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ほめるって、きもちわるい!?

わかっちゃったあとと、前と。わたしの小さな世界は、大きく違ってしまった。そのひとつに、ひとの承認欲求=認められたい、ほめられたい気持ち、があります。

認められたくて、ひとは生まれてくるのはほんとう?

これは、当然だと思われていますが、じつはそうじゃない。その認められたいというのは、どこから来るのかという話です。
こどもが二人いて、子育てをしていると、いろんなことに気づき驚きます。そのひとに「承認欲求」があります。じぶんのことを認めて欲しい、だれにでもある感情だと思うのですが。でも、それは自我が確立してから、の話なんですよね。だって赤ちゃんって、認めてくれ!なんて思ってないです。
とても驚いたことがありました。これはわかっちゃう前、赤子を育てていてわかったことです。

認められたい。そんな風に、人間は生まれていない?

ムスメが1才8ヶ月の時です。
私が重たくて持ちづらく運びにくい荷物を玄関に運ばなければいけなかったとき。とれちゃいけないガムテープがとれちゃった。「あ!」って感じで。みんな大人は手がふさがっていました。それを見ていた彼女がとっさに取った行動は、「ガムテープをとってきた」でした。そして、「はい」と私に渡してうれしそ〜にしたのです。私が「ありがとう〜!」と、言う前です。
すごくすごく、おどろいた。2才にもならない、ろくに話もできない赤子が、そんな風に人を「助ける」こと。それをごく自然に「うれしそうにした」こと。もともと私はすごく細やかにいろんなコトをキャッチするタイプなので、その後アレはいったいどういうことだったのかと考えました。

助けたい!って、役に立ちたい!の方が先?

褒められることをまだ知らない幼児がとった行動。それは、あきらかに困った人を「助けたい」「役に立ちたい」だった。そこにあるのは「純真」、ほんとうにピュアな気持ちです。ピュアなこころからくる行動です。その証拠にご褒美が欲しくて、褒められたくて、だったら「とっさに」は動けないでしょう。ましてや2才前です。
ああそうか。役に立ちたい、助けたい。これは、人間があらかじめ持って生まれてくるものなんだと。すごく腹落ちしたのです。つぎに浮かんだ言葉は、性善説です。人間は生まれながらにして「善」である。ああ、なるほどなと。このことを言っているのだと。

追記:対となる言葉には性悪説があります。人間は生まれながらにして「悪」だ。だから善を学び、徳を積むのだ。です。
どっちも本当だと思います。わたしが性悪説のひとを「知らない」だけかもしれないw。なぜなら言葉は、「必要だから」あるし、今も使われている。言葉は、そもそも伝えるために生まれたものだしね。

褒められたい気持ちって、いろいろじゃまするみたいです。

人間の欲、でしょうね。早い話が。
人のために役立ちたいと生まれてきたのに。褒められる、ご褒美があるとわかったら、そっちが「欲しく」なる。役に立ちたい、助けたいは、とてもピュアな感情の近くにあります。「瞳が濁る」なんて言いますが、大きくなると、邪気がどうしても多くなります。知恵も働きますからね。
褒められるためにはどうしたら良いかと考えるようになる。褒美=報酬の近くにありますからね。

褒められたい、それは、自分には手に入らない「モノサシ」です。

わかっちゃって、わかったこと。それは、褒められたいという「承認欲求」は、他人に委ねられている、という事実です。それでがんばる、ことも、ひとつありますが。実はこれはとても危険なのです。

なぜ褒められたい欲が、危険なのか?

褒めるかどうかは、【相手次第】だからです。相手に、自分の評価やじぶんの【ありよう】を、委ねていると言うことだからです。つまり、相手が自分のことを褒めない、評価しない、となったとたんに「自分の価値」はどうなりますかね。もしかしたら、ほぼゼロってことになりませんか?
褒められた! うれしかった! 親も喜んだ!! そうなったら、「褒めて褒めて」と、ひとはなります。褒めないヤツは、オレの価値の分からないヤツ!なんて言い出します。でも褒めるというのは「自分に軸がないんです」。だからきりがない。いつまでたっても満足しないと言うことになります。

だからこそ自灯明。

阿難(アナン)尊者
お釈迦様の臨終のお世話をしたのは、多聞第一と言われた阿難(アナン)尊者です。十大弟子の一人で、多聞とはお釈迦様の説法を一番多く聞いた人という意味です。尊者はお釈迦様に聞きました。「お師匠様亡き後、私は何をよりどころにいきてゆけばいいのでしょうか。」お釈迦様は伏せたまま、「自灯明 法灯明」と答えられました。

自分をともしびとして、自分をよりどころとして生きていきなさい。
法(真理・お釈迦様の教え)をよりどころとして、他のものをよりどころにしてはいけません。

自灯明は、お釈迦様の言葉です。自分が灯りになりなさいということ。そうすれば、褒められたい、もなくなるし、褒められたからうれしい!もなくなります。自分が灯りなのですから、褒められないことへの不安もありません。そこに、なんの心配も不安もない。自分が、自分で立っている。光を放っている。もう迷うことはありません。私は、私でいいのだ。という感じでしょうか。
自灯明。この感覚は、わかっちゃってから、よくわかるようになりました。仕事上に起きたちょっとした事件(私にしては大事件)が、まるで北極星のようにこれから先もずっと、仕事をしていく私を照らし続けると確信したからです。

いまわたしは、自灯明という言葉の通りに、生きています。たとえだれに評価をもらわなくても、ちっとも不安はないのです。仕事が来なくなるようなことがあるとしたら、「日本語がなくなった」または、「その仕事がなくても良い世界がやってきた」というのがその理由でしょう。そうこころから思えるのが、いま、です。


最期まで読んでくださって、アリガト!

わかっちゃった、ことを、伝わるように一生懸命書こうと思います。難しいことはわかりやすく、わかりやすいことは興味深く、伝えたいです。みんなをよくしたいというピュアな思いで書いています。みんなが活き活きしてくるのを見ると、うれしくて。