令和の衆愚状態を打破するには
よく欧州の知識層は古代ローマ時代の知見がベースにあるという。確かに、いろいろ調べてみると学びも多い。ふと先程「衆愚政治」について検索してみた。
この内容だけ見ると、最近の世相のさまのままではないかと思う。他人任せ、課題の先延ばし、議論の停滞、利益誘導、見せかけの大義。僕も含めて耳が痛い言葉が続く。
よく「為政者が」とか「お偉いさんが」とか言うが、引いて考えてみると僕も含めて「社会的判断力が適正か」と言われて「自分は間違いない」と思う人はどれだけいるだろう。これだけ世の中の風向きが変わるなか「自分は間違いない」という人がいたら相当な能力を持っているか、現状が判断できていないことを暴露しているに過ぎない。
そして、wikiにも書かれているように、現状の状態が多くの「詭弁」を産んでいる。ああ言えばこういうなどの屁理屈のオンパレード。その言説は、いまある社会課題を解決するために使っているのではなく自己弁護や欺瞞がうずまいている。そして、気づいている方も多いと思うが、その詭弁のレベルが小学校のクラス会レベルの稚拙さだ。そのような状態が「社会的な判断力が欠如」に導く手助けをしているようだ。
その上で、なぜ社会的な判断が欠如する状態になったかを考えてみる。仮説ではあるが、世の中にあふれる情報が勝手に来て受け止める状況が続くと僕らのような凡人は、その情報をキャッチするだけで脳のスペックフローを起こしているのではないか。特に勝手に来る情報というのがポイントで、自分で探すのではなく、受動的に受ける状態が長く続くと自分の手を動かす、足で稼ぐという本来の身体性から遠くなっていくのではないか?
よく養老孟司などは自然に帰ろう云々をいうけど、私なりの解釈だと、機械から自然へ帰るというより、「受動的な思考から能動的な思考への回帰」のほうがしっくりくる。そりゃ自然は小さな宇宙であるためとっつきやすいとは思うが、AI技術の全否定というような対立軸とは私は思わない。別に農業で手を動かすでも、AIツールを使うのでも「自らの手を動かすこと」での体験が今一度必要なんだと思う。
その意味で「人に教えを受ける、人の話を鵜呑みにする」のではなく「自分で手を動かす、自分で考える」に回帰するべきではないだろうか?
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