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【黄檗宗の庭】隠元禅師が造った萬福寺東方丈の庭

京都府宇治市にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の萬福寺(まんぷくじ)は、中国から渡来した隠元(いんげん)禅師(1592〜1673)が開いた名刹です。その東方丈(とうほうじょう)に隠元禅師と彼の弟子で 2 代目住職の木庵禅師(もくあん)(1611〜84)が造った庭があることは余り知られていません。


p54隐元禅师

▲隠元禅師像(部分)喜多元規(きたげんき)筆、 縦 139.3× 横 58.9㎝(写真/萬福寺)


隠元禅師は「富士山の庭」を造りました。なぜ富士山なのか。禅師は万治元年(1658)9月に徳川4 代将軍家綱(1641~ 80)に招かれ当時住んでいた普門寺(大阪府高槻市)から江戸に向かいます。戻ったのは 12 月 14 日。その行き帰りに禅師は富士山を見て感動しました。「その厳かな姿は人と対面する思いがした。頂上まで登りたいと思ったが、伴の者が多く果たせなかった」と隠元さんは『仮山記(かさんき)』に記しています。
後に万福寺に東方丈が建てられたとき、隠元さんはそこに「富士山の庭」を造りました。さらにその後木庵禅師が「五老峰の庭」を造ります。
隠元禅師は当時の日本の禅宗に大きな影響を与えました。後水尾(ごみずのお)天皇をはじめ、多くの大名が隠元さんに帰依します。いまも各地の大名庭園に残る富士山型の築山は、この隠元禅師の「富士山の庭」に影響を受けたのではないかと、私は思っています。(斎藤忠一)


隠元禅師の「中山嶺望富士」より其ノ二

雲中に恍惚として半身を露す 喜び知る富士独り超倫するを 東方に喜ぶは擎天柱(けいてんちゅう)有ることを 帝座巍巍(ていざ ぎ ぎ)として億萬の春 ※擎天柱は天を支える柱のこと

【隐元禅师的《中山岭上望富士》其二(中国語)】

恍惚雲中露半身,軒知富士獨超倫。東方喜有擎天柱,帝座巍巍億萬春。

p54大雄宝殿

▲大雄宝殿(重文)の威容。上層の扁額は隠元禅師の書

p54万德尊

▲大雄宝殿の下層に架かる扁額「萬徳尊」。木庵禅師の筆

黄檗僧独立性易ゆかりの錦帯橋


中国杭州の西湖にある蘇堤(西湖堤)は、日本の庭園以外にも大きな影響を与えた。雪舟の国宝「天橋立図」が、西湖からインスピレーションを得たことはよく知られている。山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋は、西湖堤の六橋からヒントを得て造られた。岩国藩第 3 代藩主吉川広嘉は長年錦川の荒れ具合に悩まされていた。どんな強固な橋を架けても、洪水などで流されてしまう。
ある日広嘉は、中国明の国からの亡命者で黄檗宗の禅僧だった独立(どくりゅう)(中国名は戴笠)から『西湖志』(清の雍正帝治下の1731 年に刊行)を見せられた。そこに描かれた西湖堤の六橋を見て、広嘉は「これだ!」と机を叩いて喜んだという。河川内に4つの強固な橋脚を築き、そこにアーチ橋を架ける。以後改修・改良が繰り返され、200 年程前にいまの姿になった。

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