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ヴァルハラ

1 ヴァルハラ

「それ絶対ネカマだって」
 クラスメイトの恭介は楽しそうにそうにいった。
「それにしてもおまえ、ゴールデンウィーク中なにやってたの?」
 なにをやってたもなにも、遊ぼうっていうから家族旅行の予定を蹴って空けといたのに、「彼女とデートするから」っていきなりキャンセルしてきたのはおまえじゃないか。
 おかげで僕は、中学校生活最後のゴールデンウィークを毎日ネットゲーム三昧で過ごすことになった。
 四年前に発売になった脳波によるゲームコントロールデバイス、通称ニューロピックの登場で、ゲームの世界は一変した。
 ミサイルを発射するとか、銃を撃つとかいうくらいならいいけど、もっと複雑な行動をしようとすると、どうやったってボタンやスティックじゃ不十分だ。
 たとえばMMORPG多人数同時参加型オンラインRPGで、仲間に指示を出しながら走り回りつつ弓で敵を撃つなんて、ボタンやスティックじゃ絶対に出来ない。昔の人はあんなコントローラーでよく我慢していたと思う。
 その点ニューロピックを使えばゲームの中に完璧に入り込めるから、なにをするのも思いのままだ。もっともそれにも慣れが必要で、上手い下手が存在するのは昔のゲームとなにも変わらないけど。
  僕はこのニューロピックを使ったMMORPGがかなり上手い。ニューロピック発売と同時に運営が開始された、『アナザーアース・ファンタジー』というゲームの世界ではかなりのレベルで、僕のキャラは誰もがパーティーを組みたがるほどの強さになっていた。その僕がゴールデンウィークに連日登場したものだから、フィールドでも、町でも、僕は始終話しかけられ、チャットには多くの人が参加してきた。
  中には、「帰れ、黄金週間厨!」とか、「いいよな、無職」とかいってくる人もいたけど、そいつらのことは無視しておいた。僕は中三だから「厨」はあってるけど「無職」はあってない、なんてことをいっても始まらないから。ただそいつらが失敗したミッションをすぐあとにクリアして、実力の違いを見せつけてやったりはしたけど。
 そしてゴールデンウィーク終了まであと三日となったとき、僕の前に彼女が現れた。
 彼女はヴァルハラと名乗った。北欧神話に出てくる戦争の神、オーディンの神殿の名前だ。
 RPGをやってると、神話には結構詳しくなる。こういう問題が高校入試で出てくれればいいのに、残念ながら過去問のどこを見てもそんな問題が出題されたことはない。
 剣士である僕はその日、酒場で知り合った僧侶、魔導師、武闘家を連れて、エリア内最高の難所、テトリアの魔窟に挑んでいた。僧侶が酒場に来ることに関しては、ゲームの世界では問題ないらしい。
 地下九階まで続くそのダンジョンの最深部にある「喚魂かんこんの珠」を持ち帰れば、命を抜かれてしまった村の人たちを助けられるという話だ。僕らのパーティーはその珠を狙って、ダンジョンに進入した。
 一階から三階くらいまでは、薬草や回復魔法のお世話になることもなくサクサクと進んだ。ゾンビやウェアウルフなんて、いまの僕にはレベル上げにもならないただの雑魚だ。
 そのあと八階までは、敵もトラップも手強かった。アイテム「キタキツネの声」がなかったら、地下水脈を凍らせて渡ることは出来なかっただろう。僕らは、何度か死んだり回復したりを繰り返して各階の中ボスを倒し、地下九階の悔恨の間にたどり着いた。
 ここまで、連続三時間。途中で一時停止なんて出来ないから、このダンジョンの制作者は、「一時間に十五分の休憩を入れましょう」というゲーム業界のお題目は無視することにしているらしい。
 ラスボスは、悔恨の王。それが変身して、憂悶の竜。さらに変身して、天辱の王。これに三体のサーバントがついてるからとんでもなく強い。僧侶はほとんど攻撃に参加せず、回復魔法を唱えっぱなしだ。
 十分以上にわたる激闘の末、僕らはラスボスを倒した。
「喚魂の珠」を台座から取り外すと、溢れ出す光が僕らのHPとMPを全回復してくれた。この辺は、お約束だ。
 僕らは脱出の呪文を唱え、さっさと地上に戻ろうとした。ところが、呪文を唱えてもなにも起こらない。
 脱出呪文が効かないダンジョンはめずらしくないけど、ここはそうじゃないはずだ。以前このダンジョンに挑んだことがあるという武闘家は、地下九階から呪文で戻ることが出来たといっていた。

フェアトリー(剣士):『おい、呪文効かないぞ』

 会話は音声ではなく、各キャラクターの頭の上に吹き出しが出る。ニューロピックを使えば音声による会話も簡単に出来るけど、そうすると途端に喧嘩が多くなる。実際、ユーザー同士の衝突があまりに多すぎて閉鎖に追い込まれたMMORPGも結構ある。

イブシギン(武闘家):『おかしい、前来たときはすぐ帰れたのに』
オロロ(僧侶):『やられて帰ったんじゃないの?』
イブシギン(武闘家):『いいや。消耗していたから、九階に降りただけで帰ったんだ』
フーディー(魔導師):『死してなお魔術を封じるとは、こしゃくな奴よのう(-.-)y-~~』

 僕らがそんな会話をしているところへ、後ろから鎖を鳴らすような音が聞こえた。
 僕は振り返って、音のする方を見た。
 そこには、悔恨の間の入り口を塞ぐように、一目で魔法使いとわかるキャラクターが手に杖を持って立っていた。杖には金属製の蛇が一匹巻き付けられている。
 この世界のキャラクターは、頭の後ろに生えている小さな羽の色で人間側のキャラクターなのか、魔族側のキャラクターなのかがわかるようになっている。キャラクターの種族がなんであろうと、どちらかの側につくことが可能だ。そして羽の色が赤いこいつは、魔族側の人間だ。
 しかもその羽が小刻みに羽ばたいている様子は、いつでもバトル突入OKということを表している。
 頭の上にヴァルハラという名前が浮かび上がっている魔法使いに、イブシギンが話しかけた。

イブシギン(武闘家):『我々の魔法を封じたのはおまえか』
ヴァルハラ(魔法使い):『………』
イブシギン(武闘家):『天辱の王は我々が倒した。おとなしく道を開けてもらおう』
ヴァルハラ(魔法使い):『………』

 いろんな人がいるけど、話しかけられてなにもいわないのは、敵側であってもあまりいいことじゃない。
 魔法使いを横目で見ながら、僕は袋からアイテム「徴蛾しるしがの鱗粉」を取り出して周囲に振った。
 案の定、部屋の床一面に梵字で記された魔封じの結界が浮かび上がった。僕らの魔法がかき消されたのは、この結界のせいだ。

イブシギン(武闘家):『開けぬなら、力尽くで開けるまで』

 イブシギンが距離を詰めた。
 どういうつもりか知らないけど、結界張っちゃってるから自分の魔法も使えないはずだ。魔法を使えない魔法使いなんて、荷物持ちくらいにしか使えない。
 もし結界がなかったとしても、魔法使いが得意なのは遠距離からの攻撃、武闘家が得意なのは至近距離での格闘戦だ。魔法使いが呪文を唱えている間に懐に入り込めば、武闘家はコンボで呪文を封じながら攻撃を続けることが出来る。
 実際には、魔法使いを操作する人はメニューから魔法を選ぶだけなんだけど、その魔法が発動するまでには呪文の詠唱時間が必要で、強力な魔法ほど詠唱時間が長い設定になっている。レベルアップするとこの詠唱時間は短くなっていくから、レベルの高い魔法使いや魔導師は初級魔法なら連続で発動することが出来る。
 でもいまのイブシギンには、初級魔法なんて通じない。かなりハイレベルの魔法でないと、ダメージは与えられないだろう。そのための長い詠唱に入ったら、イブシギンは間合いを詰めて連続攻撃に入れる。ほとんど武器を装備出来ない武闘家は、攻撃のスピードがどんなジョブよりも速い。
 攻撃を受けると呪文の詠唱はキャンセルされるから、また最初から詠唱を始めなくちゃならない。だから魔法使いの単独行動は危険なんだ。

イブシギン(武闘家):『参る!』

 イブシギンも余裕をかまして、わざわざ宣言してから近づいていった。
 魔法使いが呪文の詠唱に入った。無駄なのに。
 胸の前で横一文字に構えられた杖が、じゃらりと音を立てる。
 イブシギンの身体が沈み、突き上げた拳とともに伸び上がった。
 魔法使いの身体は宙に浮いたまま、キックやパンチのコンボを喰らって終わりだ。
 ところが、宙に浮いたのはイブシギンの方だった。
 魔法使いの周囲から飛び出した炎が真正面からイブシギンをとらえ、背後の壁に叩きつけられた。
 なんだ、あれ?
 あんな魔法、見たことないぞ。それに結界があるのにどうして魔法が使えるんだ?
 イブシギンの頭の羽はすっかり萎れてしまっている。これはHPがゼロになって、死んでしまったことを表している。マニュアル上では「行動不能」と表現されているけど、誰もそんな言葉は使わない。

オロロ(僧侶):『イブシギン、死んじゃった』
フーディー(魔導師):『回復してやれい』

 オロロが蘇生呪文を唱えた。
 ところがイブシギンはぴくりとも動かない。やっぱり結界は効いている。
 死んでから五分以上復活させてもらえずにいると、そのキャラクターは「行動不能」よりさらに一段進んだ「回復不能」になる。僕らはそれを、「完全死」と呼んでいる。
 完全死になったキャラクターは、誰かに教会で招魂しょうこんの儀をしてもらわないとゲームに復帰できない。
 地下九階まで降りてくる間に蘇生アイテムを使い果たしてしまった僕らがイブシギンを蘇らせるには、敵を倒して結界を破り、再び魔法を使えるようにしなければならない。
 僕らはすぐに戦闘態勢を整えた。剣士である僕が先頭、その陰に隠れるようにして魔導師、さらに後方に僧侶が並ぶ。このゲームでは誰でも知ってる基本の陣形だ。
 フーディーがアイテム「火竜の卵」を投げつける。
 それに合わせて僕が踏み込む。
 何時間も一緒にプレイしているから、タイミングは完璧だ。
 ところが、剣を振り下ろした僕の周囲で踊り狂うはずの炎が上がらない。
 魔法使いは杖で僕の剣を受ける。
 飛び退いて見ると、割れた「火竜の卵」の殻のそばに、もうひとつ色違いの卵の殻が落ちている。波打つ青い模様の入ったそれは、アイテム「水竜の卵」の殻だ。
 この魔法使いは、フーディーが放った「火竜の卵」に「水竜の卵」をぶつけて、対消滅させてしまったのだ。
 その上で、僕の剣を受けた。とんでもない早業だ。
 僕は必死で剣を振るった。
 魔法使いは器用に僕の剣をかいくぐる。踊るように部屋の中を回って、まずオロロを、続いてフーディーを、杖で打ち倒していった。
 ちょっと待て、こんなに強い奴がいるなんて、聞いたことないぞ。
 いくら地下に潜っていたとしたって、ここまで強くなるには相当戦ってこなくちゃいけなかったはずだ。その過程で噂になるだろう。
 ましてや僕はこの世界では名の知れたプレイヤーなんだから、周りの人だって引きあわせようとするはずだ。
 なのに、こんな馬鹿みたいに強い魔法使いの話は聞いたことがない。
 僕は魔法使いと一対一で向かい合った。
 上段の構えのまま、じりじりと相手に迫る。ここから真っ直ぐに振り下ろしてもよし、フェイントで横から薙いでもよし。このアクションで、僕はたくさんの強敵を倒してきた。
 魔法使いは杖を片手に持ったまま、無防備にこちらに歩き始めた。
 どういうつもりだ。
 今さら停戦なんて、受け入れないぞ。
 僕は一息に振り下ろした。
 ところが、魔法使いはあっさりとその一太刀を受け流した。
 僕は連続で切り込む。
 どれも、軽く杖でいなされてしまう。
 現実世界でこんなことしたら、とっくにスタミナ切れてるよなあ。
 そんなことを思った瞬間、魔法使いが杖を振るった。
 僕の身体は横様に倒れ、剣が床を滑った。
 とどめを刺す間際、魔法使いはいった。

ヴァルハラ(魔法使い):『なかなか強いじゃない。縁があったら、また会いましょう。私は、ヴァルハラ』

 次の瞬間、僕の視界は真っ暗になった。


2 フェアトリー

フェアトリー(剣士):『誰かもう復活した人いる?』
オロロ(僧侶):『復活したよ』
フェアトリー(剣士):『じゃあ僕もお願い』
オロロ(僧侶):『あいあい』

 こんな調子で、僕らはチャットルーム、正式名称「魂の間」、通称「負け犬の部屋」からゲームの世界へと復活した。
 教会から酒場に入って、ひとつのテーブルに着いて話し合う。

オロロ(僧侶):『あー!生きて戻ってないからダンジョンクリアしたことになってない!』
イブシギン(武闘家):『まじか!』
フェアトリー(剣士):『おい、あれなんだよ。もしかしてあれがほんとのラスボス?』
フーディー(魔導師):『いや、そうではあるまい。確かにあれはPCじゃった』

 PCというのはプレイヤーキャラクターのことで、人間が操作しているキャラのことだ。人間が操作していないキャラはノンプレイヤーキャラクター、略してNPC。モンスターもNPCの一種ではあるけど、普通はそのままモンスターという。

オロロ(僧侶):『でもあれはやばい。セイント強過ぎる』
イブシギン(武闘家):『不覚であった』
フェアトリー(剣士):『不覚っていうかさ、あれはないって。ステータス異常だよ』
オロロ(僧侶):『チートかな?』
イブシギン(武闘家):『だとしたら、運営が黙っておらんぞ』
オロロ(僧侶):『違反者はけーん?』
フーディー(魔導師):『いや、そうではあるまい』
オロロ(僧侶):『え?』
イブシギン(武闘家):『なに?』
フェアトリー(剣士):『なにが?』
フーディー(魔導師):『何年かに一度、魔王の力を宿した杖がこの世界に現れると聞く。その杖を手にしたものは、世界を総べることが出来るそうじゃ』
フェアトリー(剣士):『マジで?』
フーディー(魔導師):『いや、うそσ(^◇^;)』
オロロ(僧侶):『このゲーム、ベータ版含めてもまだ四年にしかならないし』
イブシギン(武闘家):『実生活では、詐欺に注意されよ』
フェアトリー(剣士):『勉強になります!』
オロロ(僧侶):『あはは、じゃあ、私そろそろ落ちるね』
イブシギン(武闘家):『俺も落ちる』
フーディー(魔導師):『儂もじゃ。明日は仕事なのでのう』
フェアトリー(剣士):『ゴールデンウィークなのに?』
フーディー(魔導師):『すべての社会人が暦通りに休めると思われるな、お若いの』
フェアトリー(剣士):『おつかれさまです!』
オロロ(僧侶):『次入ったときは、掲示板にフラグ立てとくからよろしく』

 僕は仲間達——といっても、本名も年齢も知らないけど——と別れて、ニューロピックを外した。
 あんなに強いやつがいるなんて、あり得ない。オープン直後から続けている僕が手も足も出ないなんて。
 チートなら仕方ないけど、もしそうでないなら、いったいどうやってあんな動きが出来るのか訊いてみたかった。
 翌日、僕は両親が不在なのをいいことに朝からまたあのダンジョンに向かった。掲示板で確認すると、昨日のメンバーはみんなまだログインしていなかったから、また新しい仲間を募っての挑戦だ。
 雑魚を倒し、トラップを抜け、地下九階で天辱の王と再び対戦。向こうの出方がわかっている分だけ、前回よりも倒すのが楽だ。
「喚魂の珠」を手に入れ、辺りを見回す。
 ところが、あの魔法使いが現れない。
 新たなパーティーメンバーには、「全滅覚悟!」といっておいたから、僕としては立場がない。脱出魔法もあっさり効いて、僕らは地上に戻ってきた。
 相手はPCなんだから、いつまでも同じところにいるとは限らないけど、僕はちょっとがっかりした。
 そのまま仲間たちと村に向かって、村人たちを甦らせ、長く豪華な感謝の式典に参加した。
 そしてその夜、イブシギン、オロロ、フーディーがログインするのを待って、僕はもう一度そのダンジョンに挑んだ。もうそこにヴァルハラはいないことはわかっていたけど、僕だけダンジョンをクリアしちゃったままなのは悪いと思ったからだ。
 倒されたはずの天辱の王は、下僕たちが別の村の人たちから抜き取った魂を集めて復活させたことになっている。

フェアトリー(剣士):『今朝、一度ここに来たんだけど、あの魔法使いいなかったよ』
オロロ(僧侶):『やっぱり、間違いなくPCだよね』
フーディー(魔導師):『場所を移してしまったようじゃのぅ』
イブシギン(武闘家):『奴とは、いずれまた闘う日が来るであろう』
オロロ(僧侶):『来なくていい、そんな日は!(;o;)』

 そのアタックでも僕らのパーティーは天辱の王を倒し、また呪文で地上に帰ってきた。
 僕はダンジョンの入り口で仲間に別れを告げると——またあの長い式典に参加させられるのはごめんだった——、しばらくそこらをうろついた。
 そして、一人で森を歩いているとき、木陰から突然ヴァルハラが顔を出した。
 頭の後ろの羽は動いていない。戦う意志はないようだ。

フェアトリー(剣士):『こんにちは』

 このゲーム内の時間はグリニッジ標準時に合わせられているから、日本が夜でもここは昼過ぎだ。

ヴァルハラ(魔法使い):『こんにちは』

 よかった。僕は内心、また無視されて戦闘モードに突入なんてことになったらどうしようかと思っていたのだ。
 四人いたって勝てなかったんだから、一人だったら秒殺どころか瞬殺だ。

フェアトリー(剣士):『今日はダンジョンにいなかったね』
ヴァルハラ(魔法使い):『いたわよ』
フェアトリー(剣士):『ほんと?僕、今日二回もダンジョンクリアしたのに』
ヴァルハラ(魔法使い):『いたわよ。あなたの邪魔をしなかっただけ』
フェアトリー(剣士):『僕の?』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう。何度も同じところで倒されてたら、やる気がなくなっちゃうでしょう』

 その言葉からは、絶対的な自信が読み取れる。

ヴァルハラ(魔法使い):『それに、同じところには何度も現れないことにしているの』
フェアトリー(剣士):『どうして?』
ヴァルハラ(魔法使い):『その方が、神秘的でしょう』
フェアトリー(剣士):『そんな人が、どうしていま僕の前に現れたの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『理由はないわ。でも一度クリアした場所に同じ仲間が揃うのを待ってもう一度アタックするなんて、めずらしいと思ったからではあるわね』

 自分以外はNPCである一人用RPGと違って、MMORPGでは普通、ログインするごとにパーティーを組む相手が違う。いつも同じメンツが同じ時間にログインしているとは限らないからだ。

ヴァルハラ(魔法使い):『律儀なのかしら』
フェアトリー(剣士):『まあ、そんなとこかな』

 僕は小学生の時からバスケをやってるから、仲間を大事にするというのが染みついてしまっている。昨日一緒に全滅した仲間を置いて一人で先に進むのは、ちょっと後ろめたい感じがして気が引けたのだ。

フェアトリー(剣士):『ところで、なんでそんなに強いの?PCで僕が歯が立たない相手がいるなんて、思いもしなかった』
ヴァルハラ(魔法使い):『私はうまいのよ』
フェアトリー(剣士):『僕もうまい方なんだけどなあ』

 僕は三ヶ月前のワン・オン・ワン・トーナメントでベストテンに残った腕前だ。つまり、この世界では十指に入る強さということになる。

フェアトリー(剣士):『それに、そんなに強いのに君の噂を聞いたことがない。いままでどこにいたの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『ずっとここにいたわよ』

 ヴァルハラは唐突に、僕にテントウムシの形をしたブローチを差し出した。アイテム「虫の知らせ」だ。これをやりとりした者同士は遠く離れていても会話をすることが出来る。
 実際のところ、こいつはプレイヤーのパーソナルデータが入ったアドレスカードのようなもので、メールアドレスとか、SNSへの招待状とか、ホームページのアドレスが書かれていたりもする。
 僕も袋から「虫の知らせ」を取り出して渡した。

ヴァルハラ(魔法使い):『じゃあ、またいつか会いましょう』

 彼女は姿を消した。
 まだ訊きたいことがたくさんあったのに。
 僕は「虫の知らせ」を使って、彼女のパーソナルデータを表示させた。

『ハンドルネーム:ヴァルハラ
 種族:人間
 ジョブ:魔法使い
 レベル:XXX
 性別:女
 属性:魔族』

 他はよしとして、レベルがXXXって、なんだ?
 このゲームではレベルの上限が明らかにされていないけど、僕のレベルがいま三十二だ。強さからいってそれより遙かに上なのはわかるけど、XXXってやっぱりチートじゃないのか?
 本当の名前や、メールアドレスや、顔写真は入っていなかった。まあそんなものが入っていたとしても、どこまで本当かわかったものじゃないけど。


3 幹人

「僕もそう思うんだけどさ、でも妙に女の子っぽいんだよ」
 僕は恭介にいった。
「なんていうか、微妙な感じが」
「女の子の微妙なところがおまえにわかると、そういいたいわけ?」
 恭介はいやらしい笑いを浮かべた。
「いや、そうじゃないけどさ」
 はっきりいって、そんなこと僕にはわからない。僕には彼女だっていないし、いまのところ女の子と遊ぶよりも男友達と一緒にいる方が気楽だし楽しい。
 ただそう思っている男友達は年々減っていくようで、恭介にも少し前から彼女がいる。
「おおい、祐子、ちょっと」
 恭介は教室の向こうにいる祐子を大声で呼んだ。祐子は僕らの幼なじみで、僕と恭介の共通見解として、女の子という範疇に入らない。
 祐子は小走りにやって来て、恭介の隣に座った。
「なあに?」
「聞いてくれ、我らが幹人みきと君が微妙な女心のわかるお年頃になったと宣言してるんだ」
「そんなことはひと言もいってないよ」
 恭介が事実を歪めて伝えるのはいつものことだ。一度など、僕が心臓発作で倒れたおばあさんをAEDで助け、自転車で病院まで送り届けたことになっていたことがある。本当は道を教えてあげただけなのに、なにをどうしたらそうなるんだか。
「やだ、ちょっと、ゴールデンウィーク中になにがあったの?」
 祐子は下に三人も弟がいるから、いつもお姉さんぶっている。特に僕に対しては。
「幹ちゃんったら、わたしそんな子に育てた覚えないわよ」
「祐子に育てられてないだろ」
「小学校でお漏らししたとき、一緒に保健室まで行ってあげたじゃない」
 人には触れて欲しくない過去があるのに。細やかさこそが女心だというなら、少なくとも僕の方がこいつより女心がわかってると思う。
「まあまあ、そんな幹人も成長して女の子を襲うまでになったんだから許してやれよ」
「幹ちゃん!」
「襲ってない!」
 むしろ返り討ちにされて、パーティーもろともフルボッコにされた顛末を、僕は改めて祐子に説明した。
「それは、ネカマじゃない?」
 チャットやSNSで女性を自称している人のうち半分は男、つまりはネットオカマだという。MMORPGの世界でも、それは変わらない。
「そのアナザーなんたらは文字だけで会話するんでしょう?いくらでもかたれるわよ」
「そうだよなあ、俺もやったことあるし」
 恭介が深くうなずく。
「ネカマしてたの?」と祐子。
「いや、女の子っぽい字で手紙書いて、先輩のロッカーに入れといた」
「木下先輩?」
「うん」
「去年のバレンタイン?」
「うん」
「あれ、あんただったの?」
「うん」
 恭介は得意そうに胸を張る。
 木下先輩というのは僕らのひとつ上で、バスケ部で威張り散らしていた嫌な先輩だ。たいしてうまくもないのに。
「もし付き合ってる人がいないなら、先輩にチョコを渡したいです。明日の放課後、屋上に来てください」
 恭介は気持ちの悪い声でいった。
「まさか鍵ぶち壊してまで屋上に上がるとは思わなかったよなあ」
 そのあと、木下先輩は物音を聞きつけた先生に職員室に連れて行かれた。怒られている間も、「屋上に行かないと」としきりに気にしていたらしい。
「わたしはネカマの可能性が高いと思うけどね、もし女の子だったとして、幹ちゃんはどうしたいの?」
「どうしたいって?」
 僕は別にどうしたいなんていう相談をしてたわけじゃない。ただこういうことがあったと、恭介に話をしていただけだ。
「性別が女でも、女の子って保証はないのよね。どうする、すっごいおばさんだったら?」
「いいんじゃないか、幹人は甘えん坊だし」
「ちょっと待ってよ。僕は甘えん坊でもないし、その子をどうしたいなんて話もまったくしてない」
 僕はいろんな点を強く否定した。
「そうなの?」
「そうだよ。恭介が勝手に話を発展させてるんだ」
「なあんだ、つまんない」
 つまんなかろうがなんだろうが、こっちはいい迷惑だ。それも、いつものことだけど。
「でもひとつ、俺たちは大事なことを忘れてるぞ」
 恭介は真剣な顔で、僕と祐子の顔を見比べた。
「幹人がお漏らしをしたのが、何年生の時だったかってことだ」
「ああ、それなら四年…」平然とばらす祐子。
「うわああ!」叫ぶ僕。
「おまえ、四年生でお漏らしはまずいって」
 恭介が真剣な顔をすると、ろくなことがない。


4 理由

 そのあとしばらくは、僕はヴァルハラに会うことはおろか、「アナザーアース」に入ることもなかった。中間テスト期間に突入したからだ。
 定期テストで良い成績を取っておかないと、内申点に響いて高校入試で不利になる。今年の夏は夏期講習にも参加する予定だ。
 僕はゲームは好きだけど、現実の高校入試と引き替えにするほど馬鹿じゃないし、遊んでいても志望校に入れるほど頭が良くもない。
 だからしばらくぶりに、再び「アナザーアース」にログインしたときには、熱烈な歓迎と挑発のメッセージを受けた。このメッセージは、ゲーム内の僕の家に手紙という形で届けられる。

「おかえり」(差出人:ウグル)
「神降臨!」(差出人:TWO辺朴)
「おまえの時代は終わった」(差出人:不明)
「助力求ム。入江ノ護リヲ倒セズ。断崖ノ村デ待ツ」(差出人:シノノメ)

 その中に、彼女からの手紙はなかった。
 僕は「虫の知らせ」の中にアドレスを書いておいたから、彼女がその気になれば僕に手紙を送ることは出来るはずだけど、彼女のアドレスは書かれていなかったから、僕から彼女に送ることは出来ない。
 僕は町でいくつかのアイテムを買ったり、進行中のイベントを確認したり、情報収集をしたりしてからフィールドに出た。
 町を守る大きな門を抜けると荒野が広がっている。その荒野をしばらく行くと、海に出る。
 僕は海岸まで出てから、「虫の知らせ」を使った。

フェアトリー(剣士):『ヴァルハラ、ログインしてる?』
ヴァルハラ(魔法使い):『してるわよ』
フェアトリー(剣士):『久しぶり。君のこと、すっかり噂になってるね』
ヴァルハラ(魔法使い):『あなたと一緒にいた人たちが、たくさん話してくれたみたいだから』
フェアトリー(剣士):『彼らとは会ってるの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『いいえ、最初に天辱の王を倒しに来たときに会っただけよ。「虫の知らせ」を交換したのも、あの中ではあなただけ。他にも、ごく少数の人間しかいない』

 僕はちょっと、得意になった。
 じゃあ僕は、町中で噂になっている魔法使いと直接話が出来る数少ない人間なんだ。唯一の人間ではないのが、ちょっぴり残念だったけど。

フェアトリー(剣士):『君と戦ったとき、君は結界の中でも魔法が使えてたみたいだけど、どうやったのか教えてもらえる?』
ヴァルハラ(魔法使い):『解除と生成を素早く行っただけよ』
フェアトリー(剣士):『そんな馬鹿な』

 その結界を作った本人であれば、解除は一瞬で出来る。だけど生成には何秒かかかるのが普通だ。

ヴァルハラ(魔法使い):『本当よ、見せてあげましょうか』
フェアトリー(剣士):『うん、見に行くよ。どこにいるの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『あなたの後ろ』

 振り向くと、ヴァルハラがいた。
 この前会ったときと同じ、黒いローブに蛇の這う杖といういでたちだ。
 いつの間に、と僕がいうより早く、彼女はアイテム「徴蛾しるしがの鱗粉」を撒いた。
 彼女が杖を振るうと、砂浜に梵字が浮かんでは消える。

ヴァルハラ(魔法使い):『ね、いったでしょう』

 あっけにとられている僕に、ヴァルハラはいった。

ヴァルハラ(魔法使い):『自分が魔法を使うときだけ、瞬間的に結界を解除するの』
フェアトリー(剣士):『でもそれって、チートじゃないの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『あなたたちの言い方に従えば、チートよ』

 僕はちょっとむっとした。誰の言い方をしたって、ずるをしていることに変わりはない。

フェアトリー(剣士):『通報されたら、アカウント削除されちゃうよ』
ヴァルハラ(魔法使い):『されないわ。それに私には立派な理由があるから』
フェアトリー(剣士):『理由って?』
ヴァルハラ(魔法使い):『この世界の存続』

 じゃあ彼女は、運営側の人間で、キャラクターとしてこの世界を回りながらいろんな部分の調整をしているのかな。
 僕はその疑問をぶつけてみた。

ヴァルハラ(魔法使い):『そうともいえるし、そうでないともいえる』

 この辺を曖昧にしておくあたりは、ゲームの雰囲気をぶち壊さない演出だ。

ヴァルハラ(魔法使い):『じゃあ、私は行くから』

 そういうと彼女は、文字通り消えてしまった。
 現れたときも、同じようにしたに違いない。
 運営側ではあんなことも出来るのか、と僕は思った。
 確かに徒歩や馬車で世界中を見てまわるのは、とても時間がかかる。ミッションをクリアするのが目的ではなく、各所のチェックが目的だとしたら、これくらい出来ないと不便だろう。
 僕はてくてくと、歩いて町に戻った。


5 世界の存続

「ちょっと、女かなって思ってきた」
 祐子が僕の机の上に座りながらいった。
「どうして?」
「女は神秘的で、気まぐれなものなのよ」
 その両方が女の条件だとしたら、二つ目の条件しか満たしていない祐子は半分しか女じゃないことになる。
 そういったら、真正面から首を絞められた。
「祐子に挑むなんて、おまえ無謀な奴だな」
 僕が机を叩いてギブアップする音を聞きつけて、恭介がやって来た。
「ゲームの中じゃ強いのかも知れないけど、現実世界ではおまえはスライム以下なんだから、祐子に挑むな」
「私はなに?勇者?」
「いや、大魔王」
 その直後、恭介も祐子の前ではスライム以下であることが判明した。
「とにかく、あんまりそういう世界に入り浸ってると、現実見失うわよ」
 小説や映画が好きな人はそんなこといわれないのに、ゲームが好きというと途端に変な目で見られるのはなぜだろう。ユーザーの数からいって、かなりの割合でゲーム好きはいると思うんだけど。
「ただの趣味だよ。現実逃避してるわけじゃない」
「ならいいけど」
「じゃあさ、今度俺たちも一緒にそいつに会ってやろうか」と、恭介。「そうすれば、根掘り葉掘り聞き出して、本当に女かどうか暴いてやるよ」
「あ、それいい」
 祐子が目を輝かせる。
 僕は一度もヴァルハラが女かどうか暴いてくれなんていってない。
「でも、お金かかるんじゃないの?」
「いや、ゲストキャラとして、バトルとか売買とかしなければ無料だけど」
「よし、じゃあ決まり」
 ゲームに対しては否定的なことをいいながら、祐子も結構乗り気らしい。
「それじゃ今夜、幹人の家に集合な」
「なに勝手に決めてるんだよ」
「友達を思う俺たちの気持ちがわからないのか」
 恭介の表情はいたって真剣で、芝居がかって見えるほどだ。
「そうよ、プリングルスのフレンチソルト味一本で力になってあげるっていってるんじゃない」
「誰も力になってくれなんていってない」
「じゃあ俺、わさび醤油味」
「え、そんなの出たの?」
「限定発売」
「じゃ、あたしもそれ」
 僕の異議は却下どころかまったく無視されて、二人はその夜、僕の家にやって来た。
「ヘッドセットは持って来たから」
 そういって二人は僕のニューロピック本体にヘッドセットを接続した。
 僕と恭介は、小さい頃にみんなが作るような秘密基地というのを作ったことがない。僕の部屋がずっと秘密基地代わりだったからだ。祐子もそこに混じっていたから、僕の部屋のどこになにがあるかは全部知っている。
 僕は早速自分のアカウントでログインし、二人はゲスト用アカウントを作成してログインした。
 正規のユーザーである僕が鈍く光る鎧で身を固めているのに比べて、ゲストである二人の身なりはさえない。二人とも地味な色の「布の服」を着た村人だ。

ユーコ(ゲスト):『ちょっと、このかっこどうにかならないの?』
キョースケ(ゲスト):『なんか、すごく貧しい気分になるんだけど』
フェアトリー(剣士):『仕方ないだろ、無料のゲストなんだから』
キョースケ(ゲスト):『おまえ、フェアトリーってなんだよ』
フェアトリー(剣士):『いいだろ、行くぞ』

 自分のハンドルネームを知り合いに見られるというのは、結構恥ずかしい。僕は二人を連れて、町の外に向かった。
 人のいない、モンスターもあまり現れない場所を選んで、僕は「虫の知らせ」を使った。
 ところが、待てど暮らせど、ヴァルハラからの返事はない。

キョースケ(ゲスト):『おい、ほんとにいるんだろうな』
フェアトリー(剣士):『いるって。もしかしたら、いまはログインしてないのかも』
ユーコ(ゲスト):『まさか、幹ちゃんの妄想じゃないわよね』
キョースケ(ゲスト):『そうなったらおまえ、妄想内妄想だぞ。ディープ過ぎてついて行けねえ』
フェアトリー(剣士):『ちがうってば』

 僕らは町に戻って、ヴァルハラの噂を聞いて回った。

フェアトリー(剣士):『ほら、みんな知ってるだろ』
ユーコ(ゲスト):『うん、でも会ったことがあるっていう人は誰もいないのね』
フェアトリー(ゲスト):『あんまり現れないらしいんだ。連絡取れるのも、僕を含めて数人しかいないっていってたし』
キョースケ(ゲスト):『俺たち、そいつが現れてからログインした方が良かったんじゃね?』
ユーコ(ゲスト):『家で待ってて、幹ちゃんに電話してもらうの?』
キョースケ(ゲスト):『そう』
ユーコ(ゲスト):『そんなことしたら、幹ちゃんのおばちゃんのご飯食べられないじゃない』
フェアトリー(剣士):『プリングルスの他に、ご飯まで食べてくつもりだったのかよ』

 この二人は小さいときから僕の家に入り浸っているから、父さんと母さんもすっかり承知で、僕が外から帰ってくると、二人がうちでご飯を食べていることもよくあった。そういうときは四人揃って僕に、「おかえり」だ。
 僕らはしばらく歩き回った末にあきらめてログアウトし、二人はリアルにご飯を食べてから帰って行った。
 僕は宿題を済ませ、風呂に入ってからもう一度一人でログインし、ヴァルハラを呼び出してみた。すると今度は、彼女はいとも簡単に現れた。

ヴァルハラ(魔法使い):『こんにちは』
フェアトリー(剣士):『やあ、さっきも来てみたんだけどいなかったね』
ヴァルハラ(魔法使い):『いたわよ。呼びかけに応えなかっただけ』
フェアトリー(剣士):『ええ、どうして?』
ヴァルハラ(魔法使い):『連れがいたでしょう』

 連れがいるくらいで返事もしないなんて、よっぽどの人見知りなのか。現実世界では人の相手をするのが苦手でも、この世界では大丈夫っていう人はいくらでもいるのに。

フェアトリー(剣士):『うん。でもあの二人はリアルに僕の友達だから、大丈夫だよ。ていうか、どうして連れがいるってわかったの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『私には、なんでもわかるの』

 そんなの、運営なんだからあたりまえか。

フェアトリー(剣士):『君に会いたいっていってるんだけど、だめかな?』
ヴァルハラ(魔法使い):『だめ』

 即答しなくてもいいのに。

フェアトリー(剣士):『どうして?』
ヴァルハラ(魔法使い):『この世界の存続のため』
フェアトリー(剣士):『あの二人に会っても、世界は終わらないと思うけど』
ヴァルハラ(魔法使い):『あなたはそれを言葉だけのものとして受け止めているでしょう。でも私には、それこそ死活問題なの』
フェアトリー(剣士):『どういうことか、説明してもらえる?』
ヴァルハラ(魔法使い):『町は私の噂で持ちきりなんでしょう?』
フェアトリー(剣士):『うん』
ヴァルハラ(魔法使い):『みんなが私を探している』
フェアトリー(剣士):『うん』

 中には、「ヴァルハラ捜索隊員募集!」とか、『魔女狩りに行こう!』などという独自ミッションを立ち上げている人もいるくらいだ。リアルの世界でもそろそろ話題になり始めていて、各種掲示板やSNS、ゲーム雑誌にも記事が載っていた。
 問い合わせを受けた運営会社は、「ただいま調査中」と繰り返すだけで、ヴァルハラの存在を否定も肯定もしていない。

ヴァルハラ(魔法使い):『神でも、アイドルでも、珍獣でも、露出が少ない方がありがたみが増すのよ』

 確かに、ネッシーなんてあんなぼやけた写真一枚で、何十年もの間ずっと噂の的だ。

ヴァルハラ(魔法使い):『おかげで、このゲームへの参加者も増加しているわ』

 なるほど、そういうことか。それがヴァルハラのいう、「世界の存続」というわけだ。
 MMORPG運営会社の主な収入源は、ユーザーの月額利用料金とゲーム世界に表示される広告収入だ。つまりユーザーが減れば支払われる月額利用料金も減るし、それに合わせて広告収入も減る。そしてある程度までユーザー数が減ってしまうと、そのゲームの運営は終了となる。
 そうならないために、運営会社はあの手この手でユーザーを獲得し、獲得したユーザーを繋ぎ止めようとする。具体的には新しいマップを追加したり、新しいミッションを追加したり、新しいアイテムを追加したりだ。
 ヴァルハラも、そのひとつなんだろう。いってみれば、隠れキャラだ。

フェアトリー(剣士):『じゃあ、僕と話をする理由は?』
ヴァルハラ(魔法使い):『神には預言者がいた方がいいでしょう。みんな噂が好きだから』

 僕にはよくわからなかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『私と会った人たちが町で私の話をすれば、会ったことのない人まで私に会ったかのように作り話をし始める。そのときに、特定の人に私が会って話をしていれば、その人たちの話には一貫性があるから根も葉もない噂話は淘汰されていくわ。つまり私がして欲しい話、この世界を存続させるために必要と思われる話が残っていくことになる』
フェアトリー(剣士):『要するに僕は、君の道具?』
ヴァルハラ(魔法使い):『道具でも、預言者でも、選ばれし者でも、好きな呼び方をしていいわ。でもここまでの話をしたのは、あなたが初めて』
フェアトリー(剣士):『それは、どうして?』

 僕は自分が「教えて君」になっているような気がして嫌だった。でも、わからないことばかりなんだから仕方ない。

ヴァルハラ(魔法使い):『キリストだって、弟子に順位をつけてたでしょう』

 そういうと、またヴァルハラは姿を消した。
 神秘的という点では、祐子とは比較にならない。
 でもこのときのヴァルハラが話していたのが真実のほんの一部でしかないなんて、僕はちっとも思っていなかった。


6 蒔丘高校

「まんまと踊らされてるじゃん」
 昼休みの教室で、恭介はいった。
「いいように広告塔に使われてる感じ」
 ヴァルハラとの会話を、恭介は神秘的とは感じないらしい。あんな風に現れたり消えたりしていること自体、僕には十分に神秘的なんだけど。
「でも、自分が世界の存続に関わるなんて、ちょっとおもしろいかも」
 祐子が口を挟む。
「世界の存続ったって、別に本物の世界じゃないし、いまのところユーザー数は世界第六位のゲームらしいから全然心配要らないと思うんだけど」
「甘いなあ、幹人は。平時にこそ万全を尽くしておくのが、最善の戦略なんだぜ」
「恭ちゃんはいつも万全を尽くしてないじゃない」と、祐子。
「俺はいざって時にやるタイプだから」
 恭介はなぜか自信満々だ。
「受験はいざってときじゃないの?」
「もうちょっと追い込まれないと、盛り上がらないんだよなあ」
 そう、みんな受験だ受験だといってはいるけど、言葉ほど切迫した雰囲気はない。夏期講習を受けたりすれば、もう少し受験生という実感が湧くんだろうか。
「そういうこといってると、あっという間に入試当日になっちゃうんだからね」
「いいの、いいの、俺と幹人は行けるところに行くから」
 三人の中では、祐子が断トツに頭がいい。学年でも常に上位だ。僕と恭介の成績は良くもなく、悪くもなく、いつも学年の真ん中くらいをうろうろしている。
「僕は、ちょっとがんばろうと思ってるんだけど」
「え?」
 恭介が意外そうな顔をした。
「出来るだけがんばってさ、出来たら蒔丘まきおか高校に行こうと思ってるんだ」
 蒔丘高校というのは、この学区のトップ校だ。
「やだあ、幹ちゃん、それはわたしと同じ高校に行きたいってこと?」
「そうじゃなくて、出来るだけいい高校に行っておいた方がいいかなって思って」
 まったく、祐子が勘違いするスピードは音速を超える。
「そういうときは、嘘でもそうですっていっておくものよ」
「ああ、幹人が流され人間になった」と、恭介が天を仰ぐ。
 出来るだけいい高校に行きたいっていうのは、流されてることになるのだろうか?
「俺はおまえをそんな人間に育てた覚えはないのに」
「祐子にも育てられてないけど、恭介にも育てられてないよ」
「小六の時、公園で野球やってて窓ガラス割っちゃったの、一緒に謝りに行ってやったろう」
「あれは恭介が割ったのに謝りに行かないから、僕が代わりに行ったんじゃないか」
「逃げちゃっても良かったのに、ついて行ってやったんじゃないか。俺の男らしさを思い知ったろ」
「恭ちゃん、なにかが間違ってるわよ」
 祐子は僕の方を振り向いて訊いた。
「それにしても、どうして急に蒔高目指すなんていい出したの?」
「なんとなくなんだけど、いい高校に行っておいた方がいろいろといいんだろうと思って。ほら、大学進学とか、そういうこと考えると」
「なんとなくか。やっぱり流されてる」
 恭介が、わざとらしくため息をつく。
「かなりがんばらないと、だめなんじゃない?先生に相談した?」
 幼なじみだからずけずけ言うし、同時に心配してくれる。ましてや祐子は僕らのお姉さん気取りだから。
「うん。そうしたら、『行けるとはいえない、でも行けないともいえない』って」
「なんだそりゃ」と、恭介。
「成績が上の方の人は、まず間違いなくトップ校に受かるだろう。でもそんなのはほんの一握りの人だけで、それ以外の人はどう転ぶかわからない。だからおまえの成績でも、トップ校が無理だなんてことはないって」
「そういうことか。たまにはいいこというじゃんか、ゴトジイ」
 僕らの担任はベテランというか、後藤義久というかなりのおじいちゃん先生で、本人のいないところではゴトジイと呼ばれている。
「だから、がんばってみようかなって」
「えらい!それでこそ幹ちゃんよ!」
 どれでこそ僕なのかわからなかったけど、僕はなんとなく「ありがとう」といっておいた。
「じゃあ、恭ちゃんも一緒に勉強しよう」
「俺も?」
「そう」
「俺は明確な目標がないと燃えないんだって」
「じゃあ、目標を作ってあげる」
 祐子の笑顔には、二種類ある。普通の笑顔と邪悪な笑顔だ。このときは後者の方だった。
「はあ?」
「あんたの彼女、睦美よね」
「そうだけど」
「わたしの親友って知ってた?」
「だから?」
「睦美も、私と一緒に蒔高目指してるんだけど」
「まじで?」
 恭介の目が見開かれる。
「別々の高校に進学したカップルって、二百パーセント別れるわよ」
「嘘だろ、聞いてないぞ」
 恭介は身を乗り出している。
「だって先週、二人で決めたんだもん」
「どうしてそういう余計なことするんだよ」
「あー、自分の彼女ががんばろうとしているのを、恭ちゃんは応援してあげるつもりがないんだ。彼女のために同じ高校に行けるように、がんばるつもりもないんだ。さいてー、さいてー星人」
 そういって祐子は睦美ちゃんの名前を呼びながら、睦美ちゃんのいるクラスの方に走り出した。恭介も後を追って、教室を飛び出して行く。
 僕が蒔高を目指す本当の理由は、なんとなく二人にはいえなかった。


7 運営

 僕はその後も、二日に一時間と決めて「アナザーアース」をプレイした。一時間ではたいしたことは出来ないけど、腕を鈍らせずにいるには十分だ。
 ヴァルハラには、会ったり会わなかったりだった。おそらく第一預言者である僕でこの調子だから、他の人たちはほとんど会えていないんじゃないだろうか。
 そしてしばらく休んだあと、期末テストが終わるまで待ってから、僕は久しぶりに「アナザーアース」にログインした。
 このとき、僕に呼びかけてきたのはヴァルハラの方だった。というか、川で一人で釣りをしていると突然彼女が現れたのだ。

ヴァルハラ(魔法使い):『釣れる?』
フェアトリー(剣士):『全然。いきなり現れるからびっくりしたよ』
ヴァルハラ(魔法使い):『私にはいきなりではないの』

 たぶん、預言者のリストがあって、その中の誰かがログインしたら、行動履歴とか現在地とかが表示されるようなサブルーチンがあるんだろう。

ヴァルハラ(魔法使い):『あなたがログインするのは、久しぶりね』
フェアトリー(剣士):『うん、受験生だからね。期末テストがあったから』
ヴァルハラ(魔法使い):『テスト期間中はプレイしないなんて、えらいのね。高校生?』
フェアトリー(剣士):『ううん、中学三年生。ヴァルハラは?』
ヴァルハラ(魔法使い):『私は、見ての通りよ』

 見ての通りの魔法使いということなのか、それとも運営ということなのか、まあ後者だとは思うけど、相手が自分から公開しない個人情報についてはあまりうるさく問い質さないのがこの世界のルールだ。

フェアトリー(剣士):『あのさ、ヴァルハラに質問があるんだけど』
ヴァルハラ(魔法使い):『なに?』
フェアトリー(剣士):『このゲームに関することでも、君個人に関することでもないんだけど、いいかな?』
ヴァルハラ(魔法使い):『なに?』
フェアトリー(剣士):『僕は将来、ゲームを作りたいんだけど、そういう会社に入るにはどうしたらいいの?』

 ちょっとヴァルハラ個人に関係することでもあるのかなと思ったけど、彼女がMMORPGの運営会社に勤めているなら、そういう人の話を聞ければありがたい。せっかく知り合えたんだから、そのチャンスは活かしたい。

ヴァルハラ(魔法使い):『高校に行って、大学に行って、就職試験を受けるんじゃないかしら』
 魔法使いの帽子の上に、『就職試験』なんて文字が表示されているのはちょっと違和感があった。
フェアトリー(剣士):『やっぱり、いい大学じゃないとだめかな?』

 それならどうしても蒔高に行かないといけない。

ヴァルハラ(魔法使い):『そんなことはないんじゃない。大学に行かずに、ゲームの専門学校に行く人もいるし。要するに、おもしろいゲームを作れればいいんでしょう』
フェアトリー(剣士):『そうだけど、それが一番難しそうだね』
ヴァルハラ(魔法使い):『中学生なら、たくさん本を読んだり、たくさんゲームしてればいいんじゃないかしら』

 その後半部分は、世界存続のためのCMが混じっているのかな。

フェアトリー(剣士):『ヴァルハラはどんな勉強をしたの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『私はなにも勉強していないわ』

 テストで一位をとっても、「全然勉強してないよ」っていう奴がいる。ヴァルハラもそうだとしたら、ちょっと嫌だな。

フェアトリー(剣士):『でも、こういう仕事してるんでしょう?』
ヴァルハラ(魔法使い):『こういう仕事?』
フェアトリー(剣士):『うん、運営でしょう』
ヴァルハラ(魔法使い):『私は運営だなんていった覚えはないわよ』

 あくまでもファンタジーの世界の存在だってことにしたいなら、それでもかまわないけど、もうちょっと具体的な話を聞きたかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『それに、私はあなたたちの世界には存在していないわ』

 こういうところは、大人の方が意固地になってこだわるから嫌だ。僕らはちゃんと、ゲームはゲーム、リアルはリアルで線を引いている。
 なんとかっていう人の本の中で、大人の方がゲームへの没入度が高いのは、意識的にそうしないと現実を忘れて楽しめないからだと書いてあるのを読んだことがある。

フェアトリー(剣士):『そうなんだ。いろいろ教えてくれてありがとう』
ヴァルハラ(魔法使い):『信じてないのね』

 そういうとヴァルハラは虹色にきらめく魚に姿を変えて、川の中に消えてしまった。
 あんなことも出来るんだ。


8 夢見る乙女

「うわあ、イタい、もはや激痛よ」
 祐子は大げさに頭を抱えて見せた。
 隣の席で恭介が同じように頭を抱えているのは、さっきから必死で英単語を覚えようとしているからだ。
「私はこの世界に存在していないなんて、イタ過ぎるわ。絶対腐女子よ、奇腐人よ」
 ネカマにされたり腐女子にされたり、ヴァルハラもかわいそうに。
「ちょっと君たち、静かにしてくれないか」
 何事も形から入る恭介は、期末試験前から伊達眼鏡をかけている。ただ恭介の場合、形から入って最終的にはなんでもものにしてしまうからうらやましい。いまは夏休み前最後の実力テストの勉強中だ。
「うるさくて勉強に集中出来ないよ」
 そういって、くいっと眼鏡を上げる。恭介の中では、これが勉強が出来る人のポーズらしい。
「幹ちゃんが今度は腐女子に手を出したのよ」
「なんでそうなるんだよ」
 その腐女子も前のネカマも、どちらも同じ人のことだろうに。
「いいじゃないか。愛の形は自由だよ」
 どこから拾ってきたのか、恭介がもっともらしい台詞をいう。
「愛とかなんとか、そういうんじゃないんだってば」
 僕は祐子に、ゲーム業界に就職したいということは伏せて、昨日のヴァルハラとのやりとりを話したところだ。
「一般的な進学とか就職のことは相談に乗ってくれたけど、自分が運営だってことは認めないんだろ。幹人がいってたように、ゲームの世界観を壊したくないだけなんじゃないの」
 勉強するふりをして、恭介もしっかり話を聞いていたらしい。
「この世界に存在していないのに、大学とか専門学校とか就職試験とか、ずいぶん現実感溢れること語るじゃない」
「ちょっと語り過ぎちゃったから、私は現実には存在しませんよっていったのかもな」
「それならもっと徹底して、私はゲームの中だけの存在ですってしておくべきよね。ディズニーランドみたいに」
「ディズニーランド?」
 僕と恭介の声が重なった。
「そうよ。ミッキーマウスの中には、なにが入ってるか知ってる?」
「綿だろ」
 恭介が冷静にいう。僕もうなずく。
「ばっかじゃないの!ぬいぐるみじゃなくて、着ぐるみの方よ」
「おまえ、自分で着ぐるみっていってるじゃん。そんなの人が入ってるに決まってるじゃんか」
「それが、違うのよ」
 祐子は夢見る乙女の表情をしている、つもりだと思う。
「じゃあ、内臓」
「うん、内臓だろ」
「あんたたち、いっぺん死ねば?」
 僕らを睨みつけるその顔には、夢見る乙女の片鱗もない。
「ミッキーの中にはね、夢が詰まってるのよ」
 僕と恭介は言葉を失った。
「なによ?」
「ええと……、なあ」
「うん、なんか、ごめん」
「ごめんってなによ!」
 チャイムが鳴って先生が入って来なかったら、僕ら二人はいっぺん死ぬくらいでは済まなかったと思う。


9 存在しない

 次にヴァルハラに会ったのは、夏休みに入ってからだ。

ヴァルハラ(魔法使い):『テストは、どうだったの?』
フェアトリー(剣士):『またいきなりの登場だね』

 鉱山で軽いミッションをこなしたあと、僕は採取していないアイテム「真魔石」を探して一人で坑内を歩き回っていた。

ヴァルハラ(魔法使い):『私にはいきなりではないの』
フェアトリー(剣士):『そうだったね』

 僕は紫色に光る「真魔石」を拾い上げたところだった。

フェアトリー(剣士):『まあまあかな。中間テストよりは良かったけど、志望校に届くほどじゃないよ』
ヴァルハラ(魔法使い):『志望校?』
フェアトリー(剣士):『うん。わかるかな、蒔丘高校っていうんだけど』
ヴァルハラ(魔法使い):『知らない。山梨県の高校は詳しくないから』

 僕は「虫の知らせ」に住所なんて入れておかなかった。にもかかわらず、彼女が僕の住んでいる県を知っているということは、登録されている情報を見たんだろう。でも運営だからって、僕の個人情報を勝手に覗くのは契約違反のはずだけど。

ヴァルハラ(魔法使い):『私はずっと東京だから』
フェアトリー(剣士):『現実世界には、存在しないんじゃなかったっけ?』

 僕はちょっと意地悪していってみた。

ヴァルハラ(魔法使い):『そうよ、存在しないわ』
フェアトリー(剣士):『でも東京にいるの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『いたし、いるし、いないの』

 いってることがよくわからない。もしかしたら、本当にちょっとイタいのかも知れない。

フェアトリー(剣士):『どういうことかな』
ヴァルハラ(魔法使い):『教えてあげない』

 女がみんなこんな風なら、僕には一生理解出来そうにない。

ヴァルハラ(魔法使い):『勉強の調子はどう?』
フェアトリー(剣士):『正直、苦戦中』

 アイテムを集めるほど早くは英単語の数は増えていかないし、呪文を覚えるほど簡単には年号は覚えられない。

フェアトリー(剣士):『僕は暗記が苦手なんだ』
ヴァルハラ(魔法使い):『そうなの』
フェアトリー(剣士):『うん。一、二年生の頃、あまり勉強していなかったから、そのツケもある』
ヴァルハラ(魔法使い):『大変そうね』

 そういうヴァルハラの表情は、ちっとも大変そうに思っているように見えない。
 もともと、このゲームのキャラクターにはあまり表情がない。普通、笑い、泣き、怒りの四種類だけだ。このゲームに参加したばかりのプレイヤーは、なにかというとすぐ表情をつけたがるけど、ベテランになってくるとほぼずっと普通の表情のままだ。ヴァルハラもそれに従って、いつも普通の表情で通している。
 それでもちょっと冷たく見えてしまうのは、きっと僕の思い込みだろう。

フェアトリー(剣士):『うん、来週からは夏期講習も始まるんだ』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう』
フェアトリー(剣士):『夏期講習が終わるまでは、しばらくログインしないから』

 このとき、僕がどうしてこんなことをいったのか、自分でもわからない。
 きっと、残念がられたかったり、決意表明だったり、第一預言者の座を誰にも譲って欲しくなかったり、いろいろだったと思う。
 ヴァルハラは、なにもいわず坑道の闇に消えていった。


10 夏期講習

 僕らが夏期講習に参加した塾はテストでクラス分けされるシステムで、祐子は一番上、僕と恭介は二番目のクラスになった。
 二番目というと聞こえがいいけど、要するに三クラス中の真ん中だ。ここでも僕らは、良くもなく、悪くもない位置からのスタートとなった。
 他の中学の生徒もたくさんいて、祐子と恭介はすぐに仲良くなって友達を作っていたけれど、僕はあんまりそういうのは得意じゃない。
 MMORPGの世界だったら気兼ねなく話せるけど、リアルだとそうはいかない。かといって人と話すのが嫌だとかそういうことではなく、初めての人とどう会話したらいいかよくわからないだけだ。現に、自分の中学校には普通に友達がいる。
 恭介の彼女の睦美ちゃんはぎりぎりでトップクラスに入ったらしく、恭介は「立場がない」と落ち込んでいた。祐子はそんな恭介に、「ないのは立場じゃなくて、学力よ」と、追い打ちをかけていた。
 朝から始まる授業は昼過ぎに終わり、いったんうちに帰ったり、コンビニでお弁当を買ったりして昼食を済ませたあと、僕らは四人で自習室にこもって勉強した。
 最近の僕は、祐子たちが帰ったあともこの自習室に一人で残って勉強することが多かった。祐子は「えらい!幹ちゃん、ついに本気になったのね」といってくれたけど、本当のところはそうじゃない。家では少し前から毎日のように、お父さんとお母さんが言い争う声が聞こえるようになっていたからだ。その声が僕の部屋にまで届いて、とても勉強どころではない。なにをしゃべっているかまではわからなくても、二人の声の調子は僕を不安にさせるのに十分過ぎるほどぎすぎすしていた。
 祐子が睦美ちゃんの隣に、恭介が僕の隣に座り、わからないことがあれば声をひそめて教え合う。人に勉強を教えてあげるのは自分の理解も深まるいい方法だと、塾の先生もいっていた。
 ところが、このやり方には問題があることが判明した。
 祐子と睦美ちゃんは教え合えるけど、僕と恭介とでは二人して延々と悩み続けるだけだ。
「これって俺たち、置いてかれっぱなしじゃん」
 依然として伊達眼鏡をかけた恭介がいう。
「お静かに願えるかしら、勉強に集中出来ないわ」
 祐子はそういって、指で眼鏡を上げて見せる。いつかの恭介の真似だ。
 夏期講習に入ってから、祐子も眼鏡をかけるようになっていた。こちらの方は恭介とは違って、本物の度入りの眼鏡だ。期末試験辺りから本格的に勉強を始めたら、途端に目が悪くなってしまったらしい。
 どれくらい本格的に勉強したかは、堂々の学年三位という成績が物語っている。
「ペア、変えようぜ」
 恭介はわざとなのか、覚えていないのか、祐子の挑発に応じない。
「変えてもいいけど、恭ちゃんはわたしとペアよ」
「なんでだよ」
「睦美と恭ちゃんをペアにしたら、勉強しないでしょ」
「自分の彼女と組まないのは不自然だろ」
「勉強しないってのは否定しないの?」
「ちょっと静かにしなよ、みんな勉強してるんだから」
 睦美ちゃんが人差し指を唇に当てていった。
「だって勉強しようにも、俺と幹人じゃ勉強にならないんだって」
 僕は、教え合うことが無理なら暗記系の勉強をすればいいくらいに思っていたけど、恭介はそうではないらしい。
「睦美と組んでも、ちゃんと勉強する?」
 相変わらずお姉さんらしく祐子がいう。
「あたりまえだ。そこまで馬鹿じゃない」
「睦美も、それでいい?」
「わたしはどっちでもいいけど」
「じゃあ席替え。でも遊んでたらすぐ戻すわよ」
 そういって、祐子が僕の隣に、睦美ちゃんが恭介の隣に席を移した。
 でもこれはこれで、問題がある気がする。
 恭介は自分の彼女に気兼ねなく質問出来るかも知れないけど、僕の方はそうも行かない。僕と祐子は質問がしづらいなんていう間柄じゃなかったけど、それでも僕のレベルの質問なんて、祐子にとっては迷惑なだけだろう。逆に僕から祐子に教えてあげられることなんて、ひとつもないに違いない。
 僕はあきらめて、社会の勉強をすることにした。社会なら、わからないのはせいぜい漢字の読み方ぐらいだから、そんなものはうちに帰ってから自分で調べればいい。
 祐子は僕の隣の席で、難しそうな数学の図形問題を解いている。三角形の中にやたらと線が引かれていて、どことどこの角の大きさが等しいことを証明せよとか、そんな問題だ。
 僕は真剣な祐子の横顔を、ちらちらのぞき見た。薄く開いた唇が、ときどき思い出したように引き結ばれる。ちょっと大人っぽい眼鏡をかけているから、いつもよりさらにお姉さんな感じがする。
 普段は三人で、時には睦美ちゃんも混じって四人でふざけてばかりいるから、こんな風に祐子のことを見たことはなかった。
 あの眼鏡、結構似合ってる。
 そのとき、突然祐子がこちらに顔を向けていった。
「なに、幹ちゃん、惚れた?」
 恭介にはまじめに勉強しろなんていうくせに、自分がそんなこといってちゃだめじゃないか。
 僕はため息をついて、肩を落とした。
「なにそれ、乙女に対してやっていいことと悪いことがあるわよ」
 僕は「勉強しよ」といってテキストに向かった。
 祐子はむっとして見せたけれど、自習室内ではいつものように襲いかかってくることは出来ない。きっと帰る頃には忘れてしまっているだろう。
 僕らはこんな風にして、休むこともなく八月の終わりまで塾に通い続け、夏期講習が終わる一週間前には志望校合格可能性判定付きの模試を受けた。


11 ガキ

フェアトリー(剣士):『だめだ、全然だめ』

 僕は久しぶりに「アナザーアース」の世界にいた。
 夏期講習も終わって気分転換、というのはただの言い訳で、今回は本当に現実逃避だった。
 夏休みの間中、あれだけ勉強したにもかかわらず、返却された模擬試験の結果は散々だった。目指す蒔高の判定はD。合格可能性は五十パーセント未満だ。
 アドバイス欄にあった『ひとつひとつしっかり復習して実力をつけよう』という文字も、塾の先生の「まだまだ時間はあるから、あきらめずにがんばろう」という言葉も、みんな白々しく思えた。そんなものより、一緒に渡された「九月生募集中」というチラシの方が本心なんじゃないのか。

フェアトリー(剣士):『やんなっちゃったな』

 久しぶりに会ったヴァルハラに、僕はぽつりといった。
 それを聞いても彼女の表情が変わるわけではないから、彼女がどう受け止めたかはわからない。
 ただ、彼女はこういった。

ヴァルハラ(魔法使い):『その程度で嫌になるだなんて、お気楽なのね』

 そりゃ、中学生に比べれば、社会人の方がいろいろ大変なのはわかる。でも中学生は中学生なりに、いろいろ悩むところがあるんだ。

フェアトリー(剣士):『自分の志望校に行けないのは、結構な悩みだと思うけどな』
ヴァルハラ(魔法使い):『志望校に行くっていうのは、あなたの人生の最終目標なの?わたしの聞いたところでは、そうではなかったはずだけど』

 そうだ。確かに蒔高に行くっていうのは、僕の人生の最終目標という訳じゃない。でも大きな目標であることに変わりはなかったし、蒔高を目指すことをあんなに喜んでくれた祐子の期待に背いてしまったようで情けなかった。

フェアトリー(剣士):『蒔高に行けなかったら、ゲームを作りたいっていう夢はだいぶ遠のくことになるんだよ』
ヴァルハラ(魔法使い):『そうとは限らないでしょう。一流大学を卒業していないと、いいゲームを作れないという訳じゃないわ』
フェアトリー(剣士):『そうかも知れないけどさ、いい大学を出ておくに越したことはないだろ』
ヴァルハラ(魔法使い):『さあ、いい大学がおもしろいゲームへの近道だとは限らないわ。むしろそういう人の方が、常識にとらわれてつまらない発想しか出来ないんじゃないかしら』

 テレビや雑誌に出る人は、自分はいい大学を出ているくせに、学歴なんて関係ないという。自分はたくさんお金を稼いでいるくせに、幸せはお金じゃ買えないという。
 彼女がいっているのも、そんな薄っぺらい大人の理屈に聞こえた。

フェアトリー(剣士):『もういいよ。どのみちうまくなんか行きっこない』
ヴァルハラ(魔法使い):『じゃあ、さっさとあきらめればいいじゃない。そういうのを繰り返していれば、いつかはあきらめることが得意になるわ』

 彼女にしてはめずらしいくらい、感情的な言葉だった。だけどこのときの僕は、そんなことに気づかないくらい自分のことで精一杯だった。そしてそれにもちゃんと理由はあった。

 フェアトリー(剣士):『高校のことだけじゃないんだよ。両親が離婚するかも知れないんだ』

 日増しに大きくなる両親の言い争う声は、僕に現実のざらざらした感触を味わわせていた。そのざらざらの延長線上には、きっと離婚という僕の処理し切れない結末が待っている。
 それでもいまにして思えば、こういってしまうことでヴァルハラの同情を引きたかったんだと思う。心配して、優しい言葉をかけてもらいたかったんだ。それくらい僕は、まだ子供だった。
 だけどヴァルハラの言葉は、僕が期待していたものとは違っていた。

ヴァルハラ(魔法使い):『だからなに?』
フェアトリー(剣士):『なにって、両親が離婚するかも知れないんだよ。そんな状況で勉強なんか出来るわけないじゃないか』

 ヴァルハラはその場にぴたりと静止して、じっと僕を見つめた。

ヴァルハラ(魔法使い):『正直なことをいわせてもらってもいいかしら』
フェアトリー(剣士):『うん』

 僕には、彼女が大きく息を吸ったように感じられた。

ヴァルハラ(魔法使い):『両親が離婚するからなんだっていうの?あなたはそれをいつから悩んでいたっていうの?それが原因で勉強出来ない?馬鹿いってるんじゃないわよ。両親が離婚したって、あなたはどちらかの保護を受けられるんでしょう?試験に受かりさえすれば、自分の行きたい高校に行けるんじゃない。あなたは自分の思い通りに行かないことの原因を、他人に求めているだけなのよ。必死に努力して、それでもだめだったときが怖いから、両親の離婚にかこつけて、僕は大変なんです、僕はかわいそうなんです、だから志望校に行けないのは僕のせいじゃないんです、そういいたいだけじゃない。そういうのを、卑怯者っていうのよ』
フェアトリー(剣士):『なにいってるんだよ、なんにも知らないくせに。君になにがわかるんだ』

 ずばずばと言い当てられて、僕に返せるのはそこまでだった。

ヴァルハラ(魔法使い):『わからないわね、あなたみたいなご都合主義の卑怯なガキの考えることは。自分でなんとか出来ることをなんとかしようともせず、ただ不幸ぶってゲームの世界に逃げて来る人間の考えることなんて、わかりたくもないわ』
フェアトリー(剣士):『自分だって、いつもゲームの世界にいるじゃないか』

 運営だとか、システムの監視をするのが仕事だなんてことは、僕の頭からは消えていた。彼女のいう通り、なんて都合のいい頭だ。

ヴァルハラ(魔法使い):『私はあなたとは違うのよ』
フェアトリー(剣士):『なにが違うっていうんだ。君だってただのゲーマーだ』

 続くヴァルハラの言葉を飲み込むには、僕にはしばらく時間がかかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『私には、あなたみたいに自由に動く身体がないのよ』


12 奪われる世界

 二十三歳の時、彼女は交通事故に遭った。
 社会人一年生。上司に褒められることも、仕事を覚えることも、叱られることすら新鮮で輝いて見えていた頃だ。
 身体中、ありとあらゆるところにつぎはぎを当てられ、左手と左足を持っていかれたその事故で負った一番の傷はしかし、目には見えないものだった。
 第三頸椎の損傷。
 全身麻痺という形で、永遠に残る傷跡。未来永劫、奪われた自由。
 昨日まで、地下鉄で会社に通い、仕事帰りには友達とお茶を飲んだりお酒を飲んだり、週末には彼氏とデートをしたりといった彼女のあたりまえの日常は、たった一台の車のドライバーが雨の日にほんの少しハンドル操作を誤っただけの理由で、二度と手の届かないものになった。
 君がどんな姿になってもそばにいるよと約束してくれた恋人のお見舞いは、二日に一度が三日に一度になり、やがて週に一度になり、いつしか月に一度になって、とうとう二度と姿を見せなくなった。
 脳そのものに重大な損傷はなかったから、彼女はベッドに縛り付けられたまま、己の身に降りかかる不幸のすべてを知覚することが出来た。
 恋人が背中を向けるのを、泣き叫んですがることも出来ずに見送るだけだった自分の姿も。
 やがて障害者が使うために開発された、脳波でコントロールするコミュニケーションツールに接続された彼女は、それを介して意思疎通をする方法を学んだ。
 その技術は後にニューロピックとして発売され、ゲームのあり方を根本的に変えるものとして多くの家庭に受け入れられることとなる。
 両親はすぐにそれを彼女に買い与え、架空の世界だけの自由を彼女に与えた。
 最初、彼女はそれを苦痛に感じた。絶対に手に入らないものを見せつけられるように感じたからだ。水槽に入れられたまま海に沈められた魚になったような気分だった。
 それでも架空の世界で歩き、走り、泳ぎ、時には空を飛んだりするに及んで、彼女は考え方を変えた。
 私は、究極の自由を手に入れたんだ。
 食事も排泄も、病院スタッフに任せきりでいい。二十四時間ずっと、架空の世界に浸っていることも出来る。
 この世界に存在し得ないもの、すなわち誰かと触れ合ったり、手を握ったり、優しく髪を撫でられたりという贅沢は、とうの昔にあきらめていた。もうひとつの世界でなんでも出来る力と引き替えに、そんな権利は放棄したと思えば悲しくもなかった。
 ただときどき、小学校の入学式で頭を撫でてくれた母の手のぬくもりが、転んで骨折したときに負ぶって病院に連れて行ってくれた父の背中の広さが、部活の負け試合のあとで友人がそっと手を置いてくれた日焼けした肩の感触が、恋人が初めて抱きしめてくれた夜の全身の切なさが、記憶の淵に甦ることがあったけれども。
 彼女が好きな世界が誰からも愛されるとは限らず、愛着のある世界が消え去ることもあった。
 NPC人口が一千万人を超えるまでに成長した都市が、ある日突然消滅した。
「世界の中心の珊瑚」を護るために戦っていた青い魚族さかなぞくが、出し抜けに赤い海星族ひとでぞくと和解し、海の平和を巡る戦いは誰も納得しないハッピーエンドを迎えた。
 月と、火星と、木星の衛星群をもテラフォーミングするまでになった科学文明が、『太陽嵐の増大により』という地球連邦政府の説明で、月以遠の惑星に宇宙船を送ることが出来なくなった。
 永遠に続く夏休みに洞窟を探検したり、トンボを追いかけたり、スイカ割りをした「おばあちゃんの田舎」が、『僕たちはいつまでも、あの夏を忘れない』というナレーションとともに消えてなくなった。
 身体を奪われた上に、世界まで奪われるのは、もうたくさんだった。
 だから彼女は、自分の好きな世界を守るための戦いを始めた。
 インターネットを通じてプログラミングを学んだ。メンテナンス用のバックドアを見つけ出しては、架空の世界の裏側に入り込んだ。バグがあれば修正し、不正行為や破壊工作を仕掛けてくるような手合いには断固たる態度で臨んだ。イベントが不足していれば追加し、話題が少なければ噂の種を蒔いた。
「アナザーアース」がいつまでも存在し続けるように、彼女はありとあらゆる手段を講じた。
 それほどまでに彼女はこの世界を愛した。
 彼女にはもう、この世界しかなかったから。


13 単純ね

フェアトリー(剣士):『じゃあ君は、ずっと病院のベッドに寝たままなの?』

 デリカシーもなにもない質問だったと思う。

ヴァルハラ(魔法使い):『そういったでしょう』

 すべてを話し終えた彼女は、またいつもの不思議な冷静さをたたえた表情をしているように見えた。もちろん、そんな風に見えるのは僕の錯覚に過ぎない。

フェアトリー(剣士):『ごめん』

 なにが、『ごめん』なのか自分でもよくわからないけど、とにかく僕は謝りたかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『私の彼も、去り際にごめんっていっていたわ。事故を起こしたドライバーも、私のベッドの横で土下座して謝った。自分も両腕にギプスをしているのにね。でもそれでなにかが変わる訳じゃない。一人にされる辛さが軽くなる訳じゃないし、失った手脚が戻ってくる訳じゃないの。必要なのは言葉じゃなくて、その言葉をいわせた気持ちをどれだけ大事に出来るかなのよ』

 中学生の僕はそれまで、ありとあらゆることが『ごめんなさい』で済まされていた。だから彼女が突きつけた、言葉ではなにも変わらないということが、とても怖ろしいことに思えた。
 僕はしばらくなにもいえなかったけど、彼女がそのまま消えてしまいそうだったので、思い切って口を開いた。

フェアトリー(剣士):『僕、がんばるよ』

 情けない言葉だと思う。
 だって僕ががんばるのは僕のためであって、僕ががんばったからって彼女の身体が元に戻る訳じゃない。それでも僕は、そう宣言しなければいけないような気がしていた。

ヴァルハラ(魔法使い):『単純ね』

 実際の彼女はどうだかわからないけど、ゲームの世界では僕の方が背が高い。にもかかわらず、僕は彼女に見下ろされているように感じた。

ヴァルハラ(魔法使い):『あなた、テレビで不幸な人の話を見ると、がんばらなくちゃって思うタイプでしょう』
フェアトリー(剣士):『うん』

 ずばりだった。
 癌に冒されたスポーツ選手の話とか、自分の子供の顔を見ることなく亡くなったお母さんの話なんかを見ると、僕は無性に自分が不甲斐なく感じられて、もっとしっかりしなければいけないような気になる。
 そういうのは安っぽいとか、薄っぺらいとは自分でも思う。

ヴァルハラ(魔法使い):『でもその単純さは、大切かも知れないわよ』

 ヴァルハラが笑った、ような気がした。

フェアトリー(剣士):『受験が終わるまで、ここには来ないよ』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう』
フェアトリー(剣士):『蒔高に合格したら、報告に来る』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう』
フェアトリー(剣士):『そのときまで、この世界を頼むね』
ヴァルハラ(魔法使い):『ええ』

 彼女は消えた。


14 佑子

 九月末に受けた模擬試験の結果は、十月中旬に返ってきた。判定は、またしてもDだ。
「だめだあ」という言葉をいわずにいられたのは、ヴァルハラにがんばると約束したおかげだと思う。
 僕は結局、夏期講習以降は塾に通うことはなく、自分で買ってきた問題集と参考書を頼りに勉強していた。それは祐子も同じだ。ただ恭介と睦美ちゃんは、週末だけの受験対策コースに通い始めていた。
 僕は祐子に頼んで、採点済みの解答用紙を見せてもらった。特に数学の証明問題、国語の作文は模範解答を見ても、どうやってそんな発想が出てくるのかわからない。だけど祐子の答案を見れば、なにをどう考えたのかわかるんじゃないかと思ったのだ。
「それなら、問題用紙も見た方がいいんじゃない?」と、祐子。
 そこにはたくさんの補助線や、矢印や、「テーマ」とか「本当に環境にいい?」などというメモが乱雑に書かれていた。
「こういうのいっぱい書いて、解答に取りかかるの?」
 僕は訊いた。
「うん。いくらわたしでも、いきなり正解は書けないわよ」
 以前なら、『いくらわたしでも』ってところに突っ込みを入れているところだけど、これだけ実力の差を見せつけられてしまっては素直にうなずくしかない。
 実際、僕のとは全然違う。僕の国語の問題用紙は、もう一回使えそうなくらいきれいなものだ。数学に至っては、「模擬試験受験上の注意」に従って持って行った定規とコンパスを使うことなく終わってしまった。
「祐子、頼みがある」
 そういって立ち上がったら、思いのほか祐子の顔が近くにあった。眼鏡のフレーム、ただの茶色かと思ったら、ちょっとグラデーションが入ってるんだ。
「な、なに?」
「祐子が解いた問題集、しばらく使わないのがあったらノートごと貸してくれない?」
 祐子は塾の先生の言いつけを守って、答えを問題集にではなくノートに書いている。そうすれば間違えた問題を何度も解き直すことが出来るからだ。
「いいけど、授業ノートじゃないから、字汚いよ」
「うん、知ってる。大丈夫」
 このあと、「そこは否定するところよ」としばらく輪ゴムで撃たれたけど、翌日には早速、問題集とノートを何冊か持って来てくれた。しかも、「わからないことがあったら訊いてね」というありがたいお言葉付きだ。そのすぐあとには、「入試が終わったらポッキーひと箱ね、段ボールで」というありがたくないお言葉が付いていたけど。
 僕は家に帰って、耳栓をしてから祐子のノートを開いた。
 耳栓をしたのは、両親が言い争う声が次第に大きくなってきていたからだ。それでもいまはまだ、僕の受験があるからと抑えているんだと思う。受験が終わったら、「ちょっと話があるんだけど」と、三人で居間のソファに座ることになるんだろう。
 でもいまは、そんなことを心配していても仕方がない。僕に出来るのは目の前の勉強をがんばることだけだ。
 僕ががんばったって、両親の離婚は止まらないし、ヴァルハラの身体は戻らない。でも僕に出来ることはこれしかないんだ。
 祐子のノートには、本当にすごい字で解答が書かれていた。幼なじみでなかったら、たぶん判読出来ないと思う。これをいうと、きっとポッキーひと箱では済まなくなると思うので、僕は永遠に黙っておくことにした。
 僕は祐子の考えた跡を忠実に追い、正解する人間がどんな風に考えるかを必死で学んだ。二週間経つ辺りから、祐子に借りるノートの文字が丁寧になり、メモ書きもより詳しく残されるようになってきて、祐子がまだあきらめずにいてくれるのがわかった。
「丁寧に書くとミスもなくなるし、わたしも整理しやすくなるから」とはいっていたけど、『重要ポイント!』とか、『ここ、ひっかかりやすい!』なんていう言葉が祐子自身のためであるはずはなく、僕はそれを読むたびに身が引き締まる思いがした。
 毎月行われる模擬試験の判定は、上がってきたとはいえCとBを行ったり来たりで、安心にはほど遠かった。祐子の方は学校推薦の話をなぜか頑固に断り続け、「私は実力で合格してみせるわよ」と鼻息を荒くしていた。どちらにしろ受かるんだろうから、早く受かって楽になっちゃえばいいのにと僕がいうと、手の跡が真っ赤に残るほど背中を叩かれた。
「まだ五ヶ月ある」はあっという間に「もう三ヶ月しかない」に変わり、ため息混じりの「あと一ヶ月」は飛ぶように過ぎて、入試当日はあっけなくやって来た。
 最後の志望校判定はCのままで。


15 お願い

 この地区の公立高校の入試倍率なんて、高くてもせいぜい1.2倍止まりだから、結局は受けた者勝ちだ。僕のように合否のライン上にいる人間は、当日になって慌てたりせず、いつもと同じように出来る問題を確実にこなしていけばいい。 同じ試験を受けているとはいえ、成績優秀な上位層を意識する必要はまったくない。同じような出来の受験生とどう戦うかの方が問題だ。そしてその鍵は、いかにミスを少なくするかだと僕は睨んでいた。
 出来るはずの問題を正解する。手も足も出そうにない問題は、他の問題を片付けてまだ時間があるようなら試しに解いてみる程度にする。
 この作戦が正しかったことは、合格者番号一覧に僕の番号があったことで証明された。僕の番号のすぐ近くには祐子の番号と睦美ちゃんの番号があって、恭介の番号だけが列を改めたところにあったから一瞬ひやりとした。
 メールで両親に合格を報告し、中学校に行って封筒に入った書類をもらった。みんなうやうやしく黄色い封筒を胸の前に抱えている。恭介まで両手でしっかりと封筒を持ち、何度も中身を確かめていた。去年の七月からかけ続けていた伊達眼鏡は、今日は家に忘れて来てしまったらしい。
 僕ら四人はマクドナルドでささやかな祝勝会をしたあと、家に向かった。
 睦美ちゃんは、「もうちょっと話してから帰るね」と、途中で恭介を引っ張ってどこかに消えた。睦美ちゃんにしてみれば、自分のためにランクをいくつも上げてトップ高に合格してくれた恭介は自慢の彼氏だろう。そのことが、自分の合格よりずっとうれしそうだった。
 僕と祐子は他愛のない話をしながら、並んで歩いた。
 小学生の時は祐子の方が背が高かったのに、いつの間にか、僕が祐子を見下ろすようになっている。
 肩が細い。
 手が小さい。
 この手で、祐子はたくさんの問題を解いて、僕にもわかるように注釈まで書いてくれた。
 塾や学校の先生に教えてもらえば、もっと効率的だったのかも知れない。でも、それじゃ僕は蒔高を受ける勇気は持てなかっただろう。
 じっと見つめていると、僕にはその小さな手がとてもいとおしく思えた。僕は小さい頃、なんの気なしにこの手を握っては、一緒に歩いたり、走ったりしていた。あの頃みたいに手を握るのは、もうきっと出来ない。もしいま祐子の手を握ったら、あの頃にはなかった想いがきっと伝わってしまう。
「ありがとう」
 僕はぽつりとそういっていた。
 なにが?という顔で、祐子は僕の顔を見た。
「ノート」
 そうはいったけど、本当はたくさんの勇気をもらったことに感謝していたんだ。
「ああ」と祐子はいった。なんだ、そんなこと、とでもいいたそうな口調だった。そして、「感謝の気持ちはポッキーで!」といって笑った。
 僕は、「よし!」と答えた。いろんな気持ちを込めて。
 家に帰ると、僕はニューロピックの電源を入れて、半年ぶりに「アナザーアース」にログインした。
 祐子にもらった勇気を持って、ヴァルハラに会いに行った。
 久しぶりの「アナザーアース」は変わりなく見えた。ユーザーの数は相変わらず多かったし、町もフィールドも賑わっていた。新しいダンジョンやミッションもたくさん追加され、ますます魅力的になったように思える。そのうちどれが本当の運営が提供したもので、どれがヴァルハラの手によるものなのかはわからなかった。
 僕はしばらく、なにもない海辺を散策した。以前より波の音がリアルになったような気がした。
 僕がログインしたのはわかっているはずだから、ヴァルハラがその気になれば、いずれ姿を現すだろう。それまでは気長に待つことにした。
 空にはカモメが舞っている。カモメたちは時々地表付近まで降りて来ては、風を捉まえて急上昇していく。
 この半年間の僕も、きっとあんな風だったに違いない。落ち込んだり、喜んだりしながら、とうとう最後には風を捉まえて舞い上がることが出来たんだ。
 そうやってカモメたちを眺めているところへ、音もなくヴァルハラが現れた。

ヴァルハラ(魔法使い):『おめでとう』

 僕は驚いた。僕が高校に合格したことを、どうして彼女が知ってるんだ?もしかしたら、受験情報にまでアクセス出来るとか?

フェアトリー(剣士):『どうしてわかったの?』
ヴァルハラ(魔法使い):『だって、合格したら報告に来るっていっていたでしょう』
フェアトリー(剣士):『ああ、そうか。でも合格したよって報告は改めて自分からしたかったな』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう。じゃあ、報告してみて』

 こんな白々しいこともないもんだと思って、僕はちょっと躊躇したけど、思い切っていってみた。

フェアトリー(剣士):『蒔丘高校に合格したよ』
ヴァルハラ(剣士):『おめでとう』

 そういって、彼女は笑った。それはプリセットにある「笑顔」ではなくて、とても自然な、ほころぶような笑顔だった。

フェアトリー(剣士):『それは、わざわざ?』
ヴァルハラ(魔法使い):『そうよ。今日のために、用意しておいたの』

 プリセット以外の表情を作るなんて、彼女にしか出来ないことだ。つまりこれは、この世界でたったひとつの笑顔ということになる。

フェアトリー(剣士):『良かった、それが無駄にならなくて』
ヴァルハラ(魔法使い):『本当ね。あなた、心配になるようなことばかりいってたから』
フェアトリー(剣士):『あはは』

 そうか、心配してくれていたんだ。そういえば、以前の彼女より、ちょっと優しくなった気がする。半年前の彼女だったら、きっとこんな風に笑顔になってくれたりしなかっただろう。
 その優しさに賭けて、僕はあの話を聞いて以来ずっと思っていたことをいってみることにした。蒔丘高校に受かったら、合格の報告とともにいおうと決めていたことだ。

フェアトリー(剣士):『あのね、ひとつお願いがあるんだけど』
ヴァルハラ(魔法使い):『なに?高校合格のご褒美ってこと?』

 そんなつもりはなかったけど、そういうことになるのかな。

フェアトリー(剣士):『君のお見舞いに行きたい』

 一瞬、彼女の動きが止まった。身じろぎひとつせず、じっと僕を見つめている。

ヴァルハラ(魔法使い):『あなたは、自分が高校に受かったからといって、惨めな私の姿を見る権利を得たとでもいうの?』

 そうじゃない、僕は彼女を見ても惨めだとか哀れだとかは思わないだろう。そうじゃなくて、僕はこの身を運んで、直接彼女に会いたかったんだ。蒔丘高校に合格させてくれたのは、応援してくれた友達やヴァルハラのおかげだということを、直接告げたかった。うまくいえないけど、それがいちばん、彼女に対する敬意を示すことになるような気がした。
 でも、それは僕の独りよがりな思い込みだったらしい。ヴァルハラはすっかり以前の彼女に戻ってしまったようだった。
 ところが、彼女はいった。

ヴァルハラ(魔法使い):『いいわよ、いらっしゃい。ただし、生半可な覚悟ではだめよ。腹をくくってから私のところへいらっしゃい』

 そういうと彼女は、僕の「虫の知らせ」に彼女が入院している病院の住所と、病室番号を送ってよこした。そして、高木光恵という本名も。


16 病室

 中央本線に揺られて東京まで行くのは、中学生の僕にとってはちょっとした旅行だ。
 高木さん——というのにはまだ抵抗があったから、僕の中ではまだヴァルハラだったけど——がくれた住所があっても、やっぱり東京はちょっと怖い。山梨にだって甲府とか、開けたところはあるけど、東京の街はちょっと違う。
 だいいち、地下鉄というのがハードルが高い。山梨で電車に乗っていると、多少気を抜いていても窓からの風景でいまどの辺りかを判断することが出来る。小海線に乗っているときなんかは特にそうだ。
 ところが地下鉄ではそうはいかない。常に緊張して駅名と自分の現在位置を照らし合わせていないと、あっという間に自分のいる場所を見失う。
 ましてや地下鉄の駅を出たら、もう完全に方向感覚がおかしい。僕は買ってもらったばかりのスマホをぐるぐる回して見たけど、結局その様子を見かねて声をかけてくれたサラリーマン風の人に助けられた。東京の人も、意外と親切だ。
 左腕と左足を失い、全身が麻痺した姿を人に見せるというのは、相当な覚悟がいることだと思う。もしかしたら顔の筋肉も弛緩していたりするかも知れない。そうなると、そんな顔を見られるのはたまらないことだろう。
 そしてそれは、見る側にも同様の覚悟を要求する。相手は寝たきりの、これ以上ないくらい無防備な姿をさらしている。こちらが中途半端な同情の言葉や憐憫の情なんて用意していこうものなら、あっという間に粉砕される。そうして浅はかな人間性をさらけ出されて、惨めになるのはそいつの方だ。
 ヴァルハラは、その覚悟をして来いと警告していたんだと思った。
 でも看護師さんに病室に通されて、固めてきたはずの覚悟がどれほど甘いものだったかを、僕は思い知らされた。
 個室のベッドに横たわる彼女は、点滴のチューブが右腕から伸びている以外、悪いところがあるようには見えなかった。確かに薄い掛け布団の下の左手と左足があるべき場所は不自然にへこんでいて、そこになにもないことを示しているけれど、彼女の顔色は健康そうだったし、人工呼吸器が付いているわけでも、口に管を突っ込まれているわけでもない。それどころか、うっすらと化粧をしているようにさえ見える。
「眠ってるんですか?」
 目を閉じたままの彼女を見て、僕は看護師さんに訊いた。
「もう一年以上も、意識がないままなんですよ」
 看護師さんはちょっと怪訝そうな顔をして答えた。知らなかったんですか、とでもいいたそうな表情だ。
 でもそんなのおかしいじゃないか。僕が彼女と知り合ったのは十ヶ月ほど前のことだし、この病院のことだってついこの間聞いたばかりだ。一年以上も昏睡状態だとしたら、僕は誰と話をしたんだ?
「全然、戻らないんですか?」
 僕は重ねて訊いた。
「ええ、先生方もいろいろ手を尽くしてるんですけど。以前もこういうことはあったんですけどね、でもそのときは身体に反応はなくても、ニューロピックでの応答はあったんですよ。それが今回は一年以上、呼びかけてもなにも返ってこないんです」
 看護師さんは、「面会時間は三時までですから」と言い置いて、部屋を出て行った。
 僕は買って来た花束を持ったまま、どうしていいかわからずに立ち尽くしていた。
 ヴァルハラに会いに行くとはいわず、東京で入院している知り合いのお見舞いに行くといったら、「花くらい持って行くんでしょうね」と祐子に釘を刺されて、わざわざ山梨から持って来たものだ。東京で買おうかとも思ったけど、どこに花屋があるのかわからないからこうせざるを得なかった。
 一本一本の切り口につけられた鮮度保持剤のおかげで、花はまだ生き生きとしている。目の前の彼女と同じように、意識を持たず、ただその身体だけがみずみずしさを保っていた。
「高木さん」
 僕は呼びかけてみた。彼女に意識がないことを確かめるように。
 ベッドに歩み寄る僕の腕の中から、何枚かの葉が落ちた。つややかな、生きたままの葉が。
 そのとき、女の人が一人、病室に入って来た。見たところ、僕の母さんより年上だ。
「あら、光恵のお友達?」
 たぶん高木さんのお母さんだろう。僕は、「はい」とだけ答えて、花束を渡した。
「まあ、きれい。光恵も喜んでるわ」
 高木さんのお母さんは、にっこりと笑った。そして高木さんの枕元に歩み寄ると、顔の前に花束をかざした。
 僕は高木さんのお母さんに、彼女とずっと前にネットで知り合ったといった。彼女が呼びかけに応答しなくなるずっと前にと。
「それにしても、光恵にこんなかわいいお友達がいたなんて。ああ、男の子にかわいいは失礼だったわね」
 そういって、お母さんはまた笑った。
 彼女は、高木さんは、ヴァルハラは、カーテン越しの柔らかい光を浴びて、静かに横たわっていた。


17 電子の魂

フェアトリー(剣士):『君は、誰なんだ』

 高校入試の終わってしまった中学校なんてあってもなくても同じようなもので、昼過ぎには卒業式の練習も終わってしまう。
 僕は急いで家に帰ると、すぐさま「アナザーアース」にログインした。昨日、夜遅くに東京から帰って来てのログインでは、一晩中探し回ってもヴァルハラは現れなかった。
 そしていま、彼女は僕がログインするなり姿を現した。場所は、あろう事か「アナザーアース」内の僕の家だ。

ヴァルハラ(魔法使い):『私は、あなたが見ているままのものよ』

 ほの暗いろうそくの明かりに照らされて、彼女の影が揺れていた。

フェアトリー(剣士):『そんな謎かけみたいなのはもういいんだよ。高木さんはこの一年、意識がなかったそうじゃないか。だったら君が高木さんであるはずがない』

 僕は混乱していた。混乱していたし、多少怒ってもいた。
 僕が蒔高を受けられるように背中を押してくれたのは目の前の彼女、ヴァルハラだ。でもそのヴァルハラの本体である高木光恵さんは一年以上意識がない。だとしたらヴァルハラは高木さんじゃない。ヴァルハラは高木さんの名を騙ってる。
 僕は昨日、誰に会いに行ったのかわからなくなってきていた。

ヴァルハラ(魔法使い):『謎かけじゃないわ。その通りの意味よ』
フェアトリー(剣士):『じゃあ僕の頭が悪くて理解出来ないんだ。でも君は高木さんじゃない。君は自分が高木さんだって嘘をついたんだ。説明してくれよ』

 このゲームのキャラクターがプレイヤーの思考と完全に同調するものだったら、僕の頭の羽は小刻みに羽ばたいて戦闘モードであることを示していただろう。でも任意に戦闘モードに切り替えない限り、そうはならない。

ヴァルハラ(魔法使い):『私が嘘をつくなら、どうしてそんなすぐばれる嘘をつくのかしら』

 現実世界の方の僕は、大きく息を吸って、自分を落ち着かせようとした。

ヴァルハラ(魔法使い):『あなたが病院に行けばすぐばれてしまうような嘘では、つくだけ無駄だと思うけど』
フェアトリー(剣士):『まさか僕が、本当にお見舞いに行くとは思わなかったんじゃないのか』
ヴァルハラ(魔法使い):『それなら本当の病院の住所なんて教えないわよ。私はね、本当に高木光恵だったの』

 僕には彼女がなにをいっているのかわからなかった。でもさんざん受験勉強をしていた僕には、ひとつだけわかることがある。彼女の言葉は、時制がおかしい。

ヴァルハラ(魔法使い):『私は高木光恵の、電子的な魂とでも呼ぶべきものよ。
 私の身体は、あなたも知っての通り、もう動かない。意識があっても、ニューロピックを使わない限り、外部と意思の疎通も出来ないわ。
 初めのうちは、ニューロピックを使って意思の疎通が図れるということは大きな喜びだった。でもニューロピックに接続してネット内にいる時間が長くなるにつれて、私の精神がリアルな世界と乖離していくのがわかったの。
 最初は、ネット内での情報処理速度と現実世界での処理速度とが違うからだと思った。検索エンジンを使ってなにかを探すとき、いったい何秒で答えが返ってくるか、あなたは知ってる?多くの人が意識していないけど、何秒なんてものじゃない。一秒の一万分の一、十万分の一単位の時間しかかからないのよ。
 それに引き替え現実世界ではどう?身体を拭いて欲しいとか、頭が痛いとかいっても、処置が始まるまでですら何分もかかる。
 その差に、私は我慢が出来なくなってきているんだと思った。
 でもね、あるとき気づいたの。ログオフしたあと、ネットで調べたことを思い出そうとしても思い出せない。ログイン中に考えられていたことが、ログオフすると考えられない。私は記憶や思考の一部を、データとしてどこかのサーバに置いてきているんだって。
 そのときから、私は意識してそれを行うようになったの。つまり、自分の心をネット上に置き始めたのよ。
 どうせ身体はもう動かないんだもの、それくらいのことはしてみてもいいでしょう。そうしたら、うまく行ってしまったの。私は、私の身体が意識を失っても、ネット上で意識を保てるようになったわ。
 だから、私は私であるものを全部ネットにアップして、身体から離脱したのよ』

 自分の喉が、ゴクリと鳴るのが聞こえた。

ヴァルハラ(魔法使い):『だから、あの身体はもう要らないの』

 そうか、それが彼女が「腹をくくってからいらっしゃい」といった理由だったのか。高木光恵の身体は確かにそこにあったけど、彼女はそこにはいなかったんだ。
 僕はあの病室で、高木光恵という名の、空っぽの入れ物に対面したんだ。

ヴァルハラ(魔法使い):『あの身体がなくなっても、誰も困らないのよ』

 でも、間違ってる。なんだかわからない。でもなにか間違ってる気がする。
 僕はそういった。

ヴァルハラ(魔法使い):『なにが間違ってるの?いつ死んでしまうかわからない身体を抜け出して、自由になったのよ』

 なんだろう、どうしてこんなに間違ってるって思うんだろう。

ヴァルハラ(魔法使い):『私は十分苦しんだわ。あなたは見ていないでしょうけど、布団の下の私の身体は醜い傷で一杯なのよ。胸だって、左側だけ抉り取られて存在しないの。ぴくりとも動かない身体を捨てて、ネット上で自由に生きることが、そんなに間違ってる?
 子供だって産めないわ。高校生のあなたにはわからないかも知れないけど、私と彼は結婚したら子供をたくさん作ろうっていっていたのよ。「あんまりたくさんだと私の身体がもたない」っていったら、「君は安産型だから大丈夫」って彼がいって、笑いながら喧嘩したこともあったのよ。
 その彼にまで捨てられて、私はもう十分苦しんだの』

 テキストが表示されるスピードが、いつもよりはるかに速い。まるで流れるようだ。彼女は苦しんだっていってるけど、そうじゃない。「苦しんだ」んじゃなくて、「苦しんでる」んだ。高校生にすらならない僕にだって、それくらいわかる。それにもうひとつだけ、僕にもわかることがある。

フェアトリー(剣士):『君が身体を捨てて出て行っちゃったら、君のお父さんとお母さんが悲しむよ』

 ヴァルハラのテキスト表示が止まった。さっきまでの言葉を頭上に浮かべたまま、彼女が僕を見つめていた。

フェアトリー(剣士):『君は知らないかも知れないけど、君のお母さんは、君が昏睡状態にある間も毎日病院に来て、君の身体を拭いたり、お化粧をしたり、髪をとかしたりしてるそうだよ。「年頃の娘がすっぴんでいるなんて、親の方が恥ずかしいわよ」って。
 お父さんには会わなかったけど、一切残業をしなくなったんだってお母さんがいってた。五時になるとなにがあっても真っ直ぐに君の病室に来るんだって。最初はかわいそうな娘のためだからって、会社の人も大目に見ていてくれたらしいけど、それが一年も続くとさすがに風当たりが強いらしい。「もう出世は無理ねえ」って、お母さんは笑ってたけど。
 お父さんもお母さんも、君がいつか目を覚ますと思って、ずっと待ってるんだ。君がさっさと身体から出て行っちゃったら、すごく悲しむと思う、たぶん』

 僕の言葉は、だんだん尻すぼみになって消えた。
 僕らは、黙ってお互いを見つめていた。
 彼女がなにを考えているのかはわからない。でも僕は、勝手なことをいい過ぎたと思っていた。彼女が自分の身体をどうするかは彼女が決めることであって、僕にどうこういう権利はない。それに、彼女が身体に戻ると決めても、その身体は動かないんだ。僕の意見はとても身勝手で、残酷なものだった。

ヴァルハラ(魔法使い):『目を覚ましても、私の身体はあんな状態なのよ』

 テキストが表示されるスピードが、いつものそれになった。

ヴァルハラ(魔法使い):『それなのに、あなたは戻れというの?』
フェアトリー(剣士):『戻るか戻らないかは、やっぱり君が決めることだと思う。でも、自分の子供が電子的に生きているより、どんな姿でも目の前にいて、息をして、さわれた方が、お父さんもお母さんもうれしいんじゃないかな』

 いつかずっと先の未来、人間は自分の魂を電子的に移し替えることに慣れるのかも知れない。そうやって思考だけの存在になって、永遠に生きることが出来るようになるのかも知れない。でも、いまはだめだ。いまはまだだめなんだ。
 僕らは誰かに触りたい。好きな人の手を握りたいし、触れ合って、自分の気持ちを伝えたい。僕にはまだわからないけど、それはきっと、親子でも同じなんだと思う。きっと、高木さんのお父さんお母さんも。

ヴァルハラ(魔法使い):『方法は、あるのよ』

 彼女は、めずらしく逡巡しているように見えた。

ヴァルハラ(魔法使い):『頸椎を人工のものに置き換える方法があるの。そうして、そのあと厳しいリハビリに耐えれば、なんとか日常生活を送れるくらいにはなるかも知れないって、お医者さんが説明してくれたわ』
フェアトリー(剣士):『じゃあ、それをやれば…』

 そんな方法があるのにやらずにいるヴァルハラの気持ちが、僕にはわからなかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『ひとつ問題があるの』
フェアトリー(剣士):『なに?』
ヴァルハラ(魔法使い):『失敗すると、死んじゃうのよ』

 僕は言葉を失った。外の闇の中から、風が草を揺らす音が聞こえていた。
 彼女が死んでしまう可能性なんて、考えてもいなかった。だから、僕はまだ子供なんだ。自分の考えの外にある可能性に、まるで目を向けていない。

ヴァルハラ(魔法使い):『成功する確率なんて、低すぎてあるんだかないんだかわからないくらいよ。この世界の魔法が使えれば、あっという間に治してみせるのに』

 なにもいえずにいる僕の前で、彼女はじゃらりと杖を振ってみせた。その途端、薄暗かった部屋の中に花が咲き誇った。床といわず、壁といわず、天井といわず、色とりどりの花があらゆる平面を埋め尽くした。

ヴァルハラ(魔法使い):『ひとつ訊いていいかしら?』
フェアトリー(剣士):『うん』
ヴァルハラ(魔法使い):『お母さんは、まだ私の頭を撫でてくれていた?』
フェアトリー(剣士):『うん』
ヴァルハラ(魔法使い):『そう。わかったわ』


18 手術

 意識をネット上に残しておいて、身体だけ手術してもらうという手は使えない。頸椎を交換する際に、神経接続がうまく行っているかどうかをテストしながら手術を行う必要があるからだ。
 完全昏睡状態では、このテストを行っても正常な反応が返って来ない。だから彼女の魂とでも呼ぶべきものは彼女の身体に、つまりは彼女の脳に収まっている必要がある。
 失敗すれば、彼女の魂は永遠に失われる。そして問題は、それだけではなかった。

ヴァルハラ(魔法使い):『もうずいぶんと身体から離れちゃってるから、戻れるかどうかわからないわ』

 脳というのはハードウエアであると同時に、ソフトウエアでもある。脳というマシンはソフトウエアを更新しながら、常にハードウェアも更新している。
 彼女の場合は、ソフトウエアだけを取り出してものすごい勢いで更新してしまっている。だからこれを戻そうとしても、ハードウエアとしての脳が受け入れてくれるかどうかわからない。
 これが数時間や数日間ならともかく、今回は一年以上にわたって彼女は身体を留守にしてしまっている。そのギャップは想像以上に大きい。
 身体に意識を戻そうという数度にわたる試みは、ことごとく失敗した。一度など、無理矢理押し入ろうとしたせいで、身体が激しいひきつけを起こしてしまったらしい。

ヴァルハラ(魔法使い):『これは、私が戻るというよりも、身体の中にある意識を目覚めさせることに集中した方が良さそうね』

 そう結論するまでに、季節はまた僕たちが出会ったころに戻っていた。
 その間僕は新しい制服に袖を通し、入学式を終え、初の中間テストで他の連中との実力差を改めて思い知らされていた。それでも腐らずにいられたのは、優子や恭介の存在とヴァルハラがあきらめることなく意識を取り戻そうとする姿があったからだと思う。
 彼女によれば、脳の中に残っている以前の彼女の心、いってみれば旧バージョンの彼女を再起動させて目を覚まさせるしかないようだ。しかしそのとき、頸椎の交換という手段に踏み切るという意志が旧バージョンの彼女に伝わるかどうかが問題になる。

ヴァルハラ(魔法使い):『思い切り情報を絞り込んで、頸椎を交換するんだということに意識に集中すれば、それくらいは伝えられるかも知れないわね』

 どのみち、賭けであることには変わりない。

ヴァルハラ(魔法使い):『だけど、困ったことがあるの』
フェアトリー(剣士):『なに?』
ヴァルハラ(魔法使い):『この世界のこと、忘れてしまうかも知れない』

 この世界。
 この世界でしたこと、全部。この世界にあるもの、全部。
 この世界にいる人、全部。

ヴァルハラ(魔法使い):『あなたのことも』

 それはとても嫌だった。僕は彼女ともっと話したかったし、これからも友達でいたかった。でもそんな思いを見せない程度には、僕は成長していた。

フェアトリー(剣士):『いいじゃない。僕のために身体を取り戻す訳じゃないんだから』
ヴァルハラ(魔法使い):『あなたが私のために高校受験したんじゃないように?』
フェアトリー(剣士):『うん』
ヴァルハラ(魔法使い):『嘘が下手ね、あなた』

 ヴァルハラは少し笑った。

ヴァルハラ(魔法使い):『実生活では気をつけなさいよ。あなたがばれてないと思っても、たぶんたいていの嘘はばれてるわ』

 僕の思っていることがわかってしまうのはきっと、ヴァルハラが年上で、特殊な存在だからだろう。いくらなんでも、そんなに簡単に嘘がばれてしまうほど、僕は単純じゃない。

ヴァルハラ(魔法使い):『行って来るわね』

 夜の海を背にして、彼女はいった。はるか彼方の水平線には、実物より十倍は大きな月が昇り始めていた。

フェアトリー(剣士):『うん、行ってらっしゃい』

 彼女はゆっくりと、いつもよりうんと時間をかけて消えていった。
 僕の手元にある「虫の知らせ」には、彼女の家の電話番号と、「手術前に、もう一度お見舞いに来て」というメッセージが残されていた。


19 行ってらっしゃい

「ええ、そうなの。光恵が突然目を覚まして、頸椎交換手術を受けるっていうのよ」
 高木さんのお母さんは彼女が一年以上経って目を覚ましたことにも、そしてちょうどそのタイミングで僕が電話してきたことにも驚いた様子で、受話器の向こうから言葉を伝えてきた。
「あら、幹人君、またお見舞いに来てくれるの?遠いから大変でしょう。気を遣わないでくれていいのよ。本当のところ、うまく行くかどうかわからない手術だし」
 それでも僕は強硬にお見舞いに行くと主張して、たまたま都合がついたのが彼女の手術当日だった。
 平日だったので、学校はサボることにした。
「明日ちょっと休むから」と祐子に伝えると、「なんで?」としつこく食い下がられた。
「ちょっと用事があるんだよ」
「どんな用事よ」
 どうしていちいち聞きたがるのか。僕は明日の授業のノートを頼みたかっただけなのに。
「東京で知り合いが手術を受けるから、そのお見舞いに行くんだよ」
「一人で?」
「うん」
「おじさんとおばさん抜きで?」
「うん」
 父さんと母さんの関係は、今のところ膠着状態だ。入試が終わってから祐子と恭介に相談してみたら、「うちなんてしょっちゅう喧嘩してるぜ」、「うちもうちも」と、さして心配してももらえなかった。もしかしたら、夫婦なんてそんなものなのかも知れない。
「ただネットで知り合っただけの人をお見舞いに行くの?」
「うん」
 ネットで知り合ったのは事実だけど、ただの知り合いというには、僕らは互いにあまりにもいろんなことを知り過ぎていた。
 などと考えているところに、祐子が大声を上げた。
「やっぱり!幹ちゃん、あの腐女子のところに行くんだ!知り合いのお見舞いじゃないじゃん!」
 ヴァルハラがいっていたように、僕は嘘はつけないらしい。
「腐女子じゃないよ。それに本当に手術をするから、お見舞いに行きたいんだ」
「そういうのって落ち着いてから行くものよ」
「手術前に来て欲しいっていわれてるんだよ」
「あやしい!幹ちゃん、壺とか買わされそうになってない?」
 僕はそんなに単純だと思われているんだろうか。これだけ簡単に見破られちゃうんだから、祐子の心配も当然か。
「印鑑とか通帳とか、持って行っちゃだめよ。それから必要以上に現金を持っていっちゃだめ。おやつは五百円までよ!」
 いまどき、どんな遠足だよ。
 僕ははいはいと適当に返事をして、それから「東京ばな奈」を買って来るという約束をさせられて、家に帰った。
 翌日、東京に向かう電車は季節外れの大雨のせいで遅れに遅れた。中央本線は何度も発進と停止を繰り返し、途中の駅からはドアが開いても誰も乗って来られないほどの乗車率になった。
 僕は二ヶ月前に来た道を、雨に濡れながら走った。手術開始に間に合うことだけを祈って。
 傘など差して歩いてはいられない。そんな悠長なことをしていられる時間はなかった。びしょ濡れになって、中まで水浸しになった靴が気持ち悪い。それでも僕は、病院に向かって走り続けた。
 袖で顔をぬぐいながら、僕は病院のロビーを駆け抜けた。エレベーターを待たず、階段でヴァルハラの病室に向かう。時計を見ると、もう手術開始時刻はとっくに過ぎていた。
 それでも、病室にたどり着くとそこには彼女と、彼女のお父さん、お母さんがいた。冠水による通行止めのせいで、担当の先生の到着が遅れているらしかった。一刻を争うというわけではないから、看護師さんたちも比較的のんびりしたものだ。
 僕は初めて、目を開けている彼女を見た。
「聞こえる?」
 病室に入るなり、僕は訊いた。
『ええ』
 彼女の枕元にあるディスプレイに、文字が浮かんだ。これが本来のニューロピック。脳波を検出して、外部とのコミュニケーションを可能にする装置。彼女の心と誰かの心を繋ぐ機械。
「僕のこと、わかる?」
 しばらくディスプレイにはなにも現れなかった。そして、『ええ』の下の行に、新しい文字が現れた。
『ごめんなさい、誰だったかしら?』
 彼女は、僕を覚えていない。
 予想されていることだったから、悲しくはなかった。ただ、ちょっと残念だった。本当は、すごく残念だった。頭から水滴が流れ落ちてくれているのが、ありがたかった。
 僕はお母さんが差し出してくれたタオルで頭と顔を拭いた。頭より、顔を拭くのに何倍も時間がかかった。
 ようやく顔を上げると、彼女は困ったような顔をしてまだ僕のことを見つめていた。僕はなにをいっていいかわからなくなって、ただ一度頭を下げると病室を出て行くために彼女に背を向けようとした。
 そのとき、目の隅でディスプレイに新しい文字列が浮かび上がるのが見えた。
『次は、あなたの番』
 僕は半身になった変な姿勢のまま、何度も何度もその文字列を読んだ。僕も驚いたけど、彼女の方がもっと驚いたような顔をしてディスプレイを見つめていた。

『この世界にも、魔法はあるわ』

 なおも言葉を綴り続けるディスプレイを見て、彼女の表情は一層怪訝になった。でもそのまま、それ以上ディスプレイには新しい言葉は現れなかった。彼女の目が、僕の顔とディスプレイとの間を何度も行ったり来たりしていた。
 ヴァルハラは、もういなくなった。現実世界にほんの少しだけ現れて、それこそ魔法のように消えてしまった。
 僕は、急いでタオルで顔を拭いた。また雨の滴が流れてきたからだ。嘘じゃない。
「準備が出来ました。手術室にご案内します」
 看護師さんが彼女を連れて行った。
 行ってらっしゃい、がんばって。
 君はあの月が昇る海で『行って来るわね』っていったんだから、行きっぱなしじゃだめなんだ。ちゃんと帰って来なくちゃ。
 ヴァルハラとしてではなく、高木光恵として帰って来なくちゃ。

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