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【沖縄旅行記 #3終】後世に伝えなければいけないもの

3日目

最終日となる今日は、宣言通り沖縄本島南側を攻めることにした。

とは言っても、前日の北側に比べ、那覇から南側はどの観光スポットも近いため、そこまで移動時間はかからないだろう。

ということで、じっくり見られる史跡を中心に回ろうと考えた。



しかし。



私は失念していた。

沖縄の有名な史跡のほとんどが「戦跡」であるということに…


バンタリベンジャー(ズ)

3日目は早く寝たこともあり、スッキリ起きることができた。時間は7時頃。

朝食を摂り、宿のチェックアウトを済ませたのが9時頃。もうこれで宿に戻ってくることはない。チェックアウトをすると、今日が帰る日であることを否が応にも実感させられる。

3日間お世話になったレンタカー、スズキ・タントに「今日もよろしく」と一言告げて、那覇市を出た。

向かうは沖縄本島の南東に位置する島尻郡八重瀬町。
広大なサトウキビ畑とポツポツと点在する家が特徴の穏やかな場所だが、ここで私は一つリベンジを果たしに行った。

それは#2で見られなかったと書いた「バンタ」である。

昨日夕飯後にホテルに戻ってから寝る前に、どうしてもバンタを見たかった私は沖縄本島の南に有名なバンタがないか調べていた。
そして整備はされていないものの、バンタファン(?)一押しのスポットがあることを知った。

それは「慶座バンタ」と呼ばれているらしい。
ちなみにこれで「ギーザバンタ」という。初見では読めない。

昨日もそうしたが、私は一番遠いところから宿や空港があるところへ近づいていくルートを選ぶため、たまたま八重瀬町が那覇空港から一番遠かったため、慶座バンタから見ることにしたのである。

そして道中。

沖縄の大動脈、国道58号線から国道329号線へ乗り換え、国道507号線を南下した。
507号線に入ったあたりから、都会の景色は鳴りを潜め、時間の流れがゆったりとしている穏やかな風景が現れた。

そして、沖縄の南端に位置する国道331号線に入り、走ること数十分。


私は迷子になった。


目的地は八重瀬町なのだが、隣の糸満市を行ったり来たりしている。今日は18時10分発の飛行機に乗らなければならないため、できるだけ効率良く移動し、目的地にいる時間を長めにとりたかったのだが大幅なロスとなってしまった。

色々目印を探したものの特に目ぼしいものはなく、なんとなく居場所がわかったのがこれだけである。

よく見ると「沖縄戦跡国定公園 沖縄県 具志頭村」と書かれている。

右往左往すること30分。やっと最初の目的地「慶座バンタ」に着いた。時刻は10時過ぎ。9時頃に那覇を出発して、道が混んでなければ40分くらいで着く道を1時間かけて走った。

国道から外れて、車一台通るのがやっとの道路を抜けた先にあったのだが、慶座バンタの手前20mくらいは舗装すらされておらず、でこぼこの砂利道を通った。
駐車場も整備されているわけではなく、崖の手前にある空いたスペースに適当に停めてくれと言わんばかりに縁石もなく線も引かれていなかった。

ちなみに周辺は国道が通る地域の宅地開発に使ったであろう、コンクリートや土が堆積している場所で、近くにゴルフ場と怪しげな宗教団体の施設があるだけだった。現地の人も誰一人として見かけなかったので、思った以上に忘れ去られた場所のようだ。


到着した慶座バンタは、はっきり言うとただの崖だった。

一応観光地として整備する予定ではあるのか、中途半端に崖を降りられる階段はあり、どでかい崖を真正面から拝むことはできた。

上の切り立っている崖がバンタ
駐車スペースから降りられるように石造りの階段が作られている

しかし、海を望む崖なこともあり、景色はとても映えていて、迷子になって少し急いていた気持ちを落ち着かせるのに良い場所であった。

慶座バンタから見た海


これだけ綺麗な景色であれば、もっと人が来ても良いように思うが全く人を見かけない。
私が帰るタイミングで観光客と思われる若い夫婦がレンタカーで来ていたが、国道に戻る時はすれ違う車を一台も見なかった。平日だからと言うのもあるだろうが、ネットにも記載のあるおすすめスポットでそんなことがあるだろうか。
とても不思議だ。

しかし、私はこの後行く場所で、慶座バンタにほとんど人がいない理由を考えることとなる。


沖縄が背負っているもの

慶座バンタを出発して、移動すること10分。私は「沖縄県立平和祈念公園」に立ち寄った。

平和祈念公園は沖縄の観光スポットの一つであることは、今さら言うまでもないだろう。穴場スポットが好きな私は目的地に含めていなかったのだが、偶然慶座バンタのすぐ近くにあったため寄ってみることにした。

特に目的もなく平和祈念公園内を駐車場から歩いていると、花を売っていたおばあさんに話かけられる。

どうやら献花をする人に向けて売っているらしい。当初ただの観光客である私は特に花を供える立場にないと思ったため断ろうとしたのだが、どうやらおばあさんはこちらが観光客であることをわかった上で花を売っているらしい。
簡単に言うと、観光客に向けて花を売るビジネスとなっているようだ。

普段ならこういう手合いに関わるとロクなことにならないので敬遠するのだが、やはり人懐こいおばあさんの笑顔と「おばあのかめーかめー攻撃」(この場合買え〜買え〜攻撃か)を受けてしまい一転買ってみることにした。

一束300円。花の相場がわからないので高いのか安いのか判断がつかないが、変に法外な値段を提示されるよりはマシなので、素直に300円を出して一束買った。

買った花束。ハイビスカスが映える。

そして園内を周り、『平和の礎』(へいわのいしじ)の付近に来ると雰囲気が変わるのがわかった。
平和の礎は太平洋戦争時沖縄戦で亡くなった方を民間人軍人外国人の区別なく追悼するために建てられた記念碑で、そこには亡くなった方の名前が刻まれている。
また、戦没者の中で長らく行方不明となっていた方が実は沖縄で亡くなっていたということがわかると、新たに氏名が刻まれる。

厳かな雰囲気に包まれて私も神妙な心持ちになりながら歩くなか、平和の礎の前で複数のおじいちゃんおばあちゃんが談笑している。
どうやら地元の方のようだ。

観光客である私は平和祈念公園を戦跡として慎重に扱う気持ちでいるのだが、地元の方からすれば憩いの場としての公園である。

ここに日常と非日常の差を感じた。


その後、仕事などで沖縄に行き戦争に巻き込まれてしまった本土の方の供養塔に花を供え、平和祈念資料館に立ち寄ってみることにした。

博物館が好きで、博物館学芸員の資格を持っている私は「博物館」「資料館」などの響きにとても弱いのである。

入館自体は無料だが、常設展示室に入るのは有料ということで、大人1枚300円のチケットを購入し常設展示室に入った。

正直なところ急遽平和祈念公園に来たため資料館の展示など下調べを全くしていなかった。ほんの軽い気持ちで入ったのである。

そして、すぐ気持ちを改めさせられた。

平和祈念資料館は沖縄戦の戦況や悲惨な状況をよりリアルに展示するため、映像資料や写真資料が多かった。
その中には音声はないものの崖から海に飛び込む女性の映像火炎放射器に焼かれて真っ黒に焦げた状態で亡くなっている日本兵の写真、明らかに爆弾で体が四散してしまっている子供の写真など、見ていて顔を顰めてしまうものばかりであった。

同じ戦跡博物館がある広島(平和記念資料館)は現在展示をかなりマイルドにしているそうだが、改装前のよりリアルな展示がなされていた時代を思い出した。(原爆投下後の皮膚が爛れている人々のジオラマ、原爆で亡くなった人の埋葬ができず山積みにされた頭蓋骨の写真など)

また、展示の途中には沖縄戦を生き残った人々の経験を伝えるブースがあり、そこでは「自殺なんかするよりも生きていた方がいい」と強い思いを持って戦火を掻い潜った人々の生き様が詳細に記されていた。
その中には、集団自決から奇跡的に生き延びた人、友達が盾となって無事だった人など、周りの人たちの死を乗り越えた人々の姿もあった。

そのようなさまざまな当時の状況を画面や文字から見て私はこう思った。

「もし自分が当時その場にいれば、どういう選択をとっただろうか」

強い意志を持って最後まで生きられただろうか。生きようと思っても死んでしまっていただろうか。それとも生きるよりも死を選んだ方がマシだと手榴弾を胸元で爆発させたり、崖から飛び降りていただろうか。

生き延びたとしても、アメリカ占領下での抑圧に耐えられただろうか。

今平和な時代を生きている私には到底想像もつかない世界がおよそ80年前の、今立っている場所で確かに存在していたのである。

このような歴史の上で、私の大好きな沖縄があることを実感させられた。

そして、同時に慶座バンタに人がいない理由にも思い当たることがあった。
現地の人からすればあそこは「絶景スポット」ではなく「戦跡」なのである。何十年も前の話とは言え、人が多く亡くなったであろう場所に日常的に近寄ることなどないのだろう。



その後は平和祈念公園全体を歩きながら、駐車場へ戻り次の場所へ向かった。


発掘現場という名の公園

平和祈念資料館を見て私は気持ちを切り替えた。楽しむことを最優先に考えていたが、沖縄について知ろうと思ったのだ


平和祈念公園から車で20分ほどの場所に、八重瀬町「港川」という地域がある。

人類の歴史などに詳しい方は察しがつくだろうが、ここは「港川人」という人類の化石が見つかった場所だ。

港川人は旧石器時代に沖縄にいたとされる、いわゆる「原人」であり、発掘当時骨のパーツがほぼ完璧に揃って出土されたことから日本人のルーツを探る重要な手がかりとなった。
(※沖縄の土は石灰岩(アルカリ性)で骨が溶けにくく化石が残りやすいためか、那覇の山下洞人など更新世人類の化石がよく出土する)

発掘から30年以上経った今となっては、「日本人との直接的なDNAのつながりはない」と定義づけられてしまっている港川人だが、昭和の日本考古学の進歩に寄与したことは言うまでもない。


いざ発掘現場へと思い、たどり着いたのは「港川遺跡公園」。

入り口から見た公園全体

公園という割には特に遊具などはなかった。遺跡保存のために整備された場所なので当たり前と言えば当たり前なのだが。

そして一際目立つ、崖にできた大きな穴。ここから港川人が出土した。

フィッシャー

元々は丘陵地の一角だったそうだが、戦後採石場として切り崩されていく過程の1955年に、教育者、植物研究家として沖縄では著名な多和田真淳さんが貝の化石が多く出土することから「港川貝塚」と命名した。
その後、1970年に地元の郷土史家大山盛保(せいほ)さんが、フィッシャー(考古学用語で岩の割れ目のこと)の下部に人骨や旧石器時代の動物化石が埋まっていることを発見した。
1990年代には八重瀬町(当時は島尻郡具志頭村)の調査で同じフィッシャーの上部からも約9000年前の土器などが出土したため、採石場全体を「港川遺跡」として八重瀬町の史跡に指定したという経緯がある。

公園には資料館などがあるわけではなかったが、地形や発掘の経緯などが記された看板が10枚前後あり、港川人は何者か、どのように港川遺跡となる場所が形成されていったかなど詳細を知ることができた。

こういう情報はネットに掲載されているのが普通なため家で調べることもできるのだが、やはり現地で行って見ることのほうが情景などを思い浮かべやすく、よりリアルにその場所で何があったかなどを想像することができる。


猛暑で太陽がさんさんと照りつける中屋外を歩き回るのは健康に悪そうなので、所要時間30分未満で次の目的地に向かうことにした。
しかし、すぐそばに港があり、ちょうどよく海風を感じられる場所だったためとても居心地が良かった。

フィッシャーのすぐ上に採石場の名残として石切場がそのまま保存されている。

天国へ渡れる橋

時刻は未だ昼の12時30分頃。那覇に戻るには早いと思い、予定にはなかったがもう一箇所見てまわることにした。

港川遺跡から向かうこと30分ほど。
向かった場所は南城市にある「ニライカナイ橋」である。

ちゃんと自分で撮った写真です。

全長660m、高さ80mという長大な橋は元々ニライ橋(手前)とカナイ橋(奥)に分かれており、県道86号線と国道331号線を結ぶ交通の要所である。

しかし、県道86号線を南下し、陸上自衛隊知念分屯地付近にある短いトンネルを抜けた所で見られる絶景が人気を集め、今や有名な観光スポットに名を連ねている。

そもそも「ニライカナイ」とは沖縄の方言で「海を越えた先にある理想郷」という意味があり(諸説あり)、橋から遠く見える砂浜や久高島が楽園を彷彿とさせる景色となっている。

私としては同じような光景を辺戸岬や万座毛、慶座バンタなどで見たため新たな感慨などないかと思っていたが、やはり見る方向によって色を変えるのが沖縄の景色である。

特にちょうど天気は快晴となっていたため、ガイドブックにも載せられそうな一枚を写真に収めることができた。

そして、どうやってこのような写真を撮るかだが、実はニライカナイ橋には展望台がある。「るるぶ」や「じゃらん」に載っている写真は十中八九その展望台から撮った写真だろう。

ただ展望台という名前だが、あまり人が大勢来る想定をしていないのか駐車場などはなく、トンネルの上を歩けるようにしているだけである。

私が向かった9月12日は火曜日で平日だったため親子連れが1組だけだったのだが、三連休や盆休みなどで大勢の観光客が押し寄せた時は車を停めるスペースがなくなってしまう。

こんなことを記事に載せていいのかわからないが、ニライカナイ橋に来た観光客が車を停めるスペースは「自衛隊の基地の目の前の路上」である。完全な路上駐車で、東京だったらものの数分で駐禁を切られるだろう。
黙認されているのかわからないが、沖縄ではそんな心配をしなくても良さそうなところも魅力である。


旅の思い出に良い写真が撮れたため、滞在時間自体は20分もなかったがいよいよ那覇へ戻ることとした。


首里城

足掛け1時間ほどかけ那覇に戻り、向かった先は首里城である。

首里城については当初より行き先の一つとして決めていたのだが、その目的は「火事があった後の首里城を見る」ということである。

2019年10月31日に火事のためメインとなる正殿を含め9の施設が焼失した。

原因について、当時は配電盤からの漏電や放火など様々に言われていたが、調査の結果特定できず今に至る。

当時テレビで炎上している首里城を見て、大きなショックを受けたが結局首里城がどうなっているかを知らずに4年が経とうとしていた。

そのため、せっかく沖縄に来たからには再建中の首里城を見ようと思い立ったのである。

ただいきなり知らない首里城を見ると精神的にショックが大きいため、ワンクッション置くことにした。


玉陵(たまうどぅん)

世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する史跡の一つである。
ちなみに「うどぅん」とは漢字にすると「御殿」なのだが、第二尚氏王朝時代に陵墓として築かれたため、「陵」の字が当てられている。

お墓なので最奥にある三つの石室に王族の遺骨を安置しているのだが、チケット売り場の地下にある資料館を見てみると、その中には誰のものかわからない遺骨もあったりするなど、歴史ミステリーが好きな私としては面白い場所だった。

三つの石室

有料スペースに入るために1日300円のチケットを買い、100mくらいの静謐な木々に囲まれた道を抜けると、大きな石門があった。

道の途中のガジュマル。でかい。
石門。意外と低く頭をぶつけそうになった。
こういうところから当時の人の体格を推し量ることができる。

ここを抜けて、石碑が立つエリアを抜けると先ほど紹介した石室がある最奥まで観ることができる。

大きな石門の前に復元された番所があり、その厳重さにここが琉球王家の墓であることを思い知らされた。
(ちなみに実際は石門の東西に番所があったらしいが、古写真が残っていた東側だけ復元されている。西側は写真がなく当時を知る方の証言などを集めたが、建物跡にある土台も見つからなかったため、ここにあったよという看板が立っているだけである)


玉陵での観覧を終え、向かうは首里城である。覚悟を決めて向かった。

(余談だが、玉陵の石室の上にあったガーゴイルのような石像が可愛く、一枚写真を撮った。後で調べたらどうやら陵墓を守る獅子らしい。心の中で琉球の王たちに謝罪した)

アマビエにも見えるが獅子なんだそうだ。

本殿

首里城の玄関である守礼門を通り、正殿に向かうと一気に観光客が増える。近頃円安の影響で外国人観光客の数がコロナ禍前よりも増えているらしく、沖縄にも外国人観光客が多くいた。聞こえてくるのは、英語、中国語、韓国語、東南アジア系の言葉、欧州系の言葉…。日本語のほうが少なく感じた。これも時代の変化である。

正殿に向かう石段を歩いて行き、向かった先にあったのは…


首里城の絵だった

この首里城の絵は、再建途中の正殿などを含めた施設全体を囲っている。
その中には、正殿の前にあったボーダー柄の床(御庭(おにわ))も含まれており、正殿前の奉神門(ほうしんもん)を入ったらすぐ工事現場となっているという状況だった。

一番のメインが見られなくなってしまったのは惜しいが、これはこれで新たに興味を惹く箇所もあった。
それは首里城の再建途中を見られることである。

大きな首里城の絵の後ろにまわると、3階層に分けて工事の現場を見学することができる。

1階部分で見られる光景

どのように建築されるかという説明もなされており、今までは歴史に大きくフォーカスしてきた首里城を建築物の観点から説明しているのである。火事が起こったのは憂慮すべき事態だったが、首里城の違う一面を見られることは観光客としてはとても興味を惹くアプローチの方法だと思った。
火事という災難にも負けず、首里城を魅力ある場所に保っている関係者の尽力に頭が下がる思いである。



首里城の今を知れた後は、首里城の周りを散歩しつつ車を停めた玉陵の近くに戻ってきたが、ここでアクシデントが起こった。
財布にコインパーキングで支払える細かいお金がなかったのである。駐車料金が上がるのも勿体無いし、近くには高校しかなかったため、やむなく玉陵のチケット売り場で両替をしてもらった。
沖縄の人の温情に感謝すると共に、玉陵に眠っている沖縄の王たちに改めて陳謝した。


レンタカーと最後の晩餐と再会と

15時頃に首里城を出発した私は、那覇の中心地に近いゆいレールの赤嶺駅へ向かっていた。

#1で書き忘れていたのだが 、沖縄のレンタカーショップは特殊で、空港付近ではなく街中に店舗を構える店は一部が近くの駅や商業施設を待ち合わせ場所やレンタカーの返却場所としている。
(※たまに車がないと行けない場所なのに店舗で引き渡しのお店もある。そしてそういう店に限って、渡航直前でもレンタカーの予約が安く取れてしまうので安易に予約するとレンタカーショップに行くまでに苦労するトラップに引っかかる)

私がレンタカーを申し込んだレンタカーショップも店舗以外での待ち合わせをしており、借りる場所も返す場所も赤嶺駅のロータリーだった。

借りる際に返却時間を聞かれた私は「飛行機の搭乗が18時過ぎなので17時頃に返します」と返答したのだが、レンタカーショップの店員さんから「ここら辺は平日になると大渋滞になって戻れなくなるから16時くらいにした方が良い」と言われて助言通りに16時返却としたのだった。

首里から赤嶺まで南下する時はそこまで道路が混んでいる印象がなかったが、大通りに出ると確かに渋滞に巻き込まれてしまった。
渋滞に巻き込まれてから大通り沿いのガソリンスタンドに立ち寄るまでの1~2kmを20分ほどかけて走破し赤嶺駅まで戻ったのだが、ここでGoogleマップで調べた所要時間を見てほしい。

15時頃に玉陵を出て、赤嶺駅まで辿り着いたのが15時58分。
25分の道を1時間かけて運転していた。

平日夕方の沖縄を運転するには渋滞に巻き込まれることを覚悟しなければならない。


こうして無事に、沖縄全土を走らせたタントに別れを告げ、ゆいレールに乗り込み、向かった先は当然那覇空港。
もう帰るのかと一人落ち込んだが、ゆいレールの車両に乗り合わせた若いお兄さんたちが翌日から始まる仕事について楽しそうに話していたので、私もお兄さんにつられる形で奮起した。


那覇空港に到着し、早速チェックインと手荷物を預ける手続きを行ったものの、時刻はまだ16時30分。保安検査場に向かうにもまだ早すぎる。

お土産を買うだけでは1時間30分も潰せないため、那覇空港グルメを満喫することにした。

飲み物はもちろんルートビア

向かったのは「A&W」。通称「エンダー」。ホイットニー・ヒューストンの名曲「I Will Always Love You」ではない。

本土にはないが、沖縄には各地にあるファストフード店で、炭酸飲料の「ルートビア」が有名である。

私は沖縄に来たら必ずルートビアを飲むのだが、今回は目的地を多く設定したこともありエンダーに立ち寄っていなかった。
これが最後のチャンスだと思い、基本のセットメニューを食べることにした。

これが沖縄最後の食事になるというのも変な話だが、やはりたまに食べるフライドポテトやハンバーガーは何よりも美味しいと思うので、これだけで満足だ。



腹を満たしたところで私は家族や友人などに渡すお土産を購入し、保安検査場をくぐって搭乗口が開くのを待機していた。

高知の時や沖縄出発の時とは違い、余裕を持った道程である。それもこれも全てレンタカーショップの店員さんの一言あってのものだが、流石にやらかしすぎているので、自分自身も時間に敏感になっていた。

搭乗口前の待機場所に40分前の17時30分には到着していたのである。

そして、私はその時の様子をSNSに写真で上げていたのだが、その時一通の連絡が入った。

それは那覇空港で働いている大学の先輩からだった。

どうやら私が帰る日時がちょうど勤務日、仕事が立て込んでいないタイミングだったのである。

約1年ほど会っていない先輩だったため、久しぶりの再会で話に花が咲き、さらにちょうど1週間後に先輩は結婚式を挙げると話をされた。急遽の話だったので祝儀などはなかったが、ありったけの祝福を言葉にして伝えた。

一人寂しい旅の終わりに彩を添えてくれた先輩には感謝してもしきれない。

その後はトラブルもなく家路についた。

エイサーに始まり、再会に終わる。とても爽やかな気分で沖縄旅行を締めることができた。


謝辞

高知の時とは打って変わって、今回の沖縄旅行は要所要所で人と触れ合った旅になりました。
レンタカーショップの店員さん、エイサーを一緒に踊った仲間たち、目的地を選ぶのに協力してくれた地元の友人、夕ご飯に付き合ってくれた後輩、平和祈念公園で出会ったおばあ、空港で再会した先輩など今回の旅に欠かせない方々です。
出会った方々にこの場で感謝を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。


10000字近い大容量の記事となりました。正直自分でも読み返すのがしんどいので、徐々に削れるところは削って要約していこうと思いますが、それだけ伝えたいこと、体験したことが多かったということでご容赦いただけると幸いです。

それでは、また次の記事でお会いしましょう。
お読みいただきありがとうございました。



前日譚↓

旅はここから始まった↓






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