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もっと早くに訪れるべきであった。

っと云っても「風の谷」ではなく、大阪は太子にある「磯長山 叡福寺」のことです。長らく南河内の地の民なれど、此処には参詣したことがありません。ふと、小学生のころ亡くなったばあちゃんに連れられ、南海電鉄で高野山は奥之院によくお参りしていたことを思い出しました。が、現在に至るまで独りで寺社仏閣を廻ることはありませんでした。

余談の長谷寺参詣

今年は紫陽花の頃、アクセルを踏みこんでも中々登ってくれないダイハツのタントで竹ノ内峠を越えて「長谷寺」まで家族とお参りに行きました。
例の「あぢさゐ回廊」は〇時間待ち( ゚Д゚)で人の頭しか撮れませんでしたがね…。いゃ、そもそもInstagramで上がっているような構図は朝一で並んでダッシュで行かないと撮れんのだと思います(知らんけど)。

数少ない参拝客のいない通り。
先の「登廊」はあぢさゐ回廊目当ての長蛇の列。
6月の長谷寺にて。
本堂の有名なフォトジェニック~なシーンは芋の子洗い状態なので断念。
そもそも巧い方たちが沢山撮っているので敢えて残さんでもなので…。
この日もフルサイズの良いカメラを携えてた人がいっぱい。
ワタシは小さな相棒XZ-2を片手にウロウロ。

奥さんと娘は御朱印帳が手に入って満足していて、結果オーライです。沿道も活気に満ちていますが、激狭相互通行で警備員が規制している区間があります。紫陽花の頃に行くなら、ほんとに車が動かないので時間に余裕を持って出掛けてくださいね(近くの駅からレンタサイクルってあるのかな?)。

いざ叡福寺へ

ということで(どういうこと)、初詣の「観心寺」とお礼参りの紀州有田の「太刀ノ宮」ぐらいしか参拝しないワタシのですが、久々のポタリングで単身、聖徳太子ゆかりの地を訪れました。(と云って変速なしのミニベロでも15分程の近場。まったく恵まれたロケーションだこと。)

道中の河川敷では、少年野球のチームが練習中。石川沿いにはすごい数の練習場が点在しています。隣では「おっちゃんズ」も頑張っています。それにひきかえワタシは、ボルダリングはしなくなるわ、筋トレもサボるわ、身体カチコチです。

若さと体力が羨ましい。
その「羨ましい」頃はサッカー部を数週間で辞めているので、
人生何周しても同じことをする気がする…。

堤防を挟んで一面の田んぼが色づき始めています。そうこうしているうちに刈入れ、そして夜は肌寒くてじっとしているのが辛くなる頃には南河内地方のだんじり祭りです。

マイクロフォーサーズの14mm(28mm相当)にて
基本交換レンズは持ち歩かないが、
せっかくなので防湿庫で寝ている超広角でも撮りたかった。
一部刈り取られているのかな?

なんて道草をしている間に叡福寺に到着。祝日ということもあり人出の方が気になります。大きい法要の時には、相当人が集まるようですが今日はどうでしょうか?

南大門から中へ

見出しの画像にしている南大門が正面入り口となります。階段しかないので、足腰に不安がある人や、車いすの人は「松井塚古墳石棺」の横を抜けて入ることになります。ワタシは階段を使いましたが少し息が上がったのはポタリングの影響なのか何のなのか…。

登り切ったところで、金剛力士像が寺院を守っています。

正面奥に見えるのが聖徳太子御廟
阿形?かな
吽形?かな

門をくぐると、左手に重要文化財の宝塔があります。

宝塔
これは南大門の手前より

この日は人影もまばらで、たまに家族連れの参拝を見かけます。とくにイベントが無いからでしょうか。落ち着いて散策が出来ます。

と言いたいところですが、この日はお嬢のお迎えを約束してしまっていました。わざわざそんなスキマ時間まで出かけなくても良さそうなものですが、その頃は出る間がなかなか作れずだったので、お散歩がしたくて辛抱できませんでした(犬みたい…。)

なので見どころが沢山あるお寺なのですが、弾丸ツアーのように御廟にお参りして取って返しました。
なのであまり撮影スポット紹介は出来そうにありません。
まぁ折角なので少しですがご紹介を

とても広い境内
龍の手水鉢と奥の二天門
参拝者も少なくゆったりとした時間が流れる
二天門の階段

階段を登った先に聖徳太子御廟があります。
直径54・3m、高さ7.2mの円墳。横穴式石室で、太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟です。(叡福寺公式ページ)

二天門の両側には増長天と持国天がいて、御廟を守っています。

増長天
持国天

そして、いよいよ聖徳太子御廟です。

聖徳太子(574~622)は、用明天皇の第二皇子として誕生しました。母は欽明天皇の第三皇女の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。太子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹で、蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたるため、蘇我氏とは血縁関係にありました。私たちが呼んでいる「聖徳太子」という名前は、彼の功績を称えて後世の人々が呼称したもので、生前の名前は厩戸王(うまやとおう)でした。名前の由来は諸説あり、厩舎の前で生まれたからとも、地名からとったとも言われています。

奈良県ホームページより

ということで、聖徳太子は皇子なので宮内庁治定陵墓となっているので宮内庁の管轄だそうです(今調べた)。

聖徳太子御廟

大乘会法要の時とか人がすごいんだろうな
実際見たことないけど
二天門からの眺望
長閑だぁ~

おまけ写真

南大門の向かいで屋根の改修工事をしていました。
なんにしても「職人」って云ふかどの業界でもプロフェッショナルってカッコイイですね。

本文と全然関係ない一枚

現場の技術って継承されないと大工に限らずどの業界もどんどん衰退しそうで心配。
なんでもシステマティックになって、労働時間の切り売りみたいになると寂しい。
プロフェッショナルー仕事の流儀ーとかプロジェクトXが大好物。

ワタシは心理学部を出て紆余曲折があり、公認心理師になるまで、いっとき建築関係で図面仕事もしていました。「心理」で飯を食うのは大変な時代でした。(いまも大概えげつない業界やけどねぇ~)修士課程まで進んでも仕事の確約は無いし。そもそも自分が数学やらなさ過ぎて、統計学がチンプンカンプンでお茶を濁して逃げていたので、多分、いゃ確実に大学院の試験は落ちていたでしょう。まぁ、心理に限らずそっち(建築)はそっちで大概の社畜っぷりでしたが。(たまに現場には行っても屋根は登んないけど。そもそも高いところは竦んでプルプルしちゃうから向いていない。ボルダリングはそんなに高くないから大丈夫。)

そう云へば初めての職場では(「写ルンです」が普通にあった頃)はあまりカメラに興味はなかったのですが、光学メーカーが使う鏡筒関係の金型の精密加工をしていました。設計部門を希望していましたが配属されず。(後から知ったが地獄の設計と呼ばれ中々の修羅っぷりで、仮に回されても病んでただろうなぁ)レンズがそれ程解っているでもなく。「Canon」とか「Nikon」なら知っていましたが、部品図の「TAMRON」を見てタム…ロン?タムロンって何?って云いながらプログラムを組んだり、切削したりしていました。人生どこでどうなるか分かりません。

今回のポタリングを振り返って

今までは寺院巡りや園芸鑑賞は年配者の趣味のイメージがあったので自分から進んですることはありませんでしたが(いゃ十分おっさんになってしまった)、こういう過ごし方も良いもんだと思った次第です。
全然紹介しきれませんでしたが、叡福寺は沢山見どころがあります(知らんけど)。近畿圏の方で(もちろん遠方の方も)「次は何処撮ろうかなぁ」と思案中なら、一度訪ねてみては如何でしょうか。

では、皆さんもどうぞ素敵な写真ライフを。


叡福寺について(公式ページ)


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