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【読み切り短編】うっかり野郎とがんばれ婆ちゃん!

「ただいまー」
 鵜狩進は、大きな買い物袋を両手に下げ、帰宅した。そこには、大量のベビー用品が詰まっていた。
「おかえり」
 妻の蓮花が、リビングからにっこりと顔をのぞかせた。その手には、産まれたばかりの娘、遥花が抱きかかえられている。
 理想的な出迎えに、進はでれっとした表情で駆け寄った。
 しかし、そんなほのぼのとした時間は束の間だった。買い物袋の中身を見て、突如、蓮花は鬼の形相に変貌した。
「もう、また間違えてる!」
 蓮花は買い物袋の中身を指さした。さされた方に目をやり、進は驚愕した。そこには「アテント」の文字が書かれていた。
「あちゃー」と、進は頭を叩く。そう、これは乳児用ではなく、大人用のおむつだ。
「何、自分で履くように買ってきたわけ?」
 蓮花は、早口でまくしたてた。
「ごめん、ごめん。またやっちゃった」
 進は謝罪したが、蓮花の怒りは収まらなかった。
「ごめんって、ほんと口だけだよね。間違えて買ってくるの、これで何度目?」
 蓮花の問いに、進は言葉が出なかった。心当たりが多すぎたからだ。
「買い物だけじゃない。部屋は何度言っても散らかしっぱなしだし、料理もできないし、何のために育児休暇取ったのよ!」
 返す言葉もなく、進は「本当にごめん」と肩を落とした。
 以前の蓮花は、おっとりとしていて、あまり怒ることはなかった。
 しかし、産後はイライラすることが多くなり、進は毎日のように怒鳴られていた。
「もう残りのおむつが少ないから、今から買いに行って。ついでに、足りない食材もね」
 蓮花は引出しからメモ用紙を取り出し、何やら書きこんでいった。
「このメモ通りに買ってきて。今度は絶対、間違えないでね!」
 まるで叩きつけるようにして、進にメモが手渡される。
「私は今から定期検診に行ってくるから」
 蓮花はカバンを手に取ると、そのまま玄関へと向かって行った。
「送って行こうか?」そう進が尋ねると、間髪入れず、「いい、バスでいくから」と、素気ない返事がきた。こちらを振り返ることもなく、蓮花は玄関を出ていった。
 ガチャン、とドアの閉まる音が虚しく響き、進は「はあ」と大きなため息を吐いた。

 今度こそメモの通り買い物を終え、進は帰路に就いた。しかし、その足取りは重い。
 育児休暇をもらった時には、これで楽しい子育て生活が、始まると思っていた。
 日々成長していく娘の姿を、蓮花と一緒に喜び合う。そんな、和気あいあいとした団欒を、想像してにやけていた。
 しかし、現実はどうだ。うっかりミスの多い進は、毎日謝ってばかり。元来のだらしない性格から、家事は壊滅的に不得手だ。子育てにおいて、進は何の役にも立っていなかった。
 このままでは、夫婦の間に埋めようのない溝ができてしまう気がして、進は不安な気持ちを抑えられなかった。
 俺って本当にダメなやつだなぁ。とぼとぼと帰り道を歩いていると、ふと、神社の前に立つ、お婆さんの姿が目に入った。
 彼女は神社に向かい「がんばれ、がんばれ」と、何度も叫んでいた。その手には、何故かオレンジ色のボトルが握られている。
「んっ」と、進は足を止める。これは、何かの儀式なのだろうか。
「お婆さん、どうしたんですか?」
 進は気になって、声をかけた。
「実は、孫が風邪をひいてしまってねぇ」
「ああ、それで、神社にお祈りに来たってわけだ」
 進は納得しかけていたが、お婆さんは「いんや」とかぶりを振った。
「えっ、じゃあなんで?」
「孫がね、はちみつじんじゃーえーる、ってのが欲しいというんだけど、私には今一つわからなくてねぇ」
「蜂蜜ジンジャーエール?」
 進はしばらく頭を悩まし、ハッと気がついた。お婆さんは、神社に向かって、がんばれ、とエールを送っていたのだ。その手に蜂蜜を握り、神社にエールを送る。
 それが、お婆さんにとっての蜂蜜ジンジャーエールだったのだ。
「お婆さん、違うよ。蜂蜜ジンジャーエールっていうのは、飲み物の名前。お孫さんは、ジュースを欲しがってるんだよ」
 進がそう説明すると、お婆さんは「へぇ」と頷いた。
「でも、それはどこに売ってるんだい? なんとか、孫に届けてやりたいんだけどねぇ」
 進は一瞬、近くのスーパーを教えようと考えたが、思い直した。
 あそこには、普通のジンジャーエールならあるはずだが、蜂蜜ジンジャーエールがあるとは限らない。
 それに、口だけで説明しても、よく伝わらない可能性だってある。
 悩んだ末に、進は「じゃあ、今から家で作ってあげるよ。家、すぐそこだから」と言って、自宅マンションを指さした。
「いいのかい?」
 お婆さんの問いかけに、進は快く頷いた。
「困っているときは、お互い様だよ」
「ありがとねぇ。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 こうして、進はお婆さんを伴い、帰り道を歩いた。

 自宅に戻ると、進は久々に台所に立った。ちょうど買ってきたしょうがを洗い、手際よく皮をむく。
 薄くスライスし、水、蜂蜜、シナモン、レモン果汁と共に、鍋にかけた。
「へぇ、器用なもんだねぇ」
 その様子を見ていたお婆さんが、感心して声を上げた。
「いや、これ以外の料理は、からっきしだよ。これだけは、昔、婆ちゃんが教えてくれたから」
 それは、進がまだ、小学生の頃の記憶だった。
 進が熱を出した時、婆ちゃんが作ってくれたそれが、あまりにもおいしくて、後で作り方を聞いたのだ。
 それからしばらくして、婆ちゃんは亡くなった。婆ちゃんの残してくれた、この思い出のレシピを忘れないように、以来、風邪をひくたびに、蜂蜜ジンジャーエールを作っていたのだ。
 鍋が沸騰したら、弱火にして、30分ほど煮込む。こうしていると、婆ちゃんの教えや、掛けてくれた言葉が、今でもはっきりと甦る。
「あんたは、やればできる子だねぇ。あたしが教えたこと、ちゃんと覚えててくれて嬉しいよ」
 進はハッとして、お婆さんの方を見た。記憶の中にある言葉が、目の前で発せられたからだ。
 あの日、婆ちゃんが亡くなる前日。初めて作った蜂蜜ジンジャーエールを、婆ちゃんのいる病室まで届けに行った。その時、掛けてくれた言葉だ。
「婆ちゃん?」
 進が問いかけると、お婆さんはにっこりと頷いた。
「あんたは、家事は苦手だって思ってるだろうけど、そんな事ないよ。あんたは、その気になれば、ちゃんと出来る子だ。今だって、あたしに蜂蜜ジンジャーエールを作ってくれてるじゃないか」
 進は泣きながら、うんうん、と頷いた。
「今度はその優しさを、奥さんや子供に、与えてあげたらいいよ。きっと、あんたならできるから」
 婆ちゃんは、最後に「進、がんばれ」と言って、透けるように、すぅっと消えていった。
 すると、玄関のドアが開き、「ただいま」という蓮花の声が聞こえてきた。
「おかえり」
 進は台所から声をかけた。その姿を見て、「台所にいるなんて、珍しいじゃん。なんか作ってるの?」と蓮花が尋ねる。
「蜂蜜ジンジャーエール、出来たら飲んでみてよ。俺、これからは料理とか、もっと頑張るからさ」
 進の言葉に、蓮花は嬉しそうに頷いたのだった。

   完

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