが少し怖がっているという話。莉々ちゃんは「この話、内緒だよっ」と念を押す。
 聖子にはどうするつもりはないし、そうなんだって相槌すればいいだけの話。カーラジオの話も聖子もそうなんだって聞き流していた。

 二人を乗せた白いアウディは車も疎らな臨港道路に入った。天高く煙突が空を突く。高圧線が罠のように張り巡らされる。大きなコンテナを載せたトラックが韋駄天の如く疾走する。街灯の明かりが白く無機質に肌に刺さる。
 同じ市内なのに聖子が知ってる街と違う表情を見せるという事実。まるで、深夜ラジオのパーソナリティーのよう。

 アウディは脇道の町工場の一角に入り、海岸へと進路を変える。心細い街灯の中、ウインカーの音がリズムよく響く。寝静まった町工場は日本のちからこぶ。灰色のフィルターだけの世界だが、複雑な機械が数学者のように腕を組んで休んでいた。

 いつしか車は工場群を抜けて、視界の開ける場所に向かっていた。

 「着いたっ」

 車の扉を開ける母の声が聖子より年下の子供のように聞こえる。
 誰もいない岸壁に止まった車から降り立つと、聖子のパンツスの音がこつんと小さく響く。
 うとうとと目を瞑りかけた聖子の目前には、真っ暗な海に浮かぶ光輝く城。いや、浮かんでるいのではい。対岸のコンビナートが点々と白い光を放ち、夜の帳を照らしているのだ。
 煙突の上からは炎が揺らめき、無数のパイプが建物の周りを取り囲む。まるで鋼鉄の心臓が地上に現れたか。
 水晶かと見まがう塔の群れがひしめき合うコンクリートに囲まれた海岸。不夜城という比喩が小学生の聖子にでも思い浮かべられるほど、煌々とした光。その上には控え目に月明りが浮かぶ。
 コンビナート群の存在は社会科の授業で知っていたし、工場見学も遠足で行ったはず。なのに、初めて見せる夜の姿は、授業の教材でもなく一つの前衛的な芸術品にも似ていた。

 「お母さんは大学生の頃はリケジョだったんだぞ」
 「理系女子だね」
 「だから、くよくよしたことがあるとここにいつも来てたんだよ」
 「意味通じてないけど、なんだか分かる気がする」

 もしかして、今日もくよくよしたことがあったんだろうか……と、聖子は母親を顔をそっと見上げたものの、憂いを見せるそぶりはなかった。
 宇宙を飛ぶ列車に乗って機械の体を手に入れる旅にも似てるな……と、聖子は煙突からの炎を見つめていた。

 帰り道の車内、聖子はうとうとと舟を漕いでいた。
 よい子はみんな寝てる時間。こんな時間に起きていてごめんなさい。そのかわり、今からぐっすり寝ますから。

  聖子の母はアクセルをふかせながら「聖子ちゃん。このことは誰にも内緒ね」と、まるでクラスメイトとの会話のように念を押した。
 どうするつもりもない聖子は、魔法の城のような景色をそっとまぶたに焼き付けていた。


トップ絵はAIで作成しました。


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