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[創作小説回顧録]人魚の腕時計

古いハードディスクを整理していて見つけた自作のショート・ショートです。自分が書くような種類の小説ではないのでおそらくお題が決められていたのでしょう。時期的には20年くらい前だと思います。
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「人魚の腕時計」

 瑠璃子は自分が不器用で地味で器量も平凡な女性であることは自覚していた。中堅商社に勤めて2年になるが、仕事も失敗が多く上司から毎日のように怒られている。
 そんな瑠璃子でも二十三歳の妙齢の若い女性である。恋人位いて良いのだが、引っ込み思案の性格が災いし、学生時代を通じて今まで恋人が出来たことはない。好きになった男性がいても手をこまねいて見ているだけで、何の進展もなかった。
 現在も好きな男性がいる。社内の二年先輩でスポーツマンで仕事の評価も高く、社内の女性陣の間でも評判の男性である。しかし相変わらず瑠璃子はただ溜め息をつくばかりで言葉さえ交わした事がなかった。
 昨日も仕事で大失敗をした為今日の休日も朝から落ち込んでいた。少しでも気分が晴れるかと期待して、海辺の崖っぷちまで出てみた。ここは、子供の頃からよく遊びに来る場所である。崖からは果てしなく広がる海が見え、岸に打ち寄せる波の音が聞こえた。
「このままここから落ちて死んでやろうか」瑠璃子は冗談交じりにそう呟いた。
 その時突風が吹いたかと思うとあたりが深い靄に包まれた。目を凝らすと人影があった。いやそれは人間ではなく、下半身は魚の形をした所謂人魚のように見えた。目の錯覚かもしれないが、その人魚はちらりと瑠璃子の方を見た。そして靄と共にかき消すように消えた。ふと地面に目をやると時計が落ちている。銀色の腕時計である。あの人魚が置いていったのであろうか。夢でも見ていたのであろうか。馬鹿馬鹿しく思いながらも、時計が余りに美しかったので拾って左手に巻いた。
 翌日から瑠璃子は大変身を遂げた。明るい声で挨拶し、屈託のない笑顔を披露し、的確に仕事をこなし、水が流れるように流暢に自分の意見を語った。社内を颯爽と歩き、容姿、顔つきまで垢抜けして見えた。たちまち社内で評判になった。
「一体最近の瑠璃子君はどうしたのかな。別人のようだ。仕事もできるけどいい女になったなあ」
 そんなような噂があちこちで飛び交った。瑠璃子は、小気味良くてしょうがなかったが、全てあの腕時計のお陰だと信じていた。人魚がくれた腕時計。何か特別な魔力でも持っているのだろう。事実この時計をしていると全身が躍動感と爽快感に包まれる。自分が女優にでもなったような気分だ。あれ以来、寝るときも時計はつけたままである。
 そんなある日、ついに憧れていた先輩と食事の機会を持つことが叶った。それも先方からの誘いである。瑠璃子は有頂天になり精一杯お洒落をして豪華なレストランで食事を楽しんだ。無論銀色の時計を身につけてである。
 二人はすぐに恋人同士になった。二人で食事を楽しみ、山へ海へとドライブに出かけた。瑠璃子にとってみれば一ヶ月くらい前の自分と比較すると夢のような世界であった。このまま永遠に自分は銀色の時計をつけたシンデレラなのだと思った。
 ところが意外な形で時計は失なわれた。
 その日も恋人と二人で海でのデートだった。二人は朝からボートにのって海上でのランデブーを楽しんでいた。ある時、少し船が大きく揺れちょっとした弾みでボートの縁先に左手をぶつけて腕時計を海中に落としてしまった。瑠璃子は青ざめて必死に探そうとしたが深瀬で潜るわけにもいかない。仕方がなく諦めたが、時計を無くした瞬間から身体の力がすっと抜けていくような喪失感に襲われた。
 それからまた以前の瑠璃子に戻ってしまった。仕事の要領が悪く、地味で不器用な瑠璃子に。社内は、度重なる変貌にまた噂で持ちきりになった。恋人とのつき合いも、妙によそよそしくなった感じがした。瑠璃子は、魅力のない自分に戻ったから、相手が嫌になったのかも、と思い無性に悲しくなった。
 もう私たち駄目かしら、と思い始めた頃、ある晩電話が鳴った。恋人からだった。
「大事な話があるから今夜これから会ってほしい」
 別れ話かもしれない、瑠璃子はそう思って待ち合わせのいつものレストランに向かった。恋人はいつもの席で待っていた。そして瑠璃子が席に着いた途端リボンのついた小さな白い小箱を差し出して言った。
「結婚してほしい」
 瑠璃子は唖然とした顔つきで箱を開けた。中には、無くした時計とよく似た銀色の腕時計が入っていた。
「指輪は高いから時計にしたんだ」
 瑠璃子は無言で頷くと時計を強く握りしめながら恋人に肩を寄せて泣いた。
 
 数日後、海岸に銀色の腕時計が打ち上げられているのを近所の女子大生が見つけて拾った。針は十時四十六分を指していた。

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