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「弱い自立」のほうが「ゆるい共同体」より、実はハードルが低いし、そして「生贄」も必要としない分「いい」という話

昨日は渋谷のヒカリエで「地方創生」をテーマにしたトークセッションに出演した。


僕の主張はシンプルで、昭和的な「共同体」をどうにか解体するしかないというものだ。いや、地方でも都市部にはそんなものなない、と思う人もいるかも知れないが、さすがに『となりのトトロ』みたいな世界は消滅しても、次の知事や市長が「どの高校出身か」を本気で気にしている人がマジョリティになっているような地方「世間」はまだまだ残存している。僕はこういうものも念頭に置いている。あるいは「共同体は実のところ閉じたものが常に存在しているものではなくその都度共同性がボトムアップに立ち上がっているにすぎない、だから共同体の「閉鎖性」を問題にするのは間違いだ」とか言う人もいるかもしれないが、これはただのレトリックで無内容な反論だ。共同体の閉鎖性とは、その都度立ち上がる共同体の範囲を決定するための「敵」の設定によって発生する。つまり放っておくと閉じないものだからこそ人為的に閉じようとする。そのために連合赤軍の集団リンチや職場やサークルの欠席裁判飲み会が起こるのだ。

そして僕は端的に昭和的な、つまり封建的で差別的で閉鎖的な共同体を解体する以外に、この土地に留まりたくないと考える現役世代の流出を止められないし、経済についてもこの種の土着の勢力が解体しない限り新しい「稼げる」産業が地方を再生するというシナリオは実現しないと思う。そして仮に実現したとしてもそこが、前近代的なコネ社会のままだったとき、そこは若い世代に魅力的な場所にはならないだろう。

いわゆる「キラキラした地方創生」の類も、スター的な時自体の多くが単に国からせしめた税金を大量投入して(住民一人あたりの予算が都市部より数百万くらい余計に多い自治体も少なくない)スローフード系のテーマパークをつくり、東京のエシカルな「趣味の良い人」のSNSで受けているだけにすぎない。(いや、別に税金大量投入して「実験」するのはいいんだけれど、再現性のないモデルなのであまり持ち上げてもダメだと僕は思う。)

ちなみに昨日のイベントでは、他の登壇者のみなさんは共同体を「ゆるく」することが必要だと考えていて、僕は共同体じゃダメなんじゃないかと考えていた。正確に言えば、僕は共同体は不可避に発生してしまうものなので、その共同体からこぼれ落ちた人や、共同体の中でいい位置に置かれない人が絶望しないために、共同体に入らなくても生きていける「社会」が必要だと考えているのだ。

そして結論から述べると、僕は「地方」にこそ「共同体」ではなくこの「社会」が必要だと思う。しかし今は逆になっている。都会は「共同体」が希薄で「社会」しかなく、逆に地方には「共同体」しかなく「社会」がない。このミスマッチをどうするか、という話をこれからしたい。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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