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コロシアムの建築家ポン・ジュノ(をやっつけろ!) 〜または『グエムル 漢江の怪物』は新型コロナウイルスの夢を見るか?〜

<前書き>

冗談みたいな怪物にもたらされる冗談みたいな死。『はずみでできた子をはずみで失う』ように、死は、人間の尺度を超えた奇怪でつかみどころのないジョーク(魚とワニと食虫植物のキメラ、東洋式の竜、あるいはジャバウォッキー)となって現れる。
『パラサイト 半地下の家族』(2019、以下『パラサイト』)を論じた拙文https://note.com/waganugeru/n/nade35a7eef2dで確認したポン・ジュノ作品の主要テーマは、既に『グエムル 漢江の怪物』(2006、以下『グエムル』)の中にはっきりと見て取れる。時系列からすれば、『パラサイト』は『グエムル』をより洗練された形で語り直す試みだったと言えるだろう。
本文では、そうした側面を確認しつつ、さらには“コロシアムの建築家ポン・ジュノ”という作家的な主題を取り出してみたい。

※ 登場人物のセリフを表すカギ括弧のうち、『』は正確な引用を、「」は大意を表します。

<第一部> 『グエムル』論 ~『パラサイト』との比較において~

・登場人物紹介(あなたとわたしの確認用)

パク一家
父: ヒボン (ピョン・ヒボン)
兄 = 主人公: カンドゥ (ソン・ガンホ)
弟: ナミル (パク・ヘイル)
妹: ナムジュ (ペ・ドゥナ)
カンドゥの娘: ヒョンソ (コ・アソン)

貧しい兄弟
兄: セジン (イ・ジェウン)
弟: セジュ (イ・ドンホ )


・お茶の間版オーシャンズ4、またはざっとしたあらすじ紹介

突如漢江から浮上したグエムル(韓国語で”怪物”の意)は無差別に人々を襲い、主人公の娘をさらって水中に没する。「どこかわからないけど、大きな下水溝にいる!」。死んだものと思われていた娘ヒョンソからSOSが届いたことをきっかけに、バラバラだった家族は結束し、オーシャンズ4の特殊工作員となって立ち上がる。
すぐ眠りこけてしまうまぬけな兄カンドゥは超人ハルクばりの怪力を発揮し、大卒だが飲んだくれの弟ナミルは学生運動で培った戦闘スキルを呼び覚まし、アーチェリー選手の妹ナムジュは一撃必射のチャンスを虎視眈々とうかがう。そして父ヒボンは、時に叱咤しながら家族の来歴を明らかにし、チームの絆を再編成していく。リレー方式でバトンを繋ぎ、彼らが敵のアジト(ヒョンソが監禁されている地下空間)に潜入していく過程は、スパイ映画顔負けの緊張に満ちていながら、ほのぼのとした一家団欒に慰められてもいる。滑稽な逆ホームアローンから戦慄のサバイバルホラーへと急転直下する『パラサイト』同様、ポン・ジュノはここでもジャンル映画を巧みに擬態し、異化してみせる。スパイアクションをお茶の間的笑いと家族愛によって解体していくのだ。そのコントロール、まさに緩急自在!
アーチェリー選手というあからさまなナムジュの設定から推して、はいはいあの矢で怪物を倒すわけね〜と待ちかまえる観客の期待を二度までも裏切り(一度は川岸でヒボンに迫る怪物に矢を向けたところを『ふざけてないで来い!』とナミルに制止され、二度目には地下水道で絶好のタイミング・絶好の構図でタイマンを張るも、あっけなく怪物に打ち倒され)、なんだひっかけかよ〜と肩落ちして済ますと、最後の最後で死ぬほどクールな一発がキマる。追っ手を逃れるため橋から飛び降り、残る力を振り絞ってヒョンソの所在をナムジュに送信、力尽きた·····はずのナミルは、その存在を忘れた頃にしれっと起き上がり、戦線に復帰していく。
ハズしの勘どころが絶妙なら、キメるアクションもまた痛快。怒涛の展開に翻弄され、意のままに関節を操られ続ける二時間半。こんな整体師になら揉まれてみたい!

・大きな家族にあらがう小さな家族、またはくぐり抜けるという儀式

しかし単に家族とは言っても、ポン・ジュノに取っての“家族“はおそらく、より大きな共同体=国家や警察、文明といった抑圧的な権力構造に抵抗し、なにかしら異なる道を探し求めるインディペンデントな共同体として思い描かれている。それは必然的に、共産主義者のコミューンや革命的な思想を持ったレジスタンス、やむを得ず犯罪に走る貧困者たちのありように近づくだろう。
オーシャンズ4に変身したパク一家は、もはやいかなる権威にも従わず、自らの頭で考え行動する過激な革命家集団に成長していく。その道を助けるは、庶民の知恵と根性。怪物からのウイルス感染を疑われ、外出を禁止されているカンドゥをすったもんだの末病院から連れ出し、傲慢な市役所職員にわいろを握らせて検問を突破し、犯罪組織に脅されながらもどうにか武器と車を調達する。トホホな笑いが彩るスリリングな道のり。
だが、この過程において、全員が当然のように日常的な職務を放棄している事実に加え、ヒボンの有り金がならず者の手によって巻き上げられ、ヒョンソのケータイ購入に当てられる予定だったカンドゥのへそくりまで失われてしまう点は見逃せない。持てる地位と財産のほとんどすべてが、ここで手放されているからだ。労働の拒否や私有財産の放棄は、言うまでもなく純粋な共産主義の一条件であり、共同体参入のための欠かせないイニシエーションである。下水溝にたどり着く頃までには、パク一家はすっかり革命戦士としてのみそぎを済ませているわけだ。
従って、地上と地下、安定した日常と危険な非日常を繋ぐあの下水溝のトンネルは、イニシエーションの直接的な物象化だと言える。アフリカの部族間に見られる成人儀礼において、トンネルをくぐり抜ける行為は、幼年の生を捨てて大人として生まれ変わる象徴的な変容を意味するという。わが国に映画史的な記憶を辿れば、鈴木清順の名作『ツィゴイネルワイゼン』(1980)や、そのパスティーシュと目される『真木栗ノ穴』(2007)。双方に共通して出現するあの幽玄なトンネルが、現実と異界を繋ぐ通用門として機能していた例が思い出されよう。
現世の欲を洗い流したパク一家は、検問とトンネルをくぐり抜けることによって生まれ変わり、決意も新たに地下の闘技場へと馳せ参じていくのだ。

・荒らしは窃盗ではない、またはファミリーRの形成

はたして乗りこんだ下水溝の中で、彼らはある兄弟とすれ違う。カメラは唐突にその背中へくっついていき、視点が切り替わる。
混乱に乗じて貧しい農村から都市にやってきたと思しき兄弟。パク一家とは逆方向にトンネルをくぐり抜け、売店の倉庫へ盗みに入る。『これを一回やれば一ヶ月分の食料が手に入る』。兄セジンの言い分だ。ところが、大量の菓子類に続いて偶然見つけた金に手をつけようとする弟セジュを、彼はなぜか厳しく咎め立てる。『それは置いとけ。お金に手を出したら窃盗だ。元の場所へ返せ』。『どうせ盗むんだから関係ないよ』!矛盾した発言に反発する弟に言い聞かせるように、さらに続けて。『セジュ、これは泥棒じゃない。俺たちは今売店荒らしをしてるんだ。畑を荒らすのと同じ』。それでも幼い弟は納得しなかったに違いない。どしゃ降りの雨が降る戸外で、セジンはなんとか自らの真意を伝えようとする。『“荒らし”がどんな意味か知ってるか?とにかく“荒らし”はひもじい人間の特権だ』。直後、兄弟は怪物の襲撃を受ける。
このくだりは、『パラサイト』中のギウの印象的なセリフ『これを偽造や犯罪とは思いません。書類を先に受け取っただけです。なぜなら来年この大学に入るから』を想起させずにはおかない。『“荒らし”はひもじい人間の特権』という意味深なセリフは、セジンに取ってこの略奪が、持たざる者から持てる者への告発として捉えられていることを暗示している。物品の収奪は、本来ならば当然得ているはずの利益(食料)を取り戻す行為だから、『荒らし』として正当化されるだろう。しかし、ひとたび受け取る予定のない金銭まで奪うなら、その行いは恥ずべき『窃盗』でしかないというわけだ。つまり、セジンの言う“荒らし”とは、犯罪行為としての窃盗から厳密に区別されるべき、一種の革命的な身振りなのである。それは、不当に条件付けられた富のアンバランスを是正する点において正当な意義を持つ。セジンは若くして立派に革命戦士として目覚めているわけだ。
怪物にさらわれた兄弟は、ヒョンソが監禁されている下水溝に投げ捨てられる。残念ながらセジンは力尽きているが、セジュにはかろうじて息がある。状況を見て取った彼女は、体を張ってセジュンを守り抜くことを決意する。
こうして、ヒョンソの橋渡しによって、パク一家と兄弟は“家族”として連帯する。ラストシーン、ヒョンソの犠牲のもとにセジュがパク一家に迎えられる展開は、やや強引なようにも見受けられるが、革命的な共同体の比喩として“家族”が捉えられていることを思えば、必然のなりゆきと言えるだろう。
たとえ血の繋がりはなくとも、彼らは意識において繋がっている。革命の意志を分かち持つファミリーであると言えるのだ。(以下、大きな家族=体制にあらがうこの小さな家族を、抵抗“Resistance”と革命“Revolution”の頭文字を取って、“ファミリーR”と呼ぶことにする)。このことは、兄弟より以前に下水溝に連れてこられたウィルス駆除業者の男性二人が、いずれも絶命しており、遺留品のケータイすら壊れていて機能しない事実からも、逆説的に明らかだろう。彼らの存在は、ヒョンソの窮地を救うどころか、その絶望を深めるばかり。政府の命令に唯唯諾諾と従い、ウィルス除去ガスを散布する“黄色い連中”は、ファミリーRに迎え入れられるには不適当なのだ。
かくのごとく、『グエムル』の世界において影響を及ぼし合うのは、精神的に連帯する者の行動のみ。それはリレーのバトンを繋ぐようにして、物語を前へ進めていく。
兄セジンは弟セジュに革命戦士としてのあるべき姿を教え、“姉”ヒョンソは自ら犠牲となって脱出の道を指し示す。二人は命を賭けて弟を目覚めさせ、ファミリーRの構成員としての輝かしい未来を託すのだ。

・権力の壊乱装置、または勇敢な荷物は君を怯えさせる

複数のジャンルがミックスされた贅沢なエンタメ映画。そんな肉付けを削ぎ落とした際に浮かび上がる本作の骨組みは、だから、ファンタジックな風刺劇とでも呼ぶべきシリアスなものだ。
ある日突然現れた怪物は、なにものをも差別せず平等に人々を襲い始める。その猛威の前にあっては、もはや人間社会を条件付ける理性や論理は意味をなさず、持てる者と持たざる者とを分かついっさいの差異は無化される。それまで疑われることのなかった縦型の社会構造が破壊され、横倒しになぎ倒されるわけだ。そのためこの怪物は、権力の空虚と欺瞞を暴く壊乱装置として機能していく。
危険な薬品を漢江へ流し捨てるよう命じる“清潔好き”の科学者、検問中に一家を脅しわいろを受け取る市役所の職員、グエムルが強力なウィルスを保持しているとデマを流し、安全性が明らかでないウィルス浄化ガス“ドクター・イエロー”を散布するアメリカ軍。さらには、集団の利益を錦の御旗に、個人の尊厳をないがしろにする無数の人々=警官、医師、“黄色の連中”。
百花繚乱、持てる者たちの悪行乱行!
とはいえ、彼らのほとんどは非常事態に伴って一時的に権力を預かった者に過ぎない。その権威付けの心許なさは、特に“黄色の連中”のふるまいに明らかだ。宇宙服めいた黄色い防護服からナミルにそう呼ばれる彼らは、市役所職員の発言から察するに、どうやら政府に浄化作業を丸投げされた民間業者であるらしい。ある日突然権力という重い荷物を背負わされた人間は、その扱い方がわからず、びくつきながら威張りちらすことしかできない。葬儀会場に押し入ってきた彼らのうちの一人が威厳を示そうとしてずっこけるシーンには、自らの立場に対する憧れと怯えが濃厚に漂っている。
ラカン-ジジェクの名言『自らを王だと思いこんでいる狂人は、自らを王だと思いこんでいる王と同じ程度に狂っている』が脳裏をよぎる。怪物は、持てる者やそのふりをしている(『パラサイト』中の重要なキーワード“pretend”を想起しよう)者を覆い隠す社会的な衣服を剥ぎ取り、王が裸である真実を暴露していくのだ。

・怪物=コロナ?または清潔であること、それ自体が究極のマスク

未知のウイルスを巡る描写は、2006年という製作時期からすれば、当時のSARS騒動を戯画化したものであるに違いない。とはいえ、2020年の現在から見た場合、コロナ禍に生きるわれわれの姿を予見したものとしか思われず、ひたすら恐ろしい。いったい人間は、過去になにを学んだというのだろう?
無力を際立たせる都市封鎖(ロックダウン)、民間のマンパワーへの責任転嫁、科学的なエビデンスに乏しいデマ情報の流布、そして非常事を逆手に取った権力の拡大。本作に登場する権力者たちのふるまいは、記憶に新しい昨今の状況そのままではないか!
だからこそ、カンドゥが病院で透明なビニールの仕切り越しに警官と接見するシーンは、現在において強力な皮肉として機能する。ウィルスの飛沫感染を防止し、いわゆるソーシャル・ディスタンスを確保するためのあの仕切りは、今や世界中のあらゆる空間を支配しているからだ。またそれは、マスクとなってわれわれの顔を覆ってもいる。次のシーンに込められたユーモアは、そんな顔たちを自嘲気味に歪ませるには充分だろう。揃ってマスクを着用した人々が迷惑そうに見守る中、先から激しく咳きこみ続けていた中年男性が水たまりに唾を吐く。べちゃっ!すると折悪しく通りがかった車が水をはね上げ、全身にしぶきを浴びた集団がパニックに陥るのだ。
コロナによって仕切られたものはおそらく、物理的な空間だけではないだろう。手洗いうがいの徹底、アルコールによる殺菌消毒は、からだと空気、肉体と外界のあえかな繋ぎ目を切断し、マスクやついたては人間相互の豊かなコミュニケーションを遮断する。からだの防衛はこころの閉塞を招く。清潔を求める欲求の異常な亢進は、最終的に他者との接触の拒絶に向かい、自己自身の肉体の棄却に向かうしかない。これはほとんど、90年代以降に続々と出現した新プラトン主義的な傾向を持つアニメー『serial experiments lain』、『電脳コイル』、そして『新世紀エヴァンゲリオン』ーの世界が現実化した状況だと言っていいだろう。なんとなれば、他者との“濃厚接触”を恐れる碇シンジが乗りこむ機械、あのエヴァンゲリオンこそは、彼の生身を覆い隠す完全無欠のマスクであり、『きもちわるい』肉体に取って代わる清潔なマシーンではなかったか?

・透明なデパート、または革命と権力のテトリス

素朴な信仰に従えば、自然において、存在は他の存在とゆるやかな横方向に繋がっている。気温の変化によって雲が雨を降らせ、雨は大地を潤し、大地は植物を育み、植物は動物の糧になる、といったように。そこにはいまだ縦型の権力構造は存在せず、せいぜいのところ、食う・食われるの関係が果てしなく連鎖していく共生の一過程が見られるに過ぎない。
ところが、そのただなかに登場した人間は、様々な象徴(言語や道具、思想)を操ることによって存在を他の存在から切り離し、強引に繋げ直すことに血道を上げてきた。大航海・博物学時代の西洋において飛躍的な発展を遂げた種や類のラベリング、名付けて分かる(分かつ)ための一般・固有名詞の整備、さらには人間を商品のようにカタログ化する膨大なサイン(身分国籍民族階級職業財産性別服装は、時にその人以上にその人自身を表す)。
こうした一連の過程において、横の繋がりは縦に分断され、人と人を結び付けるあたたかな絆は失われ、名付ける者と名付けられる者との間に看過しがたい権力の差が生じるに至った。
文明化に伴う負の側面。このような状況をマルクスが“人間の疎外”と呼んで批判したことを思えば、革命とは、横から縦に変質した世界を再び横へ戻そうとするイデオロギーであることがわかるだろう。かつて一方的に“障害者”と名付けられ疎外された者たちが『全国“水平”社』を名乗って連帯した歴史を思い出そう。硬直化した世界の垂直性を打破し、豊かな水平性を回復すること。これこそが革命の第一目標なのである。
以上の見立てを反転すれば、権力という概念にひとまずの定義を与えることができる。即ち、横の世界を縦に書き換え続け、その差異を保持しようとする不可視のエネルギー。多くの国で階級制度が撤廃されて久しい現在にあって、その働きを直接に捉えることは困難だろう。縦構造は今や、透明なデパートのような形で存在しているのだ。透明さはまた、それがいかなる色によっても侵され得ないこと、清潔であることを証し立てるものでもあろう。

・再び清潔さを巡って、または怪物vsパク一家 ⇒ 権力vsファミリーR

王に王としての権威を授ける装置。“清潔”という名の忠実な家臣。
清潔であることは、古くから権力の象徴として機能してきた。例えば、16世紀のフランスでは、衣服に穴を開けて白い下着を引っ張り出す奇妙なファッションが王族の間で流行したが、これには、白の清潔さを見せつけることによって権力を誇示する目的があったと言われる。当節のフランスに水洗トイレは存在せず、汚物はそのへんに垂れ流しで、風呂に入る習慣とてない。また、素材を完全な白に染め上げるにはかなりの費用と手間もかかった。純白を手に入れることも、それを汚さずに維持し続けることも、金と権力がなければ不可能だったわけだ。清潔さは、王族と庶民、地上と地下を仕切るマスクだったのである。
こうした文脈において、グエムルの生みの親となる科学者が「わたしは清潔を好む」と宣言する場面が冒頭に置かれていることの意味は重い。彼の言う清潔とは、当然ながら衛生的な研究環境をのみ指すものではない。それは、地上の秩序を整然と保つことによって地下の生活を混乱のうちに留めおき、自身の安定した地位と社会制度を守り抜くことによって貧困者を永久に状況の中に閉じ込めるための、残酷なスローガンなのである。
だから彼は、庶民たちが利用していることを知りつつ、平気で漢江に有害物質を流す。それによって人々がどんな影響を蒙ろうが知ったことではない。ただ“こちら側”さえきれいになればいいのだ。きれいにしよう!清潔にしよう!そんな文字通りのキレイゴトを唱えつつ、政府はとうとうドクター・イエローの散布に踏み切る。自らの横暴に逆らって決起し、河原に集まったデモ隊もろとも“浄化”することを企むのだ。
そのため、パク一家と怪物の最終決戦の地となる漢江沿いの河原は、ファミリーRと権力の激しい衝突の場とも化していく。

・河原の死闘、または横倒しにされた縦の顛末

覆水盆に返る。河底から現れた怪物は河岸で追い詰められる。やみくもに地下を求め奔走していたパク一家は、結局はヒボン・カンドゥ・ヒョンソの三人が暮らす売店近くにまで戻ってくる。両者は地上と地下の狭間で対峙するのだ。
ここまでは圧倒的な怪物の力の前に屈してきた一家だったが、形勢はどうやら逆転している。なぜなら、ファミリーRは今や当初の何倍にも膨れ上がっているからだ。
政府に抗議すべく集まったデモ隊に加え、河原でナミルと知り合ったホームレスまでが顔を揃える。対するは、ドクター・イエローを散布する黄色い巨大クレーンと、デモの制圧に備える機動隊員たち。
本来なら決して交わることのなかったであろう異なる縦空間を生きる人々が一同に会するこの場面が、物語のクライマックスを演出する。いわば革命は、縦型の社会構造が横倒しになった現場において出現するのだ。
決戦のとき。デモ隊が機動隊の注意をひきつけている隙に、ナミルは怪物に火炎瓶を投擲する。おしい!無情にもかき消える炎。ピンチを見て取ったホームレスが機敏に動く。敵の頭上を死角に捉えつつ、煙草の火種を加えるのだ。(”煙草”及び“喫煙”が縦型の社会構造からするりと横に抜け出るための“背徳の記号”として捉えられていることについては、『パラサイト』論で触れた。同作において、ギジョンは、喫煙が象徴する脱獄の罪によって処刑されてしまうのだ)。頃や良し!ナミルの点火した矢を番え、満を辞したナムジュが渾身の一射を放つ。悲鳴を上げ逃げまどう怪物。すかさず追うカンドゥ。とある権力側の秘密を保持するために執行されたロボトミー手術は、皮肉にも彼にいっそうの怪力を授けている。巨大な立て看板を持ち上げ、振り下ろす。とどめの一撃!
こうしてファミリーRは、無意識の繋がりにおいて協力することによって、ついに革命を成し遂げるのだ。

・かりそめの革命、または共食いの食卓

慌ててかけ寄り、怪物の体内からナムジュとセジュを助け出そうとするカンドゥ。だが、ナムジュは無惨にも事切れている。慟哭。
それから時は過ぎ去り、元通り修復された売店で店番をしている様子のカンドゥ。ガラス戸越しにぼんやり外を眺めている。するとふとした拍子に戸が振動し、彼の身に緊張が走る。怪物の存在は消え去っても、その恐怖がトラウマとなって残っていることが窺える。緊張を解き、後ろを振り返れば、そこには元気いっぱいのセジュの姿が。二人が仲良く夕食を囲むシーンでエンドロール。一応のハッピーエンドとなる。
だが、映画が終わってもなお、われわれの心にはわだかまりが残されるに違いない。グエムルが死んでも、その被害は回復しないばかりか、パク一家の暮らしぶりが豊かになることもない。セジュがファミリーRに迎え入れられた点に唯一の希望が見出されるとはいえ、失われたセジンとヒョンソの命が返ってくることはないのだ。はたして、怪物を倒すことが革命だったと、本当に言い切れるのだろうか?
革命とは、垂直に営まれる世界に豊かな水平性を取り戻す試みであったはずだ。考えてみれば、その任を誰よりも忠実にまっとうしたのは、あの怪物ではなかったか?権力の縦構造を破壊し、透明なヴェールを剥ぎ取り、ファミリーの結束を準備したのは、なによりもグエムル自身であったはずなのだ。そうとは知らず仲間内で傷つけ合うところに悲劇があるとはいえ、彼はまぎれもなくファミリーRのリーダーだったのである!
だとすれば、河原の決戦で演じられていたものは、革命ではなく共食いであろう。
その証拠に、パク一家、デモ隊、ホームレスのみならず、あの怪物も、さらには体制側であるはずの機動隊員までもが、無差別に噴射されるドクター・イエローの毒素によって苦しみ、倒れこむ。あの河原に集まったすべての人間は、同じガスに窒息しながら、結局は同士討ちをさせられていたに過ぎない。本当の敵はグエムルではなかったのだ·····
ファミリーRがそれぞれの異能を解放して怪物をフルボッコするシーンはたしかに爽快だ。だが、ひとたび視点を転ずれば、その脇で高みの見物を決め込んでいる黄色いクレーンにはいささかの傷や汚れもついてはいない。塗り立てのペンキをピカピカと光らせ、わが身の清潔さを誇示するばかり。さらに言えば、ガス噴射を命じたであろう真の権力者たちは、その場に参加すらしていないのだ。なんたる皮肉!
怪物に最初の一撃を与えるものが、ファミリーRではなくクレーンである事実を、われわれは決して見逃すべきではないだろう。“汚れ”を浄化するガスに苦しむグエムル。このシーンは、ぬめぬめとした粘膜に覆われ、寄せ集めの醜いからだを生きる彼もまた、“清潔”を維持する力の犠牲者であることを明確に物語っている。そもそも、地上空間の清潔さの代償として産み落とされ、その復讐を地下から遂げていく存在が怪物なのだ。
あの河原は、栄光ある革命の舞台ではなく、透明な力によってお膳立てされた、共食いのコロシアムだったのである。

・建築家ポン・ジュノ、またはすべてはコロシアム建設のために·····

ポン・ジュノを他の映画作家から分かつ最大のポイントは、おそらくここにある。ウェルメイドな娯楽作品に社会批判を織り込む優れたバランス感覚。だが、実のところその才能は、持たざる者同士が共食い合う残酷な場を用意する目的にこそ費やされていると言えるのだ。事実、『グエムル』においても『パラサイト』においても、物語はコロシアム建設の一点に向けて収斂していく。ここでおぼろげながら浮かび上がってくるものは、“コロシアムの建築家ポン・ジュノ”という作家的な主題であるにほかならない。
“コロシアム”は、社会的な縦構造にひびが入りついには横倒しになった地点に現れる、革命的な理想空間である同時に、異なる階層の人々が殺し合う陰惨な舞台でもある。それは、革命理念の栄光と挫折をともに象徴する場だと言っていい。コロシアムが地上と地下の中間領域に現れるのは、このような両義性を合わせ持つためなのだ。
『グエムル』で河原に出現したコロシアムは、『パラサイト』では、半地下ー地上ー全地下を架橋するパク家の庭のなかに建設される。
緻密な設計図に従い、ポン・ジュノはひとつひとつ着実にその計画を推し進めていく。第一に、半地下のパラサイトが地上の安定に揺さぶりをかける。第二に、全地下の出現がそれを解体する。序盤において揺るぎない階層差を強調していた縦構造は、その差異を保証する権威の空虚さが暴かれるにつれ、徐々に崩壊していく。垂直の世界が水平化されていくわけだ。そのエネルギーが最高潮に達した時、コロシアムが姿を現す。
パク家の長男ダソンの誕生日を祝うべく開催されたパーティー。すべての縦が横に並んだ庭。半地下=キム一家、地上=パク一家、全地下=グンへ。妻ヨンギュが招待したセレブな友人たちも集まっている。だが祝祭の場は、あっという間に戦場へと様変わりする。まず、地下 vs 地下。グンへがギジョンを、チョンスクがグンへを刺し殺す。続いて、地下 vs 地上。それまでにもたびたび言及されていた半地下の“スメル”(臭いは清潔と不潔を分かつ権力の記号であり、その階層をおのずと『行き過ぎる』ものでもある)がひきがねとなり、ギテクがドンイクを刺し殺す。
いずれにしろ凄惨な場面には違いないが、ここでわれわれが注目すべきは革命闘争の成否だろう。いったい、状況は良くなったのか悪くなったのか。『グエムル』のそれと比較して、『パラサイト』のコロシアムは栄光と挫折の割合をどのように変化させたのだろう?
地下同士の共食いは相変わらず見られるものの、地上の権力者たち(パク一家)が舞台に上げられている点からすれば、事態にひとまずの進展を読むこともできそうだ。黄色いクレーンがいっさいの攻撃を受け付けなかった『グエムル』と比べ、ここでは地下の刃が確実に地上へと届いている。とはいえ、この戦いもまた、同士討ちの苦い味を免れてはいない。
なぜなら、地上の犠牲者ドンイクは、単なる私企業の経営者に過ぎないからだ。彼は家庭の支配者ではあっても、社会の支配者ではない。権力の恩恵に浴する人間のうちの一人ではあっても、断じてそれを生み出す側ではないのだ。地下の勢力が縦空間を“行き過ぎ”て地上に侵入することを嫌う態度は、せいぜいが真の権力者のそれを模倣するポーズでしかない。不可視のエネルギーを作り出しているなにものかは、依然として闇にまぎれたままなのだ。
また、この戦いは、革命戦士たるキム一家の側にも、少しもいい結果をもたらさない。娘は死亡、息子は重症、父は殺人犯として指名手配。おまけに、無傷となった母チュンスクさえもが、一命を取り留めたギウとともに元の半地下暮らしへ逆戻りするのだ。『グエムル』のラストシーン同様、物語は一周回って振り出しに戻る。いや、失われたものの大きさを考えれば、むしろマイナスの結果だと言えるだろう。
以上からして、冷静に観察すれば、庭での戦いもやはり同士討ちであったと言わざるを得ない。革命は挫折し、その刃はまたしても、透明なデパートの所在を探り当てるに至らなかったのだ。

・革命という幻想、または幻想を構成する主体

一種のSFファンタジーでもあった『グエムル』と異なり、あくまで現実的な世界に留まる『パラサイト』であってみれば、その感触はなおさら絶望的であろう。だが、それなら、一般に想定される“真の権力者”=政治家や一国の首相がコロシアムに上がれば(次なる段階として、いつかポン・ジュノはこのような題材を扱うに違いない)、彼らが地下の凶刃にかかって散れば、革命は達成されたと言えるのだろうか?
このような問いは、革命理念の本来的な不可能性を照らし出す。
いったいぜんたい、革命とやらはどうすれば可能になるのか?始め方がわからなければ終わりだって見えない。打倒すべき敵、“真の権力”なるものが本当に存在するのか?透明なデパートなどと言っても、目に見えないならそれは無いのと一緒だ。革命の犠牲の上にどうにか見出されるものは、無味乾燥な偶然の集積ではないのか?世界は縦と横の繋がりでは割り切れない、複雑かつ無意味な関係によって成り立っているはずだ。
要するに、“革命”とは持たざる者が抱く幻想に過ぎないのではないだろうか?
ひょっとすると、ポン・ジュノが繰り返しコロシアムを描くのは、かくのごときラディカルな問いを浮上させるためかもしれない。革命が幻想だとしても、いや、だとすればなおさら、その幻想を生み出している主体がどこかに存在している事実は疑い得ない。加えて、その幻想がいつも必ず潰えるなら、そこには一種の構造化された力が働いているはずだ。このような仮定を地上と地下の対立構図に当てはめ、輝かしい幻想を陰惨な現実に変えてしまう力の構造をコロシアムとして取り出すこと。これこそが彼の狙いなのではないだろうか?
現に、コロシアムは大なり小なり現実の中に実体化し、日々残酷な結果を生み出し続けてもいるのだから。
従って、コロシアムの建設を幾通りにも再現する試みを通して、不可避的にそれを用意してしまう透明なエネルギーの正体を突き止めること。陰惨さばかりが際立つその場からネガティヴな側面を取り払い、革命の舞台としての栄光を取り戻すこと。ポン・ジュノの目論見とは、おおよそこのようなものであるに違いない。
不可能な達成の瞬間を目指して、この勇敢なシーシュポスは、転落する岩を幾度も頂上へと運び続けるだろう。

<第二部> 実はあれって聖書のパロディ? ~『グエムル』の不可解なシーンを解読する~

・聖書の見立て殺人、または一人が語る、三人が眠る

コロシアム建設に仕上げを施すものが、どうやらファミリーRの犠牲であるらしい点は興味深い。『グエムル』のヒボンとヒョンソ、『パラサイト』のギジョン。ことここに至って、一度は放棄した聖書の見立てが復活してくる。彼らに殉教者イエスの役割が課せられているという可能性だ。
『パラサイト』論では、洪水や石のモチーフが旧約聖書に由来することを一瞥するに留めた。それが直接的な読解の手がかりにはなり得ないと判断したためだ。しかし本作を観賞した今、聖書の引用はにわかに現実性を帯びてくる。
なにより引っかかったのが、ヒボンがカンドゥの知られざる秘密を家族に明かすシーン。ナミルとナムジュが怪物襲撃の準備を進めている真っ最中に、例によってカンドゥは眠りこんでしまう。『こんな時によく寝れるな』。そう毒づき、「どうせ役に立たないから置いていこう」と立ち上がりかけた両者を制し、突如改まった調子になってヒボン。「おまえたちはこの兄がバカだと思ってるだろう?こいつがこうなったのは、実は俺のせいなんだ·····」
なんでも、当時小さな売店を切り盛りすることでせいいっぱいだったヒボンは、息子に充分かまってやることができなかったという。もともと頭がよかったカンドゥは、どうやらその孤独とストレスから眠り病を発症させたらしい。ひょっとすると、普段はナムジュのために禁煙しているのかもしれない。映画中で唯一、ここで煙草に火をつけ、解放されたようにふかしながら。
『母親を知らずに育った哀れなカンドゥはいつも腹ペコだったよ。だから人の畑を荒らしちゃあ有機野菜で飢えをしのいだ。畑の主人にボコボコにされたこともある』
“畑荒らし”·····ファミリーRの一員セジンを連想させるエピソードだ。
『子供の頃にタンパク質不足だったせいか、今でも暇がありゃ、病気のニワトリみたいに居眠りばかりだ』その言葉通り眠っているカンドゥの頭を指さし、『ここもイカれちまったらしい』
さらには、『パラサイト』の重要モチーフでもあるスメル=臭いを巡るこんな発言も飛び出す。
『お前たちはあの臭いをかいだことがあるか?子を失った親の気持ちが分かるかという意味だ。親の心が腐ってしまうとその臭いははるか遠くまで広がる』
そして話の落ち着く先はこうだ。
『カンドゥにできるだけ優しくしてやれ。いちいちけなすんじゃない』
以上のくだりは、比較的長尺でじっくりと撮られている。家族の絆が再確認されるだけでなく、その後の怪物との直接対決を用意するという意味においても、非常に重要なシーンであるからだ。
ところが、そのわりには、ナミルとヒョンソの反応は変だ。自らの罪を涙ながらに告白する父に対し、どういうわけか彼らは居心地悪そうに視線を泳がせ、けっして目を合わせようとしないのだ。挙句の果てが、話の途中で眠りこけてしまうのだから驚く。実の家族とはいえ、これはあまりに失礼な態度ではないだろうか?この不自然さを、われわれはどう解釈すべきだろう?
まず考えられるのは、二人がこの話を聞くのは初めてではないという可能性だ。ヒボンはさも秘密を告白するような口振りだが、彼らは既に何度も聞かされたエピソードに飽き飽きしている。といって、真剣な父の様子に口を挟むことも憚られ、ただあいまいに目線を逸らすことしかできない、というわけだ。老人の昔語りにありがちなパターンと言えるだろう。そういえば、話が始まった瞬間、ナミルとヒョンソは意味ありげに顔を見合わせてもいた。
だが、それならそれで二人が眠りこんでしまう点が腑に落ちない。少しでも父の気持ちを思いやるなら、「もう何回も聞かされましたよ」と一言入れる方がいくらかマシというものだろう。まして、日頃からバカにしている兄と同じように眠りこけるだなんて!
そこで浮かび上がってくるのが、これがなにかの象徴になっているという可能性だ。状況を単純化して考えてみよう。既に眠っている兄に続いて、弟と妹も眠りに落ちる。結果、一人きりで語り続ける父の面前で三人の子が眠っている図が出現するわけだ。この構図はなにかを思い出させはしないだろうか?新約聖書に登場するある重要なエピソード·····そう、西洋絵画において繰り返し描かれてきた主題=“ゲッセマネの祈り”だ!
十二使徒の一人であるユダに裏切られ、死を覚悟したイエスは、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの三人の弟子を連れてオリーブ山の麓にあるゲッセマネと呼ばれる場所に向かう。そこで彼は一心に祈り、神に慈悲を請うのだが、なんとその真っ最中、弟子たちは揃って眠りこけてしまうのだ!
言うまでもなく、キリスト教の神であるイエスは“father”=父と尊称され、信者たちはその子=“son”と呼びならわされる。加えて、これがイエスが死地に向かう間際の情景であることを考えれば、すべてがピタリと符合する。なぜなら、先のシーンの直後、ヒボンもまた怪物の手によって処刑されてしまうのだから!
つまり、父ヒボンはキリスト教の父=イエスに、三人の子は三人の弟子になぞらえられているというわけだ。さらに追及すれば、兄弟のうちのだれがどの弟子に符号しているかを正確に言い当てることができるだろう。なぜなら、彼らに与えられた特殊スキルは、それぞれの聖人のエピソードにちなんだものとなっているからだ。カンドゥの怪力は、ヤコブが天使と取っ組み合いの格闘を演じる旧約聖書中のエピソードに由来し、ナミルの火炎瓶は、ヨハネを称える祭礼の多くが火祭りとして執り行われる事実に由来している。では、残ったナムジュがペテロであるのはなぜか?これは少々笑える。イエスの最初の弟子であるペテロは、もともと父や弟と一緒に漁師として働いていた。そこにイエスが現れ、「人間を捕る漁師になりなさい」と言って彼を迎え入れるのだ。ここから、ペテロの持物(=アトリビュート。その人物の属性を表すための記号。例えば、聖母マリアのアトリビュートは白百合である)として、網が描かれるようになった。もうおわかりだろう。ナムジュが怪物を捕るためのアーチェリーの弓矢は、ペテロが魚を捕るための網を模倣しているわけだ!海上の狩りに使用される網を、陸上の狩りに供される弓矢に読み替える、一種のシャレになっているのである。思えば、あの怪物には魚としての形状が与えられてもいた。以上をまとめれば次のようになる。
ヒボン=イエス、カンドゥ=ヤコブ、ナミル=ヨハネ、ナムジュ=ペテロ
“ゲッセマネの祈り”の見立ての完成だ。しかし、イエスは弟子たちにではなく、神に語りかけたのではなかったか?たしかにそうだ。だが、地面にひれ伏し必死に祈るイエスに対し、神は沈黙したきり言葉を返さない。状況を客観的に見れば、イエスはひとりごとを言っているに等しいわけだ。涙ながらのヒボンの訴えをナミルとナムジュが無視する不自然さは、この状況を再現するためのものだろう。あたかも罪悪感に苛まれているかのような二人の表情は、イエスを裏切ってしまった弟子たちの後悔に通じている。
「ちょう待てや!わしが祈っとる隙におまえらなに眠っとんねん!もうええ!向こうからお迎え来はったわ·····」
絶望したイエスのもとに、とうとうユダがやって来る。『アボニ(先生)』と言って彼がイエスの頬にキスすると、隠れていた兵士たちがいっせいに飛びかかり、鎖をかけてイエスを引っ立てていく。処刑台となる十字架に向かって·····
ここでユダがイエスを呼ぶ“アボニ”という言葉も興味深い。父を意味する韓国語“アボジ”を連想させるからだ。ヒボン=イエスという見立てにもし妥当性があるとすれば、ポン・ジュノがこうした類似を意識していなかったとは考えにくい。
怪物に惨殺されたヒボンの元にも兵士がやってくる。治安維持を担当している機動隊だ。一見するとユダの役割に相当する人物は見当たらないが、しかし、ここで権力者のふりをしている彼らは、ユダと同じ“裏切り者”として描かれているのである。

・さらなる傍証、または父なる魂は救われかし

もう一箇所、きなくさい点がある。ドクター・イエローのガスにやられた怪物が悲鳴を上げ、もだえ苦しみながら魚を吐き出す場面。なぜ魚?という謎に加え、どういうわけかこの魚が生きており、おまけにほとんど無傷であると来ては、いっそう不可解だ。なぜわざわざこんなシーンを入れたのだろう?
実は、キリスト教の寓意体系において、魚はイエスの象徴なのである。捕えられたイエスは、裁判の結果、INRIという言葉が刻まれた十字架にかけられる。当時のローマには十字架に罪状を明記する習慣があったためだ。INRIとは“ユダヤ人の王ナザレのイエス”というラテン語の頭文字をとったもので、要するに彼は“ナザレ出身の乞食野郎のくせして、エラソーにユダヤ人の王を名乗りやがった!”という罪を着せられるわけだ。それがなぜ魚に繋がるのかと言えば、魚を意味するラテン語がINRIと類似していたためだという。
ここまでの見立てに従うなら、父ヒボンはイエスであり、イエスは魚のことを指す。すると怪物が生きた魚を吐き出すのは、三人の子がヒボンの魂を無傷のまま救出し、見事そのかたきを討ったという栄光を表すのではないか?その後実際に子が一丸となって怪物を倒すことを思えば、それほど突飛な発想とも言えまい。もちろんヒボンのからだはとっくに没しているわけだが、キリスト教の信仰において問題となるのは、肉体より遥かに魂の救済の方なのだ。聖なる父の魂は、眠りこけていた子たちの活躍(贖罪?)によって救われるのである。
このように、一見して不可解な二つのシーンの謎は、キリスト教の象徴体系になぞらえられることによって、氷解する。

<第三部> 『グエムル』から『パラサイト』へのバトンリレー ~革命幻想の行方を追って~

・そろそろ忘れた頃でしょ?『グエムル 漢江の怪物』登場人物紹介

『パラサイト 半地下の家族』登場人物紹介


『グエムル』

パク一家
父: ヒボン (ピョン・ヒボン)
兄 = 主人公: カンドゥ (ソン・ガンホ)
弟: ナミル (パク・ヘイル)
妹: ナムジュ (ペ・ドゥナ)
カンドゥの娘: ヒョンソ (コ・アソン)

貧しい兄弟
兄: セジン (イ・ジェウン)
弟: セジュ (イ・ドンホ )


『パラサイト』

半地下に暮らす貧乏家族、キム一家
父:ギテク(ソン・ガンホ)
母:チュンスク(チャン・ヘジン)
兄:ギウ(チェ・ウシク)
妹:ギジョン(パク・ソダム)


地上の高級住宅に暮らす金持ち家族、パク一家
父:ドンイク(イ・ソンギュン)
母:ヨンギュ(チョ・ヨジョン)
弟:ダソン(チョン・ヒョンジュン)
姉:ダヘ(チョン・ジソ)

パク家の秘密の地下室(全地下)を不法占拠するぶっとび家族
妻:ムングァン(イ・ジョンウン)
夫:グンセ(パク・ミョンフン)

・ヒボン=イエス=ギジョン?または『グエムル』から『パラサイト』に繋がるバトン

最後に、改めて『グエムル』と『パラサイト』を比較してみよう。
ここまで確認してきたように、四人家族のうちの一人が犠牲になることによって残された三人が巨悪に立ち向かう、そしてその戦いはコロシアムの中に結実する、という点において、両作はまったく同じ物語構造を備えていると言える。ただし、『パラサイト』のラストシーンにおいて、真実の戦いは共食い合う場としてのコロシアムのその先、ギウが夢想する未来の中にあることが示されている点は重要だ。『パラサイト』論ではこの点にポジティブな意味合いを見出した。
当然、それぞれの登場人物の立場にもある程度の互換性が認められよう。
なんの前触れもなく地上を蹂躙するグエムルは、戦闘力においてグンへを遥かに凌ぐ地下の王。河岸にほど近い売店に拠を構えつつ、グエムルと相対し、さらには団結して地上の秩序を破壊するパク一家は、半地下に暮らし、グンへの出現に動揺しつつ地上をパラサイトしていくキム一家と、その立ち位置を共有している。革命的な共同体としてのファミリーRの役割は、パク一家からキム一家へと継承されているわけだ。地上と地下の縦割り構造から人物を位置づけるなら、おおむね次のようになろう。

『グエムル』
☆地上·····科学者や米軍といった無数の権力者たち、ドクター・イエローを散布する黄色いクレーン
(黄色い連中)
☆半地下=ファミリーR·····パク一家、セジンとセジュの兄弟、ホームレス
☆全地下·····グエムル

『パラサイト』
☆地上·····パク一家
☆半地下=ファミリーR·····キム一家
☆全地下·····グンへとムングァン

『グエムル』においては、ひたすら傲慢に振る舞う非人間的な機械(あのクレーンのように!)として描かれるのみだった権力者たちは、『パラサイト』では人間的な愚かさと幾分のあたたかみを備えたパク一家となって現れ、権力の打倒=革命という単純な図式に疑問を投げかける。カッコ付きで地上と半地下の中間に置いた“黄色い連中”は、さしずめ地下勢力に対する裏切り者、非常時に乗じて王のふりをしている奴隷といったところか。
すると問題は、『パラサイト』で犠牲の羊となったギジョンに相当するのは誰なのか?ということだろう。候補として挙げられるのはヒボンとヒョンソの二人だが、聖書の象徴性から推して、その立場により近い存在はヒボンであると言えそうだ。グンへに刺殺されるギジョンとグエムルに殺害されるヒボンは、“全地下に処刑される半地下”という形で見事な相似を成している。そしてその刑は、共通して、誰憚ることなく煙草をふかす仕草、社会の外側への一時的脱走が図られた直後に執行されるのだ。とすれば、ヒボンがイエスに見立てられている以上、ギジョンにもなんらかの象徴性が与えられている確率が高い。この点は再度検証してみる必要があるだろう。また、ヒボンが一家をまとめつつ“計画”を実行していく父としてギテクの役割を兼ねており、ギジョンは末の妹としての立ち位置をナムジュと共有していることも確認しておきたい。『グエムル』における不在の母は、次男ナミルと入れ替わる形で、母性溢れるチュンスクとなって登場する。
さあ残すは主人公のみ。『グエムル』で『パラサイト』におけるジェダイの騎士=ギウの役割を負っているのは、明らかにカンドゥである。同じ長男というだけではなく、頼りない息子が父の遺志を継ぎ、一種の発狂を経験して(ギウは大怪我を負った頭部の手術によって、カンドゥは記憶を消すためのロボトミー手術によって)ジェダイとして生まれ変わるところまでそっくりそのまま。両作に共通して、冒頭〜終盤と反復される窓辺に佇む長男の図は、売店のガラス戸の向こうに座っているカンドゥ、半地下の家の窓辺に座っているギウ、という具合に引き継がれている。いわばファミリーRの革命理念は、作品内においてだけではなく、作品から作品へと希望のバトンを繋いでいるわけだ。正面を向いているカンドゥに対し、ラストシーンのギウが窓に背を向けていることからすれば、戦況は過酷さを増す一方のようだが·····
とはいえ、『グエムル』で息子カンドゥを演じたソン・ガンホが『パラサイト』でギウの父ギテクを演じていることを思うなら、戦士のバトンはメタレベルにおいても継承されているはずだ。かつてのジェダイは、次世代のジェダイを育てるダースベイダーへと成長を遂げたのである。

・加速する断絶、または普通のしぶとさ

というわけで、地上と地下の星座、遥かなる革命のための見取り図がここに完成する。


『グエムル』⇒『パラサイト』

☆地上·····科学者や米軍といった無数の権力者たち、ドクター・イエローを散布するクレーン ⇒ パク一家

★地上と地下の狭間·····黄色い連中 ⇒ 該当なし

☆半地下=ファミリーR·····パク一家 ⇒ キム一家 (ヒボン → ギテク&ギジョン、カンドゥ → ギウ、ナミル → 立場のみチュンスク、ナムジュ → 立場のみギジョン、ヒョンソ → 該当なし)
セジンとセジュの兄弟 ⇒ 該当なし
ホームレス ⇒ 該当なし

☆全地下·····グエムル ⇒ グンへとムングァン


一見して明らかなのは、『グエムル』の縦構造が『パラサイト』では極端に単純化されているという事実だ。地上と地下の中間項である黄色い連中の役回りがカットされているのみならず、権力の強弱は、空間的な上下になぞらえられつつ直接に表現されている。こうした変化は、枝葉の要素を切り落とし、現実の韓国社会に場を据えることで、“現代における革命の(不)可能性”というテーマを鮮明に浮かび上がらせるためのものだろう。
同時に見落とせないのは、『パラサイト』において“該当なし”となった項目だ。ヒョンソ、セジンとセジュ、ホームレスの役どころはすべて捨象され、ファミリーRはキム一家の四人のみとなっている。つまり、家族以外の人間との繋がりが完全に絶たれているわけだ。そのため、他者と連帯することによってファミリーRが拡大していった『グエムル』とは異なり、『パラサイト』では、最後まで血の繋がりを超えた結束が生まれることはない。半地下・全地下・地上の三つの家族の関係は、それぞれの家族の中だけで閉じてしまっているのだ。
その証拠に、セジュをファミリーRに合流させたヒョンソのような仲介役は登場せず、ホームレスをコロシアムに導いたナミルとは反対に、ギウは自分より地下にいる人間を過度に敵視する。横丁で立ち小便している浮浪者を力づくで追い払い、友人から譲り受けた石によってグンへを殺害しようとするのだ。キム一家もまた、その姿勢を勇敢なものとして讃え合う。
ここから感じ取れる一種の近親憎悪は、彼らがかつて地上の住人だった過去(砲丸投げの選手だったチュンスクの写真やメダル、熟練したギテクの運転技術などから窺える)に由来するものなのかもしれない。しかしいずれにせよ、他者との連帯を拒む姿勢が、ファミリーRの革命的な可能性を閉ざし、半地下と全地下の共食い構図を強化してしまっている事実は否定できない。
同様に、全地下の王グンへは、地上の勝者であるパク一家に『リスペークト!』を表明する一方、近しい立場にあるはずのキム一家には敵意を向け、コロシアムを戦場へと変えてしまう。
地上の豪邸に暮らすパク一家が、自分たちと同じセレブとしか交友を持たず、地下に生きる人間を異物として蔑んでいることは言うまでもない。洪水の被害によって住む家を奪われた無数の人間が肩を寄せ合う避難所。その中で絶望をかこっている様子のギテクに、ヨンギュから電話がかかってくる場面はあまりに皮肉だ。ダソンの誕生日パーティーに参加するよう一方的にまくしたてる、脳天気なその浮かれっぷりは、彼女が想像すらし得ない過酷な現実と対照を描く。もはや“pretend”の原理に基づく見かけの歩み寄りだけではいかんともしがたい、地上と地下の埋めがたい意識の差がここで露わになるわけだ。
要するに、『パラサイト』における構図の単純化は、人間相互の絆の断絶という深刻な問題を反映している。『グエムル』では期せずして目的を共有していた半地下と全地下は、もはやいかなる意味においても手を結ぶことはなく、連帯の可能性は同じ階層の内部においてすら事前に排除される。これ以上に絶望的な状況が他にあろうか!
もちろんここには、『グエムル』の怪物のようなファンタジックな存在が介在しないことも影響しているに違いない。『パラサイト』はいわば、終わりなき平坦な日常における革命の(不)可能性を検証する装置なのだ。ということはしかし、裏を返せば、SARSや新型コロナウィルスといった人類共通の敵が現れでもしない限り、われわれの意識はこんなにも閉ざされたままだということだろうか?持たざる者同士で憎み、争い、殺し合い、連帯の芽を自ら摘み取ること以外に道は残されていないのだろうか?それが『グエムル』から10年以上を経過した現在、怪物の、コロナの脅威をようやく“くぐり抜け”ようとしている世界が下した答えなのか?
『パラサイト』がわれわれに突き付ける問いとは、ちょうどこのようなものであるに違いない。それは、ジェンダー規範の捉え直しや多様性の承認、価値観のアップデートが叫ばれる裏側で、世界規模の右傾化と身近な断絶が加速度的に進行する現在の状況を、仮借なく描き出している。怪物というファンタジックな道具立てに頼らずして、王様の、そのふりをしたがるすべての人間を裸に剥き去るのだ。この点において、先の見取り図で“該当なし”となった黄色い連中の役回りは、実はキム一家の中に溶かしこまれているのだと言える。地上と地下の狭間に位置する黄色い連中は、地上と全地下の中間項である半地下に符合する。さらにキム一家は、全地下の出現によって半地下であることのアイデンティティを剥奪され、いわゆる普通の人々として社会の中に位置づけし直されたのだった。つまり彼らは、ファミリーRの革命戦士としての使命をパク一家から継承しているにも関わらず、その役割に気付かず、自ら偉大な可能性を閉ざしてしまう、鈍感な“裏切り者”として描かれているわけだ。価値観の更新を謳う勇ましいかけ声が覆い隠す現状の動かしがたさ、あらかじめ革命の芽を摘み取る“普通のしぶとさ”こそがここで問われているのである。

・夢見る家族、または透明を汚すためにこそ透き通る



しかしそもそも、相容れぬものとの対決の過程を省いた、なし崩しの承認による多様化などありえるものだろうか?前提としての“ノーマル”のしぶとさを問おうとしない“ニューノーマル”は、水面下の断絶を隠蔽するばかりではないか?
『グエムル』でパク一家の前に立ちはだかる怪物は、こうした疑問に対する残酷な回答である。どうやらわれわれには、革命に繋がる道を一直線に進むことは不可能らしい。半地下の日常からさらに地下へと降りていき、その場に像を結んだ危険な無意識=聖ゲオルギウスが対決したあのドラゴンと相見え、手痛い犠牲を払ってでも、他者との連帯の可能性を探らねばならないのだ。目標を目指して進み、それを見失わないよう注意しながら、同時に限りなく迂回を続けること。これこそが、現代を生きるわれわれに許された唯一可能な方法と言えるだろう。
永遠の長きにも感じられる遠回りの過程において、共食いのコロシアムは幾度も形を変えて現れ、勇敢な幻想を陰惨な現実へと引き戻し続けるに違いない。漢江沿いの河原、パク家の庭に出現した戦場は、今も世界中に聳え立つコロシアムのうちの、ほんの一角に過ぎない。透明なエネルギーの複雑な諸関係が導くそれらは、多くの場合、映画で現われるように明らかなものではない。コロシアムの本質とはつまり、透明なデパートが縮小再生産された目に見えない構造体なのだ。そんな陰惨な現場をいくつもくぐり抜けて、われわれは前へと進まなくてはならない。希望のバトンを繋ぎ、何世代にも渡るリレーを続けながら。
血と汗にまみれた壮大なこのバトンリレーが断絶するとき、想像を超えた過酷な現実がわれわれを襲うだろう。『パラサイト』は、未曾有の危機に向けて鳴らされた警鐘である。
「どうせ無理だ」「なにも変わらない」「ただ普通が続けばいい」
そんなあきらめは、権力者にとってなによりのごちそうだ。普通であることのしぶとさは、時として透明なエネルギーの持続に加担してしまう。見えない敵を見極めようとする無謀を回避し、目に見える身近な者を敵に選び取る賢明さ。革命の可能性を自ら放棄する“現実的な”態度の醸成だ。結果、それを後押しした主体は都合よく闇にまぎれ、半地下の戦士は地上勢力に加担する裏切り者へとすり変わっている。その証拠に、ドクター・イエローが象徴する抑圧の浸透力、いつの間にか存在を拡大し、気付けばあたりに充満している権力の霧に抗おうとしたパク一家に対し、キム一家はもはや抵抗することなくそれを受け入れてしまう。浄化ガスを噴射する作業員が近づいてくるにつれ、たまらず窓を閉めようとする家族を押しとどめ、ギテクは「タダで油虫を追い払ってくれる」と賢明で現実的な対処策を言う。そのかしこさが全員が咳き込む結果を招くとも知らずに。
かくして『グエムル』に仄見えていた希望の光〜社会の垂直性を打破するヒーロー、他者との連帯、家族概念の水平方向への広がり〜はかき消え、多年の歴史が育んだ栄光の可能性は没したかに見える。『パラサイト』の世界にヒーローは存在せず、ファミリーRは“pretend”のかりそめの快楽に安住する中間項(あの黄色い連中のように!)へと堕落してしまう。革命の幻想は、そもそもの前提=普通であることの困難へと差し戻されるわけだ。
だが、希望の光は完全に消えてしまったわけではない。黄色い連中と違って、キム一家は怠惰のうちに留まってはいない。最後の最後で繭から脱皮するのだ。その証拠に、カンドゥ~ギテクの遺志を継承するギウは、映画の終盤において、革命の幻想を色濃く思い描くに至る。いつか、ふりではなく本物の金持ちになって、あの高台の家を手に入れ、地下の暗がりに潜む父を堂々と迎え入れる。そんな未来を、しんしんと雪が降り積もる半地下の窓辺で夢想するのだ。このビジョンの中では、半地下・全地下・地上というすべての空間がキム一家によってパラサイトされている。頑迷な社会の縦構造がやわらかな夢によって貫通され、“家族”という視座のもとにひとつに編み上げられるわけだ。
仕立てのいいスーツに身を包み、清潔に髪を整え、母とともにあの階段を登る。庭の芝生が風にそよぎ、ガラス張りの窓からは爽やかな陽射しが降り注ぐ。その光に照らされたリビングへ向かって、一歩一歩、確かめるように、歩みを進めてくる父。希望の一瞬。
映画体験の幸福とは、虚構に過ぎない登場人物の内面を、現実のものとして共有できることではないだろうか?だとすれば、ギウの思い描くビジョンを映像を通して受け取ったわれわれも、夢見ることをあきらめてはならないだろう。夢の中で願いを重ねる限り、われわれはキム一家の“家族”でいられるのだから。
きっと、ファミリーRに連なるための唯一の条件は、透明な残酷さから目を逸らさないことた。たとえ目に見えずとも、だれかが革命を夢見続けている限り、その夢を見させている現実として、権力は存在し続けなければならない。主体によって構成される幻想は、反対に、主体のありようを規定することもできるのだ。絶望的な状況を描く『パラサイト』に隠されたポジティブな可能性は、実はこの逆説にこそかかっている。即ち、対決から想像へ、見ることから夢見ることへの以降のうちに。
革命が持たざる者の抱く幻想に過ぎないとしても、いやそうであればこそ、その幻想は主体を“想像可能なもの”として捉え得る。ばかげた妄想、まっさらに透き通った夢だけが、偽りの透明性を傷つけ、清潔な衣を汚す武器になるのだ。汚すことはこの場合、色付けることでもある。夢は遥か遠くにある現実を色付け、見える姿に変える。権力が不可視のものであり続けようとする傲慢を打ち砕くのだ。言い換えれば、『パラサイト』の成果は、『グエムル』の世界にあっていささかの傷や汚れも受け付けなかった黄色いクレーン、それが放射する権力のガスに、透明な汽体をもって対抗する手段を付け加えたところにある。汽体は、透き通れば透き通るほど、目に見えぬにおいを引き連れて地上へと到達する。半地下のスメル、煙草の煙、そしてひたむきな想像力こそは、ドクター・イエローやキム一家が住む世界を“浄化”するガス、あの抑圧の霧を晴らすための、透明な霧なのである。
こうして幻想によって再構成され、夢に寄り添って変容した現実が、陰惨なものであっていいはずがない。いつまでも同士討ちをさせられていたのでは割に合わない。思い出そう。コロシアムの二重性を。そのもうひとつの側面、ポジティブな現実変革の可能性を。今こそわれわれは、透き通った夢が結晶するコロシアムに、革命の舞台としての栄光を取り戻さねばならないだろう。夢見る道があきらめられない限り、バトンリレーが途切れることはない。殺戮を祝祭に変える可能性は、いつまでも残され続けるのだから。
従って、ファミリーRの最終目標とは、権力を打ち倒すことではない。見果てぬ革命の可能性、われわれの真の戦いは、陰惨なコロシアムをくぐり抜けたその先、共食いを描き続ける作家ポン・ジュノを打倒することのうちにかかっているのだ。
不可能な達成の瞬間に向かって、この勇敢なシーシュポスは、幾度も転落する岩を頂上へと運び続けるだろう。いつか使命から解き放たれる、そんな未来を夢見て。

<後書き>

以上、ファミリーR、地上と地下、革命幻想、コロシアム、聖書の象徴性、抑圧の霧に対抗する透明な霧といった観点から『グエムル』を読み解きつつ、『パラサイト』の物語構造との比較を試みてきた。さらに後段では一歩進んで、“コロシアムの建築家ポン・ジュノ”という作家的な主題を取り出し、その現代的な意義について検証した。
とはいえ、現段階において、本文は作家論としては不充分であると言わざるを得ない。なぜなら、筆者は『パラサイト』に続いて『グエムル』を観賞した時点で、勢い余ってこの文章を書き始めてしまったからだ!作家像を語るもなにも、二作しか見ちゃあいない。(あ、オムニバス作品『TOKYO!』に入ってた短編も見た。なんだかところてんのように味がしなかった記憶があるが、改めてまた見返したい)
従って、『グエムル』と『パラサイト』の二作に共通するテーマを救い取り、さまざまな角度から分析を加えた点に本文の意義を見出すことは妥当であるにしても、その成果をポン・ジュノ作品全体にまで拡大するには無理があろう。
そこで、筆者に課される今後の課題は、彼が手がけたすべての作品をつぶさに観察することによって、『パラサイト』論と『グエムル』論中で確認した様々なテーマについて再度検討を行い、“コロシアムの建築家”という作家的な主題が真にポン・ジュノ作品全体を支配するものであると言えるかを確認することだろう。この点に関して予断は避けたいが、しかし、既に奇妙な確信が芽生えていることだけは告白しておく。
ポン・ジュノが追い求め続ける革命の理想が、過去作を遡る筆者の中で、来たるべき新作と出会うわれわれの中で、今後どのような広がりを見せていくのか。稀代の映画作家のさらなる活躍を期待しつつ、筆を置くことにする。


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