見出し画像

ぼくは思う 人と文化  芝居の主人公が「哲学者」って、本当ならすごい!

 東京新宿の「紀伊国屋サザンシアター」は、高島屋にある格式ある劇場だ。その舞台で10日間(5/13~5/22)も、日本の哲学者を主人公にした芝居が上演された。哲学者だって、何故?人は入るの?10日間も?

 それが驚き、3200人以上の入りだったというのだから世の中分からないものだ。

 「空疎な興奮でもなく、平常な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。一定の出発と一定の目的とをもつ歩みで常にあるであろう。この意味に於て、歩みは道を逐うて運ばれなければならない。一切の生活に於けるこの特色は、恰も方法という言葉によって代表される。」

 開幕して間もなく、主人公が聴衆(舞台では法政大学の教え子)に語り掛ける。「え、何だって。」「何言ってんの、さっぱり分からねぇ。」「哲学者だもんなぁ、芝居成り立つのか、これで。」と思った人が数多くあったろう。芝居でなくても、難しい。

 「科学方法論」冒頭の言葉で、僕は知っていた。学生時代、日本文学科の友だちに誘われ、40を越えたばかりと思われるある先生の家を訪れた時、愉快そうにその先生がこの「台詞」を暗記していて聞かせた。酒が入り、大乗りの体で、どうだ、お前たちにわかるか、と自慢げの表情をされた。

 つまり、この「台詞」は、難しいことを好む向き、特に若い先生には格好のものだったのだろう。20代後半の気負いの入ったこの一文、主人公の哲学者はその意味を学生たちに語って見せる。それはこの哲学者が生涯筋を通した考え方(方法)で、脚本家は大したものだ、と僕は思った。

 しかし、この言葉で彼を印象付けて欲しくないという気もした。例えば、もっと後に書いた科学論、あるいはイデオロギー論に、伝わりやすい言葉が色々あるはずだからだ。

 だが、心配は杞憂に終わった。2時間40分、観客は固唾を呑む思いで舞台に釘付けになった。主人公が哲学者の芝居が、一般に受ける筈もなかろうと思っていたのは浅はかだった。脚本家、演出家、演者、スタッフ関係者、彼らの熱意は、難しい哲学の内容を伝えるより、むしろ彼、家族、友人たちが、如何にして時代と向き合ったか、そして科学的精神を信条とする哲学者が、如何に獄中にあって死を迎えざるを得なかったかということだった。

 今、世界の人びとは、ウクライナとロシアを軸に「戦争と平和」の問題に直面している。ことは本当に深刻度を増すばかりである。歴史は無論、ロシアの侵攻が始まる前、いったい何が起きていたのかまで考えるべきであることは言うまでもない。翻ってこの日本。日本が直面する難題や未来を考える人の中には、教訓となるべき過去の事柄を考える人々が数多くいるに違いない。

 その時、戦前すなわち治安維持法や国家総動員法などの歴史を振り返るだろう。言うまでもないことであるが、そのこと抜きに戦前の軍国主義、戦争など語ることはできないのである。

 例えば『蟹工船』の小林多喜二(1903~1933)、そして第一回の普通選挙(1928)で京都から衆院議員に選ばれた山本宣治(1889~1929)。生物学者で京都大学の教員だった山本は死を賭して京都の駅から、護衛を断って東京に立ち、「山宣独り孤塁を守る」と治安維持法の改悪に反対した。山本宣治は帝国議会のその夜、宿で虐殺されたのである。あまり知られていないから書くが、戦後に国会で議員となった元特別高等警察官僚は54人もいたそうで、何ということだろう。

 言論の自由が奪われ、暗殺、拷問、特高警察の跋扈があった。日本国民の大多数は両手を上げて万歳を叫んで、戦場に若者を送り出す時代があったのである。国民(当時は臣民)の素朴で自然な良心に訴える、歪んだプロパガンダで国中を包囲した歴史を忘れるわけには行かない。

 僕の親父は右翼を自認し、中国戦線から命からがら帰ってきた軍属の兵士だが、ある時、国会中継を見ていて言ったものだ。「壇上の大臣たちを見て見ろ。酷い顔をしていやがる。あいつらは戦争の本当の怖さを知らない連中だ。」と。

 当時は、精神の自由や身体の自由を求める人間に、どれほど過酷な時代だったか、そう思う。そして今の我々は、本当の怖さを十分に知っているとは言い難いのではないかと、つくづく思う。

         

戸坂潤

 前置きが長くなった。肝心かなめのその芝居を5月18日出かけて観た。僕は劇評家ではないし、その自覚を持つことはできないので、どうか手前勝手なことを書くことになることを前もってお許し願う。

 『眞理の勇氣』、副題は「戸坂潤と唯物論研究会」。青年劇場の第127回公演である。僕は、劇団のこの英断に驚いた。初めは信じられない思いだった。というのも、僕は曲がりなりにも哲学を自分の選んだ道とし、戸坂潤(1900~1945)の時代の加藤正(1906―1949)や永田廣志(1904~1947)についての論文も書き、戸坂たちが作った唯物論研究会は、「科学的精神のよって来たる研究会」であり、東西冷戦後の世界にあって、なおその価値が高いと見る者の一人だからである。

 戸坂潤は、もともと物理学を専攻する学徒だった。第一高等学校を卒業し、京都大学哲学科に入った。秀才中の秀才、一高の先輩三木清(1897~1945)に倣ったと言われる。そこにはそうそうたる顔ぶれがいた。先生では何と言っても西田幾多郎(にしだきたろう:1870~1945)である。田邊元(たなべはじめ:1885~1962)教授に弁証法を研究する動機を与えたのは戸坂らだったそうな。

 『眞理の勇氣』は、劇団チョコレートケーキの古川健氏の書き下ろしたもの。氏の脚本に基づいて上演されたのだが、全身全霊をかけたという形容がしっくりと収まる上演であった。古川氏は、今や押しも押されもせぬ劇作家と言ってよいが、プログラムでこう書いている。

 「戸坂潤。/唯物論研究会。/恥ずかしながら、どちらもこの作品を書くまでは知らない名前でした。/執筆にあたり調べるにつれ、あの戦争の狂気の迫る時代に、ファシズムの嵐が世界中で吹き荒れた時代に、戸坂潤と唯物論研究会の人々が科学的精神を掲げ抵抗をし続けたことがまるで奇跡のように思えたのでした。/戸坂は日本的イデオロギーの誤謬を鋭く指摘し、錯誤に陥らない「科学的精神」に重きを置いて思索を深めています。/

これは彼の数十年先の未来を生きる我々にも切実な問題であるように思います。/この『眞理の勇氣』という物語を、私は戸坂潤と唯物論研究会に対する私自身の驚きと感動と大きな共感をこめて書き上げたつもりです。/いまだ戦争と決別できない我々人類。いかに誤謬に惑わされず、錯誤を捨てて、より良き未来を獲得するか。/戸坂潤の人生には、その問いに対する大きなヒントが隠されているように思われてなりません。」

 率直に心の底からの驚きである。唯物論を、科学的精神としてとらえる。批判、抵抗の拠り所となる哲学的な精神としてとらえる。それを広く、芝居の形で僕たちに伝える。限られた人々しか読まない(と思う)論文の形ではない。

 また、著名な演出家の鵜山仁氏は書いている。「同時代を呼吸することの恐ろしさ、と同時に稽古場で、また舞台の上でそれをフィクションとして、つまりは自分達の問題として追体験する醍醐味と困難を、日々感じないではいられない。」

 脚本の古川氏は、劇中で岡邦男(1980~1971)に語らせる。「私たちの仕事は、働く大衆から離れている。」「私たちの仕事は、働く大衆の中で考え、研究し、啓蒙し、批判していくことなんだよ。」と。しかし、大衆と分離していなければ、「危険思想を流布したとして捕まってしまう。」のである。この事情、状況を踏まえるべきだろう。戸坂潤に有名な言葉が残されているのだ。「おけさほど唯物論はひろまらず」(1938/8)。

 ただ、今も「唯物論」が広まっているとは言い難い。戦後すぐから、左翼の政治的勢力が絡みつき、長い間、そこから生じる論争や綱引きに明け暮れたところがあるからだろう。その結果、唯物論と言えば左翼だし、共産党とイコールと思われたりする。決して、科学的精神として受け止められてきたわけではない。時代がそうさせたとはいえ、口汚い罵り合いは困ったものだった。

 非科学的な思想、精神論が支配する世の中にいつの間にか陥った日本。戸坂潤たちは、科学的なものの見方と知性に、学問の学問たる所以を信念として、1932年仲間たちと唯物論研究会を創立した。そして戸坂は、敗戦の数日前、1945年8月9日、長野刑務所で獄死した。科学的精神を掲げ、国民の生活感情を歪めるあらゆる傾向に対して、幅広い論陣を張ってのことである。

 戸坂の死後、つまり戦後すぐ岡が戸坂の家を訪ねる場面がある。戸坂の妻イクが新約聖書を見せ、獄中で愛読していたと言う。なぜか僕は劇中でその言葉が拾えなかった。別のことを考えていたのだろうか。その点を聞かれて、ことばに詰まった。

 戸坂は唯物論の総大将なのである。聞いてきたのは、学習グループPOSSのメンバーで、別の日に劇場に足を運んだ面々である。僕には三木清や後で触れるが永田廣志も気にかかる。だから余計に、この問題を避けることはできない。(三木は、親鸞研究の途中だった。三木にとって、新たな理論活動のために、沢山のことを教える存在が親鸞だったと言える。それだけに、彼にとっては無論のこと、彼(ら)の死は僕たち戦後を担う者たちにおいても、言葉にならぬほど残念無念至極なのである。)

 戸坂最期の年、娘の嵐子さんと周囲に当てたハガキがある。関連する所を下に掲げる。嵐子さんはこの年東京女子大に合格する。
 
 戸坂嵐子殿他御一同(昭和二十年一月八日朝)
 このハガキ、ホゾンのこと。今年は去年よりも良い年であるように。松の内もすぎたが、年頭に際し、お父さんの九月来の勉強の報告をしておこう。専ら仏教の勉強だ。仏教関係の書物二十五冊以上、内、国訳一切経十四冊(阿含経10、四分立4)、諦観の「天台四教儀」(織田の「和解」による。なお蒙潤の「集註」あり)などもあり渡辺楳雄「小乗仏教」、ピ・ラクシュミ・ナラス「仏教の要諦」(立花訳)、ポール・ケーラス「仏陀の福音」などは好著。旧新約聖書(明治二十五年版)などを通読。総計一万二千頁以上になろう。(以下略)
 

 ここまで書くと、次の便りも引用したくなる。「吉報」とは大学合格のことだ。引用を追加するのは、古川氏の脚本がいかに人間をとらえていたかと改めて思うからで、とっても大切な芝居の「要諦」なのだ。

 戸坂嵐子殿(二月九日朝)
 吉報(嵐子及び母さん)見た。お父さんは本当に嬉しい。一陽来福の感だ。之も僥倖と人々のおかげであること、幸ちゃんと同断である。お祝いの格好をした御馳走(ムシパンのクリスマスケーキ、同じく鯛ヤキなど如何?)してお貰いなさい。――今後は一人前の大人としての待遇を受けることになるから、対家庭対社会上の責任を自覚して、健康と性格とに自分で向上を心がけること。処で勉強の方、三月一日から毎日一時間前後(長いのは無効)ラムのシェクスピアを自分で工夫憶測しながら文脈を理解して読む努力を続けること。之に半年苦心すれば英語の読書力と理解力は著るしく進歩する。之は絶対励行のこと。

 戸坂嵐子殿(六月二日午後)(長野)
 その後変ったことはないか。手紙おばあちゃん二通(外に四月二十五日出のは東京で見た)、お母さん一、嵐子二受け取った。お父さんは大変元気、身体も大いに好調、ここはミソが豊富で甘いので大分太ったようだ。食事の分量も運動も風呂も仕事も東京よりよいので喜んでいる。本は東京より少し不自由だが、国訳一切経は続けてよむことにしている。梨、藤は素より、牡丹、かきつばたもすぎて今は桐にひな菊が見られる。二三日中に芍薬が吹くだろう。猫岳(スガ平)の雪もやっと消え、周囲の山は新緑がまだ浅いが駘蕩たる霞につつまれている。(中略)

 (続き)嵐子は英語の勉強はお父さんの云った通りしているか。それから「ブランデスの近世ヨーロッパ文学史」(八畳のタタミの上の書架に七冊揃い)の一読をすすめる。お父さんは徹夜して耽読した本だ。ここではニュースを割合聞ける。手紙時々たのむ。        

戸坂潤

 大体の言い様だが、理論の研究者は、理論家個々人の生活や感情など無視しても研究、論文発表にあまり支障がない。しかし、文学的ジャンルはそうはいかない。芝居作りは全くその逆である。哲学者を描くのに、その理論は無視できないであろうが、そこを主にしたら成り立たなくなるだろう。しかしもちろん、理論を軽んずれば、描けなくなる。一つのジレンマである。

 だが、個々人の生活や感情、育った環境などを抜いて、哲学の理論が正確につかめるかと言えば、そうではないかも知れない。理論から真実を見出すには、論理的なことだけでは足りない、そう思うのだ。

 その点、青年劇場の『眞理の勇氣』は、僕の欠いていたものを自覚させてくれた。「家庭」の事情だ。どうも僕はこうした点に弱くて鈍感と認めざるを得ないところがある。その意味で知らないことが次々に舞台であらわれる。戸坂に限らず、大体女性の存在を意識したことがないというか、乏しいのである。だからこの芝居で女性が大きな働きをすることなど、考えられもしなかった。

 例えば岡の女性スキャンダル、それがあったことを知らないではなかった。しかし関心の外であった。それでは、生きた時代のその何分の一を分かっていたということではないか、そう思い直さねばならないかも知れない。何を今更で、失笑寸前。でも、やはり無理かと思ったりする。ウーン。ジェンダー、無関心ではないのだが・・・。

 長くなり過ぎた。ブログらしくないかも知れない。しかし、ここまで来たら、あと少しだけいくつか書いておきたいことがあるのだ。

 先ず①宗教のこと、次に②長野刑務所のこと。最後に戸坂が昭和10年に家で検事に書いた③手記の一節である。

 ① 宗教について。誰しも、1月8日の娘嵐子さんに当てた戸坂の読書振りには驚嘆するだろう。これで宗教に無関心とか、単純に宗教否定をする男ではないという点、十分だろうが、もう少し背景となるものに触れておこう。それが一番分かるのは唯物論研究会に創立期から関わったロシア語の(東京外語卒)永田廣志である。彼は日本人に宗教脱却の機会を与えるべしと、当時のソ連型思考に忠実に、全国の農民を相手に講演して回った。だが大不評であって、そっぽを向かれ、孤立した。

 「宗教は阿片である」というマルクスの言葉が独り歩きしていた。その言が誤って利用された結果であったが、永田の偉いところは、あれ?俺ってなにも知らない、日本のことがよく分かっていない、と思ったであろうことである。彼は改まって、1938年(昭和13年)発行の『日本封建制イデオロギー』という著作に心血を注いだのである。同じことが戸坂にも言えるということなのである。もっとも、戸坂は始めから大衆や娯楽に深い知的関心を寄せ、論文も書いているので同列には出来ないのだが。

 戦後の唯物論研究は階級闘争理論と現実の中で、政治的に偏った者たちがその天下を取っていたようだ。だから、戸坂や三木清たちが戦後社会の中で生きていたらと思わずにいられない。(先に触れた加藤や永田も同様である。)

 ② それゆえに思う。長野刑務所のことである。戸坂は獄中で、7月に次のように書いていた。(※は、空襲を意識してのこと。)

戸坂嵐子殿(七月二日午後)(長野)
 おばあちゃんの手紙、かあさんの葉書4、嵐子の手紙1受け取った。当方変ったことなし、目方も大分増したらしい。ニュースをよく聞く。芙蓉と名を知らぬ花の花盛り。この頃は金板みがきをやめて足袋職人。毎日薬を食う。毎日ヒゼンの薬湯に入る。書架は南側中央及び北が大切。いざという場合には井戸に投げ込むのも可*。おばあちゃんには若い者の意見をよく聞いてやるように。出来たら葉書五六枚送って欲しい。

 戸坂潤は、8月9日長野刑務所で獄死した。上の手紙の日付から僅か5週間後にである。元気そうなのに何があったんだ、と思うのは当たり前じゃないか。疥癬(よく捉えようとすると分からない)と栄養失調だった、と言うのであれば、ほかにも「沢山」同様に獄死した人たちがいるのではないか。敗戦間近で、思想犯に死を仕向けたと考えてもおかしくない。所長らの指示、暗黙の了解はなかったのか。そのあたりの調査が為されたのかどうか、そういうことを研究した人がいる筈で、知っていたら、天下に知らしめてもらいたいと思うのである。獄死を、僕は額面通りに受け取れないのである。

 ③ 本会は一学科、一大学に限られない、一個の民衆的学術団体である。反覆強調したように之は何等政治的色彩・傾向を有たないし、又もってはならない。吾々の研究すべき唯物論中の一つ、例えばマルクス主義は、なる程明かに政治的実践を重んずる。併しだからと云って吾々唯物論研究家が各自の研究を政治的実践に結びつけねばならぬという必然性を一向有たないことは理の当然である。そればかりではなく、実際問題から言っても、吾々の一人一人はそれぞれの家族を擁しているところの一市民であり、この生活条件が吾々の研究の基礎的条件となっている。だから吾々が研究目的を実際に果すためには、言葉の十全な意味に於て市民権を完全に保証されねばならぬ。

 唯物論研究会事務長 戸坂潤の名において、東京地方裁判所検事局検事に書いた長い文章、手記の一節である。これは、全く任意で、自宅に於て執筆し提出したとされているようだが、とにもかくにも、1935年(昭和10年)1月に彼が一心に認(したた)めたこの手記には、唯物論の人間的本領が示されていることを紹介しないわけにはゆかない。

 最後になったのだが、青年劇場の『眞理の勇氣 戸坂潤と唯物論研究会』は、世に問うに値する内容を擁した「エポック・メイキング」な芝居上演だった。あの難しいやり取り、台詞をいとも当然に演じる役者さんたちの力量と情熱、それを支えるすべてのスタッフの活躍、そして戯曲作家古川健氏の並々ならぬ研究と構想、それを現場で采配する鵜山仁氏のまことに見事な演出。

 芝居の中には書き留めたい台詞が散りばめられている。そこに至らぬ文章を恥じる。けれども、ひとまず終わりにしなければと思うのである。御一読を深く感謝して、皆さまのお考えに、いささか僅かでも貢献できたなら幸いと思うのである。

 (前回から10日経ってしまった。お詫びします!唯物論と観念論、特にマルクス主義者を縛り付けた哲学の二分法、その意味については、項を改め「人と哲学」で扱うつもりです。)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

サポートは本当に有り難く!そのお心に励まされ、次の活動への大きなエネルギーになります!