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I LOVE 宮城

つい先日の事。

宮城県に旅行に行ってきた。

旅行というより感覚的には”里帰り”に近い。

私は小学校5年生から高校2年生まで宮城県に住んでいた。

親の離婚で父に引き取られ、父の実家が宮城県だった為、移り住むことになった県である。

事情が事情だけに辛い思い出や記憶の多い場所なのだが、家庭環境を除いてはそれはそれは楽しかった。

あの頃、友達や学校という居場所がなければ私が私でいられなかったのではないかと思える程、子供が抱えるにしては大きすぎる問題をいくつも抱えていたように思う。

そんな私を受け止め、私を私らしくしてくれたのが友達であり先生であり、私が”子供”として居れた場所が学校だった。

私は友達と先生と学校に沢山助けてもらった。

なので私の宮城県へ対する感謝の思いは半端ではない。

そして愛も。

実家の神奈川県へ越しても、嫁いで名古屋にきてからも何度か宮城県時代の友達と会ったりはしていたのだが、私が宮城県を訪れるのは実に20年ぶりの事だった。

話は数か月前に遡る。

宮城県に住んでいる高校時代の親友”なっちゃん”と旅行の計画を立てている時「一番行きたい場所は宮城なんだよね」という私の一言から今回の”里帰り計画”が始まった。

なっちゃんは直ぐに宮城旅の行程を考えてくれた。

その計画を見てびっくりした。

私が行きたかった場所、会いたかった人達がしっかりと書いてある。

なんなら旅行というより”思い出巡り”。

宮城県を旅行するにあたって、一般的な人は絶対に行かないであろう、大喜びするのは私しかいないであるようなマニアックな場所ばかり。

けれどその場所こそが私の心の故郷であり、帰郷を何度も夢見た場所だった。

私は何も言ってないのに、私のそんな気持ちを汲み取ってくれるなっちゃんの優しさが嬉しかった。

数か月かけて二人で旅行の計画をたて、宮城での移動はなっちゃんの旦那さんのヒロくんが運転手をしてくれることになった。

このヒロくんがまたいい人で。

私が来るという事で仕事を休んでくれ、運転手に徹するから二人は自由に動いていいよと言ってくれた。

宮城県は、というより私が訪れたい場所はすごく田舎なので車がないと身動きがとれない。

なっちゃんが車を出してもいいのだけれど、そうすると思い出の電車”仙石線”や”巻線”に乗れないなど他にも色々な問題があり、なっちゃんが私の夢を全て叶えるためにヒロ君に運転手をお願いしてくれた。

お願いというよりこの話がチラッとでた時点でヒロ君は「全面協力するよ」と言ってくれていた。

どこまでもいい人。

そんな二人の温かい協力を経て、宮城旅という名の”思い出巡り旅行”がスタートした。

当日仙台空港まで二人が迎えにきてくれ、まずはなっちゃんと私の母校を二人で訪れた。

最寄り駅で下してもらい、駅から高校まで歩いた。

懐かしさで一瞬で胸が一杯になった。

昔あった建物がなくなっていたり、校舎が少し変わっていたり、駅が自動改札になっていたりはしたけど、一瞬にしてあの楽しかった日々が蘇ってきた。

二人の記憶をすり合わせ巡る楽しかった日々。

止まらないお喋り。

歩いていても、車中でも、私達はずっと喋り続けていた。

高校をしっかり堪能した後ヒロ君を呼び出し、迎えにきてもらう。

思い出巡り中のヒロ君はこれの繰り返しで、私達を希望の場所で下してはどこかで時間をつぶし、お迎えの連絡がきたら私達の元へ戻るという、私のわがままプランにひたすら付き合ってくれた。

なっちゃんは「ヒロも楽しんでるから全然きにしなくていいよ」と言ってはくれていたけど、申し訳なかった。

でも嬉しかった。

そんなヒロ君運転手のもと、次に向かったのは石巻。

私の大好きな町だ。

丁度お昼時でお腹も空いていたので、まずはご飯を食べる事に。

向かったのは"いしのまき元気いちば"。

元気いちばは、一階は石巻の特産品や名産品が沢山売っている道の駅みたいな所で、二階には石巻ブランドの食べ物を頂けるフードコートがある商業施設だ。

せっかくなら海産物を食べたい私は、2種類のミニ海鮮丼がついている"石巻元気御膳"を頂こうと決め、券売機で食券を買おうとしてるとヒロくんが「ここは出します!」と。

いやいやいやいや。
お世話になりっぱなしでそのうえご馳走様までになるなんてとんでもない💦💦と遠慮してる私に「どんちゃんに奢れるのはこの日しかないから、出させて」と逆にお願いされ、あ、どんちゃんとは私の高校時代のあだ名です。
いやいやいやいや、いやいやいやいや、を2人で繰り返し、結局ご馳走様になる事に。

散々遠慮しておきながら、メニューの中で3番目くらいに高い石巻元気御膳をちゃっかりお願いし完食。なっちゃんとヒロ君はラーメンや焼きそばという軽さの中、私1人が御膳を堪能(謙虚さはどこへ)



めちゃくちゃ美味しかった「石巻元気御膳」

次に向かった場所は石巻にある”震災遺構”。

東北大震災がおきてから「一度ちゃんと宮城をみておかなければならない」とずっと思っていて、震災遺構は絶対に行きたい場所だった。

私が行ったのは石巻門脇町にある「門脇小学校」だ。

門脇小学校は津波と津波火災の状況をそのまま残している震災遺構で、テレビで何度か見た事はあったけれど実物は想像以上だった。

言葉がでなかった。

私の知っている石巻は海と山がある空気のとても綺麗な町。

遊ぶといえば石巻で、高校帰りに毎日通っていた場所だ。

家も沢山建っていたのだが、門脇小学校から見える石巻には家が一軒もなかった。

その先にあるのは海。

穏やかでとても綺麗な海だった。

ブログを書いてる今でも言葉につまる。

少しでも多くの方が、どうか一度宮城県石巻市を訪れてくれたらと思った。

その場所を訪れる事で少しでも復興の支援になるのならと。

石巻市震災遺構門脇小学校

震災遺構を後にし、日和山に行き、途中さつまいもをくれるのか売りつけられるのかよくわからないおじさんに遭遇し、困惑した状態で登頂。

帰りも、さつまいもをくれるのか売りつけられるのかよくわからないおじさんと再会し、困惑しながら下山。

日和山からの景色。

その後、石巻の町をなっちゃんと2人で歩き

高校時代、何度も歩いた石巻のたちまち商店街。

石巻駅でヒロ君と待ち合わせ、仙台まで送ってもらい、夜は高校時代の友達と飲みに行った。

日本酒が好きな私の為に友達が用意してくれたのは、日本酒が沢山あるお店。

名古屋では見た事も聞いた事もない日本酒がありえないくらいある。

その多さにテンションもかなり上がったのだが、久しぶりに会う友達の懐かしさよ。

そして変わらなさよ。

20年ぶりの再会だというのに違和感が全くなく、ここは居酒屋ではなく教室だと思える位あの頃に引き戻された。

お店を出てからも別れるには名残惜しく、喫茶店に移動してからも喋り続けた。

次の日もランチで会えるからと後ろ髪をかなりひかれつつ別れ、なっちゃんとホテルに帰る。

ホテルに戻ってからもひたすら喋り続け、寝たのは3時。

そして2時間半後の5時半起床。

おはよう、2日目。

寝不足で体は疲れてるんだろうけど、アドレナリンが出まくっているので軽やかに起床。

7時30分の仙石線に乗る為にオープンと同時の6時半にホテルのモーニングを頂き、美味しすぎて45分間食べっぱなし。

お口をモグモグしながら仙石線に移動し、ここから1時間半は仙石線を楽しむ旅の始まり。

仙台→石巻間はもっと早く行ける路線があるのだが、思い出の電車”仙石線”に乗るのが私のたっての希望だったので、懐かしさゼロのなっちゃんも強行連行。

その頃ヒロ君は、須江の最寄りの駅”佳景山駅”に車で向かっていてくれ、佳景山駅でなっちゃんと私と合流する予定だった。

須江とは私が住んでいた場所、佳景山駅とは高校に行くのに乗り降りしていた駅だ。

どちらも思い出深く、今回絶対に行きたかった場所、なんなら今回の思い出巡りのメインとなる場所でもあった。

仙石線は私が居た当時より田園風景は減っていたものの、懐かしい松島や矢本を見れたのは感慨深かった。

車窓から見えた松島駅。

長いかな?と思っていた1時間半はあっという間に過ぎ去り、終点「石巻駅」に着いた。

ここからは"巻線"に乗り換える。
巻線とは石巻線の略だ。

私が住んでいた頃、巻線を"汽車"と呼んでいた。
あの頃その呼び名に疑問を感じなかったけど、今更"なんで汽車なんだ?"と疑問に感じ調べてみたら、巻線はどうやらディーゼルで走ってるらしい。

だから、あんな音がしたんだ!と今更発見。
電車の音より、少しうるさいかなって感じの音だ。

巻線は単線で、田園風景の中をひたすら走る。

私はその風景が大好きで、今回の旅では絶対に乗りたかった電車?いや違うな、汽車の一つだ。

趣深い巻線。二両編成の汽車だ。

私が居た当時、2時間に一本しか走っていなかった巻線も1時間に一本は走るようになっていて、それだけで凄さを感じた。

佳景山に向かう間、田園風景をしっかり堪能し、佳景山駅につく。

少し綺麗になったけど、面影はあの頃のままだ。

無人駅なので、待合所にはこんな物があった。

佳景山駅でヒロ君に拾ってもらい、私の心の故郷"須江"へと向かう。

車に乗ってすぐ気づく。

車内で風ちゃんが流れてるではないか!

あ、風ちゃんとは藤井風さんの事です。

「風ちゃんだ!え?え?ラジオ?」

と質問する私に

「どんちゃんが風ちゃん好きと聞いて、Amazon musicでダウンロードしたよ」

とヒロくん。

出会って早々、しかも早朝から良い人全開。

良い人度が昨日より更にパワーアップしてる気がする。

神か。

須江と風ちゃんという私の中の二大巨頭に包まれながら、須江巡りスタート。

走り出して直ぐに"冷たい牛乳“が美味しかった店がまだやってる事に感動し、友達の家が変わらずいくつもあった事に喜びを覚え、お父さんと住んでいた家が、どなたか別の人が住んではいるがまだあった事に心が震え、目的地である"私を本来の私"にしてくれた須江小学校へと向かった。

須江小学校は好きすぎて、Google Earthで何度も見ていた。

けど全ては見れてはいなかったから、本物を見た時は本当に感動した。
心がじんわりと温かくなった。

私を救ってくれた先生とクラスメイトがいた大好きな場所「須江小学校」

同じ敷地内に「須江中学校」もあったのだが、20年以上前に廃校となり、跡地だけを見てきた。

跡地だけで何がどこにあったか十分にわかり、懐かしさもひとしおだった。

今回須江小学校を訪れたのは土曜日だったのだが、「私が興奮して挙動不審になるだろうから、平日は避けたよ」となっちゃんに言われた。

大正解だ。

子供がいる金曜日になんて言ってたら、校庭を走り回る子供を泣きながらガン見し、恐れられ、保護者に不審者情報として学校から連絡がいったかもしれない。

誰もいない静まり返った校舎を隅々まで見れ、十分にあの頃に浸り、須江小学校を後にした。

その後は私が住んでいた頃にはなかった地域"しらさぎ台"を走り綺麗さに感動し、昔住んでいた団地のある広渕に行き団地がまだある事に喜び、親戚を転々としていた頃にお世話になった本家の前を通り誰も住んでいない事に悲しみ、小・中と一緒だった友達のお店が更に大きく立派になっていた事に感動しと、泣いたり笑ったりを繰り返しながら須江を隅々まで堪能した。

なっちゃんやヒロ君にとってなんのゆかりもない土地なのに、2人は何も言わず私のわがままな希望を嫌がる事なく聞いてくれ、そして動いてくれた。
この2人がいなければ成し遂げられなかった長年の私の夢を叶えてくれた2人には感謝の気持ちしかない。

須江をたんまりと堪能した後は、子供の頃によくお父さんと車で通った道を通り、石巻へと向かった。

道路は新しく綺麗になっていたのであの頃の面影はあまりなかったけど、所々に昔の面影がありそれだけで十分楽しめた。

13時に高校時代の友達とランチをする約束をしていたのでお店までヒロ君に送ってもらい、ヒロ君とはそこでお別れだった。

最終日の3日目は車のいらない仙台観光予定だったのと、ヒロ君も子供の予定があったりしたので、2日間本当にお世話になりましたと感謝の言葉を述べなっちゃんの旦那さん、ヒロ君とお別れした。

お店に入り予約番号を入力し、呼ばれるのを待つ。
しばらくすると「駐車場に着いた」と友達から連絡があり、なっちゃんが迎えに出た。
20年ぶりに会う高校の友達。
楽しみすぎて心臓がドキドキしていた。
数分後なっちゃんと友達がお店に入ってきたのだが「久しぶり〜❤️」と言う前に「駐車場で転んだのよ!!!!!!!」となっちゃん。

駐車場にある車止めを乗り越えようとしたら、思った以上に足が上ってなくつまづき、それはそれは派手に転んだらしい。

膝も擦りむき、手も擦りむき、まるでわんぱくな子供の様な怪我をしたなっちゃんは、事故の大きさを鼻穴を膨らませながら熱弁。

20年ぶりの感動の再会は、なっちゃんの大怪我によりかき消され、「久しぶり❤️」の言葉よりも先に出たのは「わかる!!あれつまづくよね。私もやった事あるよ!!」と老化現象を分かち合う事で意気投合。

その後も目が見えないとか耳が聞こえないとか、子供がどーだとか、義母がめんどくさいとか、旦那がうっとおしいとか、高校時代に話していた内容とは違うけど話してるテンションは一緒。

20年ぶりにあう友達は、置かれてる状況や抱えてる問題に違いはあるけど、中身はみんな変わってない。

みんなあの頃のままだった。

喋りたおした5時間。
楽しくてあっという間だった。

仕事の都合で来れなかった友達がいて、その子が「今度どんちゃんが宮城にくるのは、赤いちゃんちゃんこを着る頃かな」と言っていた。

赤いちゃんちゃんこを着るのが遠い未来ではないという自分の年齢に愕然とはしたが、その頃にまた行けたらといいなと思いながら、楽しかったランチは終了した。

そういえば!
怪我をしたなっちゃんを心配して、途中ヒロ君が薬を買ってなっちゃんに届けにきた。

友達みんなから「優しい〜❤️」と称賛を浴び少し照れ臭そうにしていた。

神か。

その後車のある友達に最寄駅まで送ってもらい、なっちゃんと私は仙台へ向かった。

仙台駅についてからなっちゃんオススメのスープスパゲティを食べたのだが、これがめちゃくちゃ美味しかった‼️

"トライアングル"というお店なのだが、仙台に行く機会があれば是非食べてみてほしい。
食べ通しでお腹もそんな空いてないはずなのに、ペロッといけた😅

その後お土産と、なっちゃんオススメの生パイを買ってホテルに戻り、疲労困憊してるから早寝しようと言いながら結局1時くらいまで喋って寝た。

翌朝。
3日目おはよう。

起床して声を出して気づく。

ガラガラだ。

声が枯れているのだ。

3日間多分、30秒たりとも黙っていない。

黙っていた記憶があるのは寝ている時だけだ。

お互いよく喋った自覚はあるのだが、声が枯れるほどとは。

疲労困憊・声枯れ、プラスなっちゃんのみ擦り傷の痛み。

ヨボヨボの老体にムチを打ちながら朝食のバイキングへ。

宮城の名物が沢山置いてあるバイキングに心が躍りまくり、3回くらいおかわりし、喋り倒し、ホテルの朝食会場というよりファミレスにでもいる様なくつろぎと長さで閉店まで滞在。

お客さんが1人もいなくなった事に気づき、慌てて退散。

チェックアウトギリギリまでホテルでお喋りをし、仙台の七夕まつりをやる商店街を練り歩き、お土産を購入し、お腹がはち切れそうなのにずんだシェイクを飲もうか迷い、あっという間に仙台観光も終了し、そろそろ私が空港へ向かう時間になる。

空港までなっちゃんが電車で一緒についてきてくれる予定だったのだが、ヒロ君からなっちゃんに「子供の用事が済んだから、どんちゃんを空港まで送る!」と電話が入り、ホテルにお迎えにきてくれた。

どこまで優しいんだ。
もう神々しくもある。
後光が差してるんじゃないかと思う。
今風に言うと"神ってる"。

そんなヒロ君の優しさを有難く受け取り、空港まで送ってもらった。

搭乗時間まで2人はいてくれ、名残惜しさ1000000%で搭乗口に入り、悲しみに暮れて歩いていたら、2人がいた。

なんとガラスを一枚隔てた向かう側に2人がいて、横についている電話で喋れるのだ!

す、すごい!!!!と感動し、電話をとりなっちゃんと話す。

3日間散々喋ったはずなのに、止まらないお喋りが始まる。
あまり長く喋ってるのもアレだからと「もう本当に最後ね。気をつけてね」となっちゃんが言い、楽しかった3日間の思い出巡り旅行が終了した。

名古屋と仙台って近い様で遠い。

海外とかではないからいつでも行ける距離ではあるのだけど、お互い家庭も持ち子供もいて仕事もあるとなかなか行くに行けず。

人生の折り返し地点にきた私が「会いたい人には会える時に会っておこう」と思ったのがなっちゃんとの旅行を計画した発端だったのだが、宮城に行って本当に良かったと思った。

旅行中に撮った写真の数90枚。

しばらくはその写真を眺めながら、大好きな宮城県を心の中に留めておこうと思う。

忘れたくない思い出だったのでとても長くなってしまいましたが、読んでくれてありがとうございました。

今回の旅行で大好きになった食べ物。
油麩丼と定義山の三角揚げ。
お土産で買って作ってみた。
三角揚げ美味すぎる💛
(明らかに焼きすぎだけど💧)


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