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和歌山紀北の葬送習俗(4)死に飛脚

▼「飛脚」という言葉は歴史の授業で一度は習っているとしても、「シニビキャク(死に飛脚)」という言葉は高齢者以外は日常的に聞いたことがないはずです。死に飛脚という習俗が今は必要がなくなったからです。
▼死に飛脚とは、人が死んだときに集落内や親族にそれを知らせて回る人のことをいいます。今は電話があるので、死に飛脚は全く必要がなくなりました。ところが、死に飛脚の習俗はなぜか昭和後期まで強固に残っていました。おそらく、死に飛脚の衰退プロセスは村落共同体の解体プロセスと時間的に連動しているのでしょう。
▼管理人が子どもの頃は、電話の有無にかかわらず隣家の高齢女性が集落内の不幸をわが家に伝えに来たものです。電話よりも歩いたほうが手っ取り早いですし、隣家なのに電話を通じて話すという行為が村落共同体的価値観では憚られたのかも知れません(カドが立つようなことを決してしないことが村落共同体を生き抜く知恵である❗)。この隣家女性は死に飛脚ではなく、噂話を心の糧として生きているような、あらゆる集団に必ずひとりはいそうな人物です。死に飛脚は、訃報をいち早く伝え回るという明確な役割を担う人です。ということで、このページでは死に飛脚を取り上げてみます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

1.シニビキャク(死に飛脚)の名称

▼死に飛脚は、集落住民同士の会話の中では単にヒキャク(飛脚)と呼ばれることが多く、人が死んで死に飛脚が必要となったときには「飛脚を立てる」などと表現します。また、死に飛脚は集落の寺にも訃報をいち早く伝える役割を持っています(僧の手配などをするため)。この場合、死に飛脚は「テライキ(寺行き)」などと呼ばれていました。
▼死に飛脚の呼び名については、以下の事例があります。

・「ヒキャク(飛脚)」(奈良県吉野郡旧大塔村篠原,奈良県吉野郡野迫川村今井,奈良県吉野郡旧賀名生村,奈良県吉野郡旧西吉野村,大阪府河内長野市滝畑,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:年代は省略)
・「シニビキャク(死に飛脚)」(奈良県五條市下島野:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・「フタリビキャク・ニニンビキャク(二人飛脚)」(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)
・「フタリヅカイ(二人使い)」(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・「カイトノツカイ(垣内の使い)」(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・「ツゲ(告げ)」(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・「アルキ(歩き)」(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)

2.誰が死に飛脚をするのか

▼次に、死に飛脚は誰が担当するのでしょうか。事例をみましょう。

村じゅうの者が順番に交代して務める(和歌山県橋本市:昭和40年代)
垣内(カイト)内で順番に務める(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
同じ班の者(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
近所の者(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
故人と血縁のない近所の者(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
近所や親戚の元気な者(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)
班長(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
男性(奈良県吉野郡野迫川村今井・北股:昭和40年代)
心易い者に頼む(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:年代不詳)

▼以上にみるように、死に飛脚は基本的には集落構成員による無償奉仕で、かつ、喪家が死に飛脚をすることはありません(むろん、死亡の第一報は喪家から発せられます)。飛脚自体の身体的負担は大したことがなく、「すまんがやってくれんか?」程度で集落構成員が助け合って死に飛脚をしたのでしょう。問題は、死に飛脚には故人の霊魂が憑きやすいと信じられていたことです。そのため、死に飛脚は以下にみるようにさまざまな手段を使って霊魂から逃れようとします。

3.死に飛脚の人数

▼死に飛脚には、厳然とした最小行動単位があります。事例をみましょう。

必ず二人で行く(奈良県五條市下島野,奈良県吉野郡旧西吉野村,大阪府河内長野市滝畑,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡池田村,和歌山県旧那賀郡岩出町:年代は省略)
二人で行く(奈良県吉野郡野迫川村今井・北股,大阪府南河内郡旧川上村,奈良県吉野郡旧賀名生村,奈良県吉野郡旧大塔村,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)

▼以上のように、死に飛脚は二人で行くのが大原則です。また、人数は多ければよいというものではなく、三人以上の事例は見つかりませんでした(二人一組として複数組を出す事例はある)。
▼一人ではなく二人で行くのは「一人で行くと連れていかれるから」「帰ってこれなくなるから」「襲われるから」などの意味があり、いずれも呪術的な悪影響を恐れていることが分かります。なお、二人で行くのは「葬儀の日時を間違えず正確に伝えるため」という現実的、合理的な解釈もあります(新編岡崎市史編さん委員会編 1984,豊田市教育委員会豊田市史編さん専門委員会編 1976)。
▼何らかの事情によって単独で死に飛脚をせざるを得ない場合は「腰に鎌を下げる」「手ぬぐいを持っていく」など、呪術的なツールを持つ事例のほか、二人であっても火や提灯を必ず持つ事例などがあります(柳田 1937,東洋大学民俗研究会 1981)。
▼このように、死に飛脚は故人の霊魂による悪影響を撃退するために孤立を避け、呪術的な装いをし、提灯を持ったと考えられます。

4.死に飛脚に対するお礼

▼死に飛脚は、霊魂に取り憑かれるリスクを負うという意味で精神的負担が大きく、村落共同体に生きる人びとは死に飛脚を大切に扱ったようです。以下の事例があります。

集落の各家は一升枡で量ったトキマイ(斎米)を飛脚に渡す(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
今は斎米ではなく200~300円の銭を飛脚に渡す(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)

▼「トキマイ(斎米)」とは、葬儀などで労力を提供した人に対するお礼のようなものです。また、他地域では「飯を食べてもらう」「酒食を提供する」という事例が多く、これは死に飛脚に対する精進落としの意味合いも含んでいるようです。
▼さらに、斎米や酒食の提供は「死に飛脚が空腹になると故人の霊魂が憑くから」という解釈もあります(河内長野市役所編 1983)。空腹時に霊魂が憑くという観念は各地に存在します。そして、米そのものが持つ呪術的なパワーも見逃せません。人の生死を左右する農作物ほど呪術的にパワフルで、米はその最右翼です。

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▼死に飛脚には、以上にあげたほかにも「寄り道をしてはならない」「その日のうちに帰ってこなければならない」など、故人の霊魂を回避、撃退するためのさまざまな遵守事項、禁止事項、制限事項があり、昔の人びとは過剰なまでに霊魂を恐れたようです。
▼昔の人びとは、死亡直後の霊魂は遺体が安置されている喪家の屋根の上にいるとか、まだ成仏していない霊魂は不安定な「餓鬼」であって、生きている者に憑いて悪さをするなど、故人の霊魂がまだ集落内にとどまっているという観念を持っており、邪悪な霊魂から自分たちを防禦する必要があると考えたのでしょう。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗:近畿民俗学会会報』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●引用)世界文化社(1973)『冠婚葬祭:グラフィック版』世界文化社、p93.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●東洋大学民俗研究会(1981)『南部川の民俗:和歌山県日高郡南部川村旧高城・清川村』東洋大学民俗研究会.
●豊田市教育委員会豊田市史編さん専門委員会編(1976)『豊田市史.5巻(民俗)』豊田市.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●柳田国男(1937)『葬送習俗語彙』民間伝承の会.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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