神棚

知りたい日本料理4―簡浄

2006年5月26日 (金)

<簡浄をもって最上とす>

例えばのお話を一つしましょう―。

ここに、なんのへんてつも無い、白木でつくった箸があるとします。

また一方に、有名な産地で作られ、漆を塗り重ねた大変に美しく、高価な箸があるとしますね。

この二膳の箸、値段の差は一目瞭然なのですが、それはさておき、いったいどちらのほうの「格」が「上」になるでしょうか?

―答えは、シンプルな白木の箸のほうが「格上」となります。

日本では、古来より「簡素で清浄」ということが最も尊いといわれてきました。

そのため、器なら素焼きか白釉薬の土器(かわらけ)、箸も膳も白木のもの、これらが神様や、身分の高い人たちの使うものとされてきたのです。

すなわち、神様へのお供えには白木の箸と三宝を使うけれども、塗り箸や塗り盆は、例えどんなに高価なものでも、神様へのお供えに使うことはない、ということですね。

(塗り箸が一般に出回ったのは、江戸時代といわれています)

では、なぜこんなシンプルなものが「格上」とされたのでしょうか?

理由は、単純に言ってしまうと「新しい=清い」ということにあります。

白木や素焼きのものは一度使うと痕跡が残るため、「不浄」だとして使い終わったものはすべて壊して処分しました。

そのため、毎回新しいものを用意して、まっさらのものを使ってもらうということは、

「貴方様の前に、これらを使った人はいませんから清浄ですよ」

という証になり、

「貴方様のためにすべて新しい物をご用意しておもてなししますよ」

という気持ちの現れであったのです。

古代に封建制度が始まって以来、日本はずっと階級社会でした。

上は天皇から下は奴婢に至るまで、細かい身分制度とそれにまつわるきまり事が多くあったわけですが、身の周りの調度類、食器などについても、それぞれの身分に応じて厳格なきまりがありました。

その中で、白木のものを使えるのは、神様と天皇の一族、そして宮中の一部の大貴族のみであったそうです。

私たちが普通に考えると、身分が高くなるにつれて、高価な材料や美しい飾りをふんだんに使った豪華な食器類で食事をしていたのではないかと思いますが、実際は位が上がれば上がるほど、簡素なものを使っていたようです。

これは、すべて「簡浄をもって最上とし」てきたことからくるわけですね。

神前に供える神酒の瓶や供物の器は、素焼きに白い釉薬をかけただけものですし、お参りをして神酒をいただく時の杯も、おなじような焼き物です。

結婚式の親族固めの杯などでもつかうこの杯は、現在でも「かわらけ」と呼ばれ、本来は飲み干した後に下へ投げ打って割っていました。

めでたい結婚は一度きり、二度はないように、という意味だったといわれています。

食器を載せる台も、白木のものが最上であり、削らずにそいでつくる片木板(へぎいた)でできた「折敷」(おしき)、それに台をつけた「衝重」(ついがさね・つきがさね)が作られました。

台の面に眼象(あな)をあけたものは「四方」「三方」、あいていないものは「供餐」(くぎょう)とよばれて用いられたのですが、現在でも、神棚に供物を捧げたり、正月に鏡餅を乗せたりする「三宝」(三方)は、この一つにあたります。

時代が下って、茶の湯の文化が盛んになると、懐石料理のなかにもこの「簡浄」という考え方が入ってきます。

千利休が考案したと言う「利久箸」は、赤杉の白木を削って作る、大変シンプルな美しい箸ですが、もともとは茶席の予定がたつと、亭主が客のことを考えながら一膳一膳手で削って作ったものだったそうです。

あの方この方を思い浮かべながら、少しずつ削って箸を作っていくことが、すでに「もてなし」の第一歩だったというわけですね。

客の方もそれを心得ていて、茶席の帰りには必ず箸を持ち帰り、茶席の名などを記して手元に置き、記念としたという話を聞いたことがあります。

「シンプル イズ ベスト」この言葉がひろまるよりもずっとずっと昔から、日本人の中では「簡素で清浄なことが1番!」だったというわけですね―。

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