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黒沢清のフィルム・ノワール「カリスマ」_役所広司、壊れる。

1999年に撮影、2000年2月26日に公開された本作に描かれたもの、それは20年後の今日にも通じる、反駁が生み出す時代の閉塞感、それに対して繊細な人間だけが抱くことのできる虚無感 であった。

監督 黒沢清
キャスト
役所広司 池内博之 大杉漣 洞口依子 松重豊 大鷹明良 目黒幸子 戸田昌宏 稲村貢一 田中要次 吉田淳 永田正明 川屋せっちん 三浦景虎 ジーコ内山 宮下周邦 大迫茂生 山崎豆造 塩野谷正幸 風吹ジュン
脚本 黒沢清
音楽 ゲイリー芦屋
その他スタッフ
撮影/林淳一郎 照明/豊見山明長 録音/井家眞紀夫 美術/丸尾知行 編集/菊池純一 助監督/吉村達矢 
“世界の法則を回復せよ"という謎のメッセージを受け取った主人公の刑事・薮池五郎がふらりと訪れた森の中で出会った1本の木。この森は、この木の根から分泌される毒素により、壊滅の一途を辿っているという。生かすか、殺すか、いや共存はありえないのか?「あるがままにだ...」いつしかカリスマと同化した薮池が導く世界の法則とは...?

日活 公式サイトから引用

プロットは単純といえば単純だ。
森の中の空き地に生えた、カリスマと呼ばれる何の変哲もない1本の木、ただしその根から分泌される猛毒が森を枯らしつつある、をめぐって対立する人間たちのグループに、都会からやって来た休職中の刑事・藪池がからむ。
藪池は、映画の冒頭で描かれるように、担当した事件で犯人も人質もともに死なせてしまうのだが、その犯人は射殺されるさいに、「世界の法則を回復せよ」という手書きのメッセージを藪池に、文字どおり預言として託す。
藪池は森に踏み込み、人間たちの抗争に巻き込まれていく。1本の木を守るか、森を守るか、また両者を救うことはできないのか、「カリスマ」をめぐって常軌を逸したさまざまな人間が登場してくる。意見の違うもの同士、互いに相容れることはない。社会の縮図 が浮かび上がる。

たとえば、カリスマの木を文字どおり神木として崇拝する青年・桐山 (演:池内博之)は、

強いものが勝つ、それが世界の法則だ

自由は一種の病気だぞ。本当に健康な人間が望むのは、服従することだ

などと断言し、森が全滅することをおそれてカリスマを伐採しようとする中曾根(演:大杉漣)ら植林作業員と闘う。
植物学者の美津子(演:風吹ジュン)は、森全体の秩序(生態系)を保つためには、カリスマを除去し、森全体を一度完全に破壊すべきだと警告する(人類滅亡を願う反文明論者でもある。妹の千鶴が常識的な人間なのと対照的に。)
押し問答の果て、だんだんと、何と何が対立し、何が問題なのか分からなくなっていく。俺が俺が、という言葉ばかりが横滑りしていく。

「森」と「カリスマ」を巡る対立、これは人間社会におけるマジョリティとマイノリティの立場を代弁して(いるつもりになって)御旗を掲げている人間、すべてのあまねく党派同士の対立の暗喩、と捉えることもできる。


自分とは真逆の者たちの意見に全く耳を傾けない、この現代社会の合わせ鏡というべき森の中を藪池は彷徨う。「すべての証拠を取捨選択して真実を抽出する」刑事という仕事の業、両方の意見に耳を塞ぐ、または片一方の意見しか聞かない、という態度をとることができない。
いずれの勢力にも加担し得ない藪池は迷い、憔悴し、こわれていく。自分の存在意義の象徴=警察手帳の返却を上司に命じられて、さらにこわれていく。


そして最後、彼がたどり着く境地こそ、ニヒリズムだ。
無党派? 否。 ホアキン演じるジョーカーの様な怪物と化すのだ。
藪池は、誰に聞かせるまでもなく、こうつぶやく。

生きる力と殺す力は同じものだ。両方が生きようとしているのだから、両方が生きればいい。それがあるままということだろう。もちろん両方が殺し合えば全滅する。それも、あるがままだ。でもそれじゃ世界が無茶苦茶になってしまう。それを避けるために法則や軍隊が必要だと君(千鶴)は言った。僕もついこないだまで何の疑いもなく、そういう仕事の真っ只中にいた。
でもやっとわかった、ぼくは、あるがままの「平凡」な人間でいい。
特別な木なんて一本もなかったし、森全体というものもなかった。ただあっちこっちに平凡な木が一本ずつ生えている。…それだけだ。

そして彼は「生かしてみたり、殺してみたり」無差別に森の中を「木」を斬り倒すアナキスト、と化す。すべてを受け入れることで、すべてを拒絶するのだ。
そして彼の行動をきっかけに、それまでギャンギャン喚いていた「カリスマ」巡る不快な者ども(桐山や中曾根)が、転げ落ちていくように破滅していく。
具体的に言えば、森から生きては出られなくなる。 痛快だ。


いや、アナキストやニヒリズムとは、しょせん人間様()の視点でしかない。
藪池は「カリスマ」と同化している。「カリスマ」の視点で言えば森というコミュニティが維持できる以上に存在する木、自分が得るべき養分=生存権を奪う他者は、間引かなくてはならない。
だから、藪池が「木」を無差別に斬り倒すのは、当然の帰結。


そして最後、「カリスマ」自身も藪池の手で破壊される。
藪池がなぜそうしたか、は皆様の目で確かめて欲しい。
SNSの登場によって言葉がますます氾濫する社会になった今だからこそ、いっそう存在感を増す、危機感、アラートに満ちた黙示録的な傑作だ。


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