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中1で受けたセクハラの戦闘後記

あれは何だったのか

整理しようとする度に気持ちが消化されて無駄なものが省かれていくように思う。この出来事は私らしさを生成する強烈なエッセンスになったことだろう。 

まず「自分の身を自分で守れた」という自尊感情の維持には大変役にたった。
一方で人間の思い込みで事実なんて如何様にも変わるという信頼関係のシステムの曖昧さと脆さに直面する。更には人は助けないということにも目の当たりにした。一緒に考えたり励ましたり応援することはしても。
中学一年生にして、この人間社会の集団のシステムの厳しさに触れたのは、私が人から変人扱いされる仕上がりとなる序章であったに違いない。

メディアの功罪とおじさん

中学一年生にして知ることは残酷なのか、早めに知っておいてよかったのかわからないが、人間関係の有り様を体験していたので、解決は誰もあてにしていない。
たとえ突然降ってきた問題だとしても、自分以外に消化できる人はいないし誰も代わりに悩んでくれないし実行もしてくれない。ということを勘づいた。
親でさえ、セクハラを受けた娘の発言を信じないどころか、むしろ部活が続かなかったことを恥じて「根性が無い」と罵ったのだ。じゃあ、私の両親は私に愛情がなかったのかというとそうではない。
多分、あのまま放置していたら石村の行動はエスカレートしていた可能性も否定できない。
しかし「セクハラ」の問題について考えてもみたことが無い親にとっては「継続性」を獲得することが娘にとって将来の力になると信念をもっていたのだろうと思われる。
昭和のおじさん世代は女性を女体として商品化した黎明期に生きて、同意無く触られることに対して女性の精神的な苦痛を鑑みることはなかったのだと思う。本気で「減るもんじゃない」と考えていたことだろう。おまけに無理矢理やっても女は喜ぶなどという通念ファンタジーまで生み出した。
だからこの件について私は文化を作ったメディアの被害者だとも思っている。
石村は私が本気で嫌がっているとつゆほどにも思っていなかったに違いない。
私は何度も抵抗を試みたが聞き入れていた節はないのだから。
おまけに、その時代を作ったおじさん世代がこの国の政治を担っているのだから、日本に期待などできない。
性的同意年齢にしても韓国でさえ既に15歳に引き上げられたのに、日本では50過ぎの政治家が「14歳と同意の上での性交を逮捕されるのはおかしい」と、公の場でほざけるような通念がまかり通るのだ。
(大いに叩かれていたが)
この性的倒錯はどこで生み出されてきたか。

所在の喪失

話を戻すと、私の中学時代は心を病む人に対する世間の目は「弱い」と冷たい視線を浴びること一択だったから、弱音を吐くことすら体育会系の我が家の信念上許されることではなかったと心得ている。そして私も自分自身に許さなかった。涙一つ流すことはなかった。
しかしまだ、アイデンティティーが確率される前の出来事だ。親の信念が自分自身の思考過程の形成に多分に影響し、これが長いこと私を苦しめ気持ちは整理出来ないもので蠢いていた。
今でこそ、仕返ししたことも含め私に否は一切無かったと言えるし、自分を自分で守ったことと勇気を心底誉めたいのだが、当時は親の信念が邪魔して確信が持てず、どこにも属せない所在なさがずっとあった。昔は「本当は我慢すべき問題だったのかもしれない」と思っている自分もいた。
そうすれば、誰ともこんな距離を生まなくて済んだのかもしれないと。両価的で不安定な考えをいったりきたりしていた。

友達にそれらを伝えてみても、こだまのように返ってくるのは感情に共感は寄せられても「私にはわからない」という線引きだった。
今でなら、それはごく当然のことだと受け止められるが、当時は自分には理解者が一人も居ないような心もとなさを感じていた。それだけ誰にも理解されないような状況を生んだ石村を恨んだし殺意すら沸いた。
この件で家族関係までおかしくなってしまったのだから、性被害が生むものをお見知り置きいただきたい。
これ以前、私の家族関係はそこそこ仲は良かった。

私は家族に対する不信も解消することなく、何も話さなくなった。
だから関係は悪化した。
三年生になり進路のことでさえ親には一切相談をしなかった。
誰かにあれこれ話すことが面倒くさくなった。
表面的には明るくいつも通りを装っていたが、それは我慢してそうしていた訳でなく、どうせわかり合えもしないことをあれこれ説明することがすっかり面倒臭くなったからだ。
そして、わかり合わなくても楽しく過ごせてしまったので、自分の中でそれを希求する気持ちも薄れ、むしろ話す労力と時間さえ無駄だと思うようになる。
それなら楽しく愉快に過ごした方がなんぼか得だと思っていた。 

親子関係の亀裂

そして、石村はその5年後の私が高校二年生の時に別件で新聞に載った。ついに生徒をスキー靴で殴り怪我をおわせるという傷害事件を起こしたのだ。
「ざまーみろ」これが私の内心の第一声だった。
その記事を親に見せ、「私の言ったこと本当だったでしょう。こいつはマジでクソだったのに、当時は私に大げさだって言ってたよな」と伝えた。
さすがに詫びるのかと思いきや「お前には先見の明があったんだな」と頓珍漢な答えが返ってきて、事実と向き合えない親の実力を感じてしまい、以後まともな会話を諦めた思い出がある。
今では親とはいえただの人であって、大人の全てが物事を適切に対処や解決できるわけではないことを知っているし、その成長は経験やそれをどのように乗り越えたかに裏付けれているとわかる。
人は時間の中で人体を維持成長できたとしても、精神性な成長は考えないことには見込めないのだとも。
また当時、珍しかった「セクハラ」問題への適切な対処ができないこともことなかれ主義の日本ではしょうがなかったと思う。もれなく私の親は「間違えず、上手いこと生きる」を目的にしてたように思うので、学校と揉めたくなかったのだろう。
揉める勇気も無かったのだろう。

しかし、その新聞記事はさすがに親なりに何かを感じるところはあったようで、それ以降、私に対して説教をしなくなった。
自分たちとは向き合えなかったようだ。
私も都合よく「親面」されたら、怒りで本当に手をつけられなくなっていたかもしれない。
それも今では、どこにでもいる親の姿だとも思っている。
当時は情報へのアクセスは困難だった時代だ。対処の方法を教えて貰えるわけでないし情報を知りえないのだから、できる限り有耶無耶にしたかったのだろう。
都合が悪くなった大人がやる手口はいずれも、子どもに罪悪感(まるで子どもが悪いかのような)を与えて口をつぐみ、自分たちの所業が表に出ないようにする。
表に出なければ無いのと同じだ。
しかし、これが一般的な大人の姿だと自分が大人になったからこそわかった。

被害とは

しかし、経験は残酷だ。
私に落ち度は一つも無く、たまたま運が悪く遭遇したこの経験も、私の心には単なる「ハンデ」として何らかの欠損が積み重なっただけなのだ。
それで...納得行くわけがないだろう。
でも、これが「被害を受ける」ということだ。
その仕組みがわかるのはもう少し後のことだったが。だから被害と呼ぶのだと思い知る。強力な何かによって、起きる前と後で世界が変えられてしまう。
元には戻れない。
誰とも共有できないし、共感も得られ難い。

だから被害体験は残酷でハンデでしかないのだと、これからも語る経験を通して伝えたい。
そして、大なり小なり被害はそこら中に転がっている。

まだ、これは序章にすぎない。

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