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活動の原点に振り返る

(※いつも以上に長文です。)
noteをはじめてから記念すべき50回目の投稿になる。

ここで、ずっと下書きフォルダに眠っていた記事を完結させたいと思う。

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東日本大震災から8年が経った。
6年ぶりくらいに宮城県石巻市に訪れた。

2019年7月13日の出来事だが、ゆっくり書く時間がなかったのでここで振り返りたいと思う。

機内でこの文章を書いていたが、途中でルワンダに到着してしまった。

私がどうして今ルワンダにいるのかを、原点に振り返ってみたいと思う。

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私は大学1〜2年生の間に震災復興の学生団体に所属していた。

瓦礫の撤去といった復旧から、復興に向けて石巻を中心にスタディツアーの企画運営や震災復興グッズの販売等を行っていた。

大学1年時は仙台市内に住んでいたこともあり、被災地は可能な限り訪れた。
夏休みや春休みには、青春18切符を使って福島から岩手の大槌や気仙沼まで渡り歩いた。

被災地で見た光景やそこで感じたことは、今でも忘れることができない。

津波で被害にあった場所に立ったとき、何も言葉がでなかった。

足元には、瓦礫と呼ばれるそこに住む人々の生活の足跡がたくさん残っていたのだった。

沿岸を巡ることを通して、そこに住む人々との出会いや同じように活動するNPO団体や学生団体との出会いが多くあった。

大学時代の出会いが今の私の活動の基盤となった。

震災関連でのノートは数冊にのぼり、今では私の宝物となっている。

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私がこの東日本大震災のボランティアに関わるきっかけとなったのは、地元の静岡と家族の被災が大きく関係している。

震災当時、私の父親と妹は宮城県仙台市の陸前高砂という地域に住んでいた。陸前と名前につくだけあって、海に面している。

幸い、アウトレットモールが隣接していたために津波が堰き止められ、父たちが住んでいたアパートは津波の影響は受けなかった。

震災直後、妹は高校生で部活帰りであった。父親の会社に向かったが、会社が真っ暗になっていたため、仙台駅付近の市場のテントで一晩夜を過ごしたそうだ。

2011年の夏に、仙台市で開催された東北六魂祭を見にいった。そのときに、父が沿岸部を案内してくれたのを覚えている。

翌年、私は東北の大学に進学し、転勤で静岡に戻った父の代わりに、妹と2人で仙台市に1年間一緒に暮らすことになった。

仙台を拠点に、1番時間がある大学1年時に被災地を1人または仲間と飛び回った。

あの頃の私は何かに取り憑かれたように、とにかくがむしゃらだった。

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地元の静岡は幼い頃から、地震がくるぞ、津波が来るぞと言われ、防災にも非常に力を入れていた。そんな静岡で育ったため、防災に対する意識が自然と高まった。

月日が経つにつれて、阪神淡路大震災や東日本大震災、熊本地震など静岡以外の地域で大きな地震が数多く起こった。

メディアや実際に被災地に赴いてその光景を見るうちに、自分の地元で震災が起きたときに

自分に何が出来るんだろう

という想いが芽生えた。
この想いが活動源となり、震災やまちづくりといった活動に興味を持つようになり、積極的に関わるようになっていった。

地元に戻ってきたときに防災士の資格を取得したが、静岡の防災減災に関する取り組みの凄さには驚愕したのであった。

以上のことがきっかけに、大学生活においては東日本大震災の活動やまちづくりといった活動が私の大学生活の割合を大きく占めている。

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今回石巻に訪れたのには、ある心残りがあったからである。

大学2年になり、妹が高校を卒業したことをきっかけに仙台から離れた。
また、学生団体の先輩方が次々に卒業していったこと、拠点が移ってまちづくり活動にシフトしたことにより、3年になる前には団体から脱退した。

このことを機に、石巻に足を運ばなくなってしまったのであった。

卒業までに行こう、行こうと思いながら、結局石巻に行くタイミングを逃してしまった。
さらに、大学院進学で東北から離れてしまい、結局のところ6年もの月日が経ってしまった。

スタディツアーやその準備で何回も訪れていた石巻。

石巻のその後が、ずっとずっと気になっていた。

協力隊で日本を離れることをきっかけに出発前に訪れたいと思い立ち、今回に至ったのである。

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最初に訪れた場所は日和山公園。

スタディツアーでは毎回来る場所であった。

ここからの景色をずっと見たいと思っていた。

春夏秋冬、月日が経つにつれてその景色は徐々に変化していった。

2年後、沿岸部には大きな公園ができるそうである。所々、植樹や盛り土がされていた。

帰国後に完成した公園に訪れたい。

次に、日和山公園を降りて門脇地区に向かった。この門脇・南浜地区の死者行方不明者は487名である。

震災当時、大火災に見舞われた門脇小学校は震災の記録として一部の保存が決まったそうだ。

震災の悲惨さを物語る建物が次々に壊される中で、カタチとして遺すのは賛否両論あるだろう。

東日本大震災のような甚大な被害を二度と起こさないために

私たちにできることは、何故これだけの被害が起きたのかを忘れないことではないだろうか。

門脇小学校の前の通りは大きな道路が設備され、復興住宅が建設されていた。

この道路の建設に伴い、「がんばろう!石巻」の看板が建て替えられた。

「がんばろう!石巻」

この看板は震災から1ヶ月後の2011年の4月11日に地元の方により建設された。
この看板は、宮城県石巻市で東日本大震災の慰霊の場として親しまれており、毎年の追悼式が行われている。

2016年に2代目の看板が地元の高校生により復興記念公園の一角に建て替えられた。

看板の横には、東日本大震災メモリアル南浜つなぐ館が建設されていた。2015年に建てられたものである。

つなぐ館には初めて訪れたが、色んな団体が入っていた。奥に入ると、石巻の復興の道のりや震災当時の証言の映像を見る場所があった。

4本の動画があったが、およそ20分くらいであった。石巻に訪れた際には是非見て欲しい。

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まとまりのない文章になってしまったが、

結果として、石巻に訪れることができて本当に良かったと思う。

スタディツアーのガイドでお世話になった語り部の方や行きつけのパン屋のおばちゃんと再会を果たすことができた。

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今回の石巻に訪れたことで、自分自身が震災に向き合うことができた。

最初の方に、

私は何ができるのか

と自分自身に問うた。

これまでの活動を通して思うことは、

私1人では何もできない

というのが答えだと思う。
自分1人の無力さを学んだ。

1人では何もできないからこそ、人との繋がりを大切にし、人と協力して一緒になって問題や課題解決をすることが重要になる。

そのために私は自分自身の内面、つまり人間性を磨きたい。
かっこよく言うとグローカル人材となれるように経験や知識を積み、
“この人と働きたい”、
“この人のためならやってやろうじゃないか”

と言ってもらえるような人を目指したい。

私は、すごく頭が良いわけでもないし、特別な技術を持ってる訳でもない。
でも、周りの人々を気遣い、大切にすることはできる。

肌の色も言葉も文化も宗教も食べ物もほとんど環境が違うこのアフリカの地で、いかに現地の人を大切にし、寄り添って一緒に汗をかいて活動できるか。

2年後、私自身も自分がどうなっているかは想像できない。

このルワンダでの2年間、
目の前の人々を大切にし、
目の前にある物事に一つ一つ向き合って
活動に臨みたい。

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