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ネット上の「言説(情報)」の検証コストが上がり続けた結果何が起こるかを、「格差」から考えてみた話

 今日は、ちょっと思考実験的なことをしてみたい。それは「分断」というものと社会はどう向き合うのか、という問題だ。デリケートな問題なので、あくまで例題だと思って欲しいのだけど、たとえば年金や社会保障の問題では「世代間格差」がしばしば問題になる。これを是正するべきだ、と考える人たちが意見を述べると、多くの場合それは「社会の分断を煽るべきではない」と批判される。僕はここにちょっと引っかかる。もちろん本来はゼロサムゲームではないものをそうであるかのように喧伝して、どちらかの陣営の動員を目論む……というのがポピュリストの常套手段であることくらい僕も当然知っている(こういう仕事をしているくらいなので、そりゃあ)。しかし、逆にこうしたある対立点を設定することそのものを分断を煽るべきではない、と批判することによって本来存在する問題や不公平を覆い隠してしまうケースもあることを、僕たちは忘れてはいけないと思うのだ。

 分断そのものは、善でも悪でもない。不必要な分断線を引くことで、悪質な動員を試みる行為が問題なのであって問題の構造を明確化するために「分断」を認めることそのものは何も悪くない。病状を把握することは重要だが、そのことによってもしかしたらその人は特定の臓器に負担のかかる治療を選択するかもしれない。実際にその治療を行うかは、その人の総合的な判断だ。しかし、特定の臓器に負担のかかる治療が提案されるかもしれないので病状を指摘するべきではない、と考えるのはどう考えてもおかしい。

 そして僕がいま興味があるのはこの「分断を煽るべきではない」といった言説のもつ「強さ」のメカニズムだ。言い換えると、この論理的にはあまり整合性のない「言葉」が高い威力を持つのはなぜか、という問題だ。
 たとえば太平洋戦争の末期に、日本は戦争に負けるという認識はかなり広く共有されていたが、それが大ぴらに語られるかどうかはまた別問題だったはずだ。結論から述べると、僕はこの種の「議論を禁じる」タイプの言葉にはもっとも気をつけるべきだと思う。それはときに、分断を誘発する言葉以上に大きな悲劇をもたらすだろう。僕は分断は正しく可視化したうえで、その分断が好ましくないならそれをのりこえる方法を考えるべきだと思う。分断を不可視にすることは、つまりここに分断があるのではないかと問う言葉すら禁止することはもっとも危険なのではないか。

 以下、その理由を書いていこうと思う。そもそも今日において、いや、すでにかなりそうなっているのではないかと思うのだが、メディア上の情報は検証コストが上がり、真面目に参考にしようと思ったときに大変になりすぎている。今日の情報環境では全員が発信能力を持ち、そして政治的、経済的な動員と情報発信が直接的に結びついている。その結果として、ポジショントークのインセンティブがかなり上がっている。こうなると探索コストと検証コストを天秤にかけたとき、分野や深度によってはメディア上というか、ネットワーク上の情報が「割に合わなくなる」。

 このとき、人間はどういう行動を取るだろうか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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