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「育児」と「介護」がアウトソーシングできる社会を目指そう

先日ある座談会で、「育児」や「介護」のについての話題になった。完全に脱線的な内容になったので、そこまで深まることはなかったのだけど、個人的に考えさせられるものがあったので、今日はその「育児」や「介護」について考えてみたい。

そのとき話題になったのはこれらの「家庭内労働」の、しかも「家族」に対するケアの「市場化」についてだ。核家族において、両親が働きながら子供を育てるのはまず不可能……というか、かなりの「無理ゲー」になる。しかしかといってかつての大家族や、専業主婦前提の社会に回帰するのはまったく現実的ではないし、人間の幸福追求という側面から考えても「正しくない」。では、どうするか。

答えは概ね2パターンしかない。それはつまり「市場化」するか、共同体の相互扶助かだ。一般的には前者が野蛮な考えで、後者が正しい選択だとされる。しかし本当にそうだろうか、と僕は疑問に思ったのだ。

このnoteで繰り返し書いている通り、共同体とは強者が得をするシステムだ。物語の主役や準主役級の位置につけた人にとってはさぞかし気持ちがいいだろうが、端役や悪役にされた人にはたまったものじゃない。

対して市場は「公平」だ。貨幣さえもっていけば、共同体の隅っこの陰キャだろうが、余所者だろうが同じサービスが受けられる。対して醤油が切れたら醤油を近所の人に借りに行く共同体の相互扶助は、人間関係を一定のレベルで築き上げていないと、醤油すら手に入らない「地獄」になるのだ。

しかし多くの共同体主義者はこう指摘するだろう。なんでも市場化してしまうと「格差」が発生すると。お金を持っていないと子育てや介護ができない世界は問題ではないか、と。それはよく分かる。だから僕はこう考える。「だから国家による再分配が重要なのだ」と。

僕の結論は、子育てや介護は国家の運営による(または国家に支援された)「安価な」サービスを利用した家庭からのアウトソーシングと、それを下支えする強力な富の「再分配」だ。絶対に共同体の相互扶助に舵を切ってはいけない。それこそが人間関係的な弱肉強食の世界を生むし、そもそも間関係における強者/弱者は実質的にかなり経済力や社会的地位の高低で決定されるはずだ。

もう少し詳しく考えてみよう。

そもそも僕は子育てや介護といったセンシティブな仕事は専門教育を受けた「プロ」以外にさせるべきではないと思う。「人間は昔から自分たちで子育てをしてきたんだ、それが自然なんだ」とかいう連中はアフリカのジャングルに戻って丸裸になり、狩猟採集生活とかすればいいと思う。そして消毒もしない泥水を飲み、感染症かかり放題の生活でもすればいいと思うのだ。

人類の発展とは分業の発展と同義で、つまり「餅は餅屋」こそが世界の真実だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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