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令和の衆愚状態を打破するには

よく欧州の知識層は古代ローマ時代の知見がベースにあるという。確かに、いろいろ調べてみると学びも多い。ふと先程「衆愚政治」について検索してみた。

プラトンアリストテレス、ローマの歴史家ポリビオスらは前5~前4世紀のアテナイの徹底した民主政治を、教養の無い貧民が政治を支配した結果として失政を重ねたものとした仮に有権者がその社会において尊敬されるに十分とされる政治的な教養を受けていたとしても、コミュニティに適切な指導者(リーダーシップ)が欠如している状況を指す。また互譲(譲り合い)や合意形成に失敗し、政策が停滞したり愚かな政策が実行される状況を指す。この場合、各々が積極的利益を追求した結果としてのみ衆愚政治に陥るわけでなく、例えば偏見からくる信念や恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどによって合理的な意思形成に失敗する政治状況を指す。
社会的判断力が不十分な多くの市民が意思決定に参加することで議論が停滞したり、扇動者の詭弁に誘導されて意思形成を行い、合理的ではない政策執行に至る場合がある。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えに基づかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定を行うことで、コミュニティ全体が不利益を被る政治状況を指す。また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことや、誰もが不可能だと考えていることに合意することがある。

衆愚政治

この内容だけ見ると、最近の世相のさまのままではないかと思う。他人任せ、課題の先延ばし、議論の停滞、利益誘導、見せかけの大義。僕も含めて耳が痛い言葉が続く。

よく「為政者が」とか「お偉いさんが」とか言うが、引いて考えてみると僕も含めて「社会的判断力が適正か」と言われて「自分は間違いない」と思う人はどれだけいるだろう。これだけ世の中の風向きが変わるなか「自分は間違いない」という人がいたら相当な能力を持っているか、現状が判断できていないことを暴露しているに過ぎない。

そして、wikiにも書かれているように、現状の状態が多くの「詭弁」を産んでいる。ああ言えばこういうなどの屁理屈のオンパレード。その言説は、いまある社会課題を解決するために使っているのではなく自己弁護や欺瞞がうずまいている。そして、気づいている方も多いと思うが、その詭弁のレベルが小学校のクラス会レベルの稚拙さだ。そのような状態が「社会的な判断力が欠如」に導く手助けをしているようだ。

その上で、なぜ社会的な判断が欠如する状態になったかを考えてみる。仮説ではあるが、世の中にあふれる情報が勝手に来て受け止める状況が続くと僕らのような凡人は、その情報をキャッチするだけで脳のスペックフローを起こしているのではないか。特に勝手に来る情報というのがポイントで、自分で探すのではなく、受動的に受ける状態が長く続くと自分の手を動かす、足で稼ぐという本来の身体性から遠くなっていくのではないか?

よく養老孟司などは自然に帰ろう云々をいうけど、私なりの解釈だと、機械から自然へ帰るというより、「受動的な思考から能動的な思考への回帰」のほうがしっくりくる。そりゃ自然は小さな宇宙であるためとっつきやすいとは思うが、AI技術の全否定というような対立軸とは私は思わない。別に農業で手を動かすでも、AIツールを使うのでも「自らの手を動かすこと」での体験が今一度必要なんだと思う。

その意味で「人に教えを受ける、人の話を鵜呑みにする」のではなく「自分で手を動かす、自分で考える」に回帰するべきではないだろうか?

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