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自分らしさを尊重する学びをを実現するための一手『奈良女の教育』に学ぶ信の教育観(後編)~「自分らしさを尊重する学び方」とは?~ー『日本人のこころ』24ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


修学旅行が終わり、
ほっとしているのも束の間、
ありがたいことに教科書を編纂する役割をいただき、
さらに主任として任せていただいている仕事も
真摯に向き合い、ためらうことなく自分の信じる道を
進んでいきたいと思います。

そのために大切なことは、
我が国の伝統文化、
先人たちが大切にしてきたこころを見つめなおし、
子供たちをどのように導いていくのか?
日本国の子供たちがどのように伸びようとしているのか?
ここに着目することだと思います。

そのために、
今回の奈良女子大学附属小学校の実践から学んでいきましょう。

今回も、よろしくお願いいたします。







1)100年続く「奈良の学習法」とは?


『令和の日本型学校教育』における
「個別最適な学び」と「協働的な学び」の往還を実現する。

そのために我が国の実践資産を考えたときに、
やはり思い浮かぶのは、
大正期に
奈良女子高等師範学校附属小学校(現在の奈良女子大学付属小学校)
が確立した
「奈良の学習法」だと思います。

「奈良の学習法」という独特な表現は、
どのようにしたら子供にうまく教えることができるのだろう?
という教授法ではなく、


子どもはどのように学び育つのか?

学校や教育者はその学びをどのように支えることができるのか?

この2本を柱に日々の教育実践や教育研究を推進しようとする
教育者の思考を象徴しています。
奈良女子大学附属小学校は、
この「奈良の学習法」を100年以上の長きにわたり取り組み
続けてきました。

その根本精神とでもいうべき
「学習即生活」「生活即学習」の言葉に表れているとおり、
子供たちの生活そのものを学習の場とし、
子供の全人格を一体的に発達・成長させる
べく、
その教育の在り方を模索し続けています。




「奈良の学習法」においては、
一人一人が自立的に学び進める「独自学習」
仲間と共に協働的に学び合う「相互学習」を大切にし、
学習過程としては、


「独自学習」→「相互学習」→「独自学習」という流れ


を理想としてきました。

今でも、
まずは「独自学習」で各自が学び深めることが基本となっており、
丸1時間、
場合によっては数時間をかけて一人でじっくりと課題や教材と向かい合い、
納得がいくまで考え抜いたり調べたりする学習になることも
少なくありません。

一人静かに沈思黙考して課題と正対すること
また、その過程において必然的に生じる自己内対話は、
子供の学びや成長にとってとても重要な経験となります。

そのような深く真剣な「独自学習」によって、
自分としては一定の結論を得て、
もうこれ以上は考えられないという地点にまでたどりつき、
子供が同じく懸命に「独自学習」に取り組んでいる仲間の考えを
聴きたくなる。




この段階で、
「相互学習」を設定すれば、仲間の意見に真剣に耳を傾け、
自分自身の学びとのすり合わせの中で生じた感想や疑問を率直に語り合う。

だからこそ、「奈良の学習法」では、
「相互学習」による授業を通常の「話し合い」ではなく
「聞き合い」の授業と呼んできました。

仲間の考えを聴き、自分の意見も聞いてもらい、
相互におたずねや応答、
そこで見えてきた問いをめぐっての議論なども活発になされる中で、
「独自学習」で気づくことができなかった点や、
改めて調べたり考えなおしたりすべき事柄が明らかになっていく
のです。

だからこそ、
「相互学習」がひと段落すると、
子供たちが再度の「独自学習」へと向かっていきます。

仲間との「聞き合い」でわかったこと、考えたこと、
疑問に思ったことなどを整理し、
もう一度、自分の世界に没頭して、自分に対して誠実に、
さらなる学びを深めていくのです。

個別的な「独自学習」と協働的な「相互学習」は、
相補的で相互促進的な関係にあるのです。

「相互学習」が深まるには「独自学習」の充実が必要不可欠であり、
また「相互学習」を通すことで、
「独自学習」はいっそうその子らしい確かなものになっていく
のです。



2)自分らしさが尊重される『しごと』『けいこ』とは?



自分らしさが尊重されるからこそ、
子供たちは自分から学んでいく
のです。

例えば、体育科の器械運動では、
一人一人の課題を追究する姿が見られます。

器械運動は、克服的要素の強い学習のため、
「開脚跳びができるようになる」などのように技の習得を目指すことを
主眼とした学習になることが多いです。

教員は、学級にいる様々な段階の子供に合わせた
スモールステップやつまずきの乗り越え方を示した学習カードを
準備して授業に臨みます。

しかし、
「開脚跳びができる」という一通りの学びしかない学習の中では、
『頑張らなくてもすぐに開脚跳びができる』子供は優れていて、
『頑張ったけど開脚跳びができるまでに時間がかかった』子供は
運動が苦手という意識が固定されてしまいがちです。

結果として、
小学校のや体育学習で、運動のセンスがないとわかったから、
運動にかかわらないで生きていこうという子供を生み出してしまうことも
多いでしょう。

奈良女では、子供一人一人の「自分らしさ」を尊重するために、
「開脚跳びができるようになる」というような
個別の内容(コンテンツ)に着目するだけではなく、
多様な資質・能力(コンピテンシー)を重視
して見定めているのです。

器械運動であれば、
跳び箱だけではなく、マットや平均台やろくぼくなど、
たくさんの器械器具を用いて、

その子なりの動きを作り出すような学習を行っています。

運動能力の高い子は高い子なりに自分にできる精一杯の動きを目指し、
運動能力の高くない子もその子なりに精一杯の動きを目指します。

「この子の学びは自分にとって最も追究しがいのある課題を見せているところがいい」

「この子の学びは、かだいについての自分の現状と友達の様子を見比べて、
課題解決の方向を見つけ出すことができているところがいい」

など、
一人一人が自分が追求したい、その子に合わせた課題を設定することで、
一人一人に合わせて個別最適に評価できるように、
多様な価値観で学びを見取ることができるように学習することを
重視しています。

個別最適な学びを実現するために、
学びの中で一人一人の学びの文脈に沿って、
子供の実生活に即した切実な問題
学びを進める取り組みをしているのです。




「奈良の学習法」で、
最も個別最適な学びな現れる活動が
『しごと(生活科、総合的な学習の時間)』の学習です。

例えば、
「奈良公園の鹿」に着目した学習を進めるとします。

奈良市内に在住する子供たちであれば、
奈良公園の周辺に鹿が住んでいることはよく知っています。

市内を循環するバスに乗っていて、
街中を鹿が歩いている光景を見ている子供が多いです。

教科書の中だけのどこか架空の学習ではない、
子供たちにとって身近な題材として、
『奈良公園の鹿について調べよう』という学習を立ち上げます。

そして、
子供たちはそれぞれに自分に合った文脈で学習に入っていきます。

お家の人にしかせんべいを買ってもらって、
おそるおそる鹿にあげた経験から学習に入っている子供がいれば、
土産屋の前にたくさんの鹿の糞が落ちていてそこを歩くのが嫌だった
ことから学習に入る子供もいます。

子供たちはそれぞれに自分の文脈で追究を進めることができるので、
様々な追究の報告がなされるようになります。

多くの観光客が鹿を見に集まってくること、
土産屋ではしか関する土産物を多く販売していること、
鹿の糞がそこら中に落ちていて不潔だと思われること、
鹿が道を渡ったり寝転んだりして迷だと思われること、などなど
「奈良公園の鹿」の様々な事柄が、
報告した子供だけではない学級の子供たちの中に浸透していきます。

そして、
『奈良公園の鹿は人間にとって必要なのか?』というような
問題も浮かびあがっていきます。

学級のみんなで確認し合ったことの中で、
「鹿が道路を横断するから、
車はブレーキをかけて止まらなければならない」ことに着目した子供は、
「鹿はいない方がいいのではないか」と考えます。

反対に、
「鹿がいるからこそ、観光客が集まっている」と考えた子は、
「鹿がいないと人間は困る」と考えを進めます。

鹿についての様々な事柄を学級で共有し合う中で、
どの子も「自分はこのように考えている」という文脈を伴う
学習問題を設定していく
のです。

学級のみんなが共有できる「真の学習問題」を模索し続けることで、
どの子も切実に自分の学習だと思うことができる学びになっていくのです。




「奈良の学習法」では、
『しごと』学習として取り上げるだけでは抜け落ちてしまう
それぞれの領域ごとに系統的に取り扱うことが望ましい内容を
『けいこ』学習として位置付けています。

この『けいこ』学習では、
それぞれの領域に特有な見方・考え方を重視し、
その領域の系統等も重視して学びを進めていきます。

いわゆる各教科にあたる学習です。

『けいこ』学習においても、
より子供たちの実生活に近い、
一人一人の子供が自分の文脈で学習に入っていくことができることを
重視して取組を進めることが多いです。

例えば、
算数科の単位量あたりの学習では、
教科書の問題文では、
「単位量あたり」を考えるために必要な数字などのみが
提示された算数科の学習に特有な文脈の問題文となっています。

そこで、
子供たちの実生活に即した文脈に伴わせるために、

『小学校にコインパーキング「奈良女パーキング」をつくるなら、料金をいくらに設定すればよいか』


という問題を設定した実践があります。

まず、子供たちは、
それぞれに学校周辺のコインパーキングの料金設定や、
どのような車が止められているのかなどを調べて報告し合います。

子供たちが「単位量あたり」ということを学ぶためには、
集められたたくさんの情報の中から必要な情報と必要ではない情報を
取捨選択しながら考えを進める必要が出てきます。

一見、「単位量あたり」を理解するためには効率が悪いように見えますが、
子供たちは自らが必要な情報を取捨選択するからこそ、
実生活の中で活用可能な学びとなっていくのです。

さらに、
『奈良女パーキングの料金設定を考える学習』では、
一人一人の子供が、個別に自分ならではの考えを紡ぎやすいという点も
あります。

ある子供は、
「60分300円とした方が、もしも60分を1分超えて駐車した人がいれば、600円の料金になるから儲けが出る」と考えます。

すると、
「附小パーッキングのお客さんには保護者が多いと思う。個別懇談とかなら30分から60分ぐらいで終わると思うから、30分150円にした方がいい」

とパーキングの利用者を想定して自分の考えをつくる子供も出てきます。

「私が調べたパーキングには、工事の車が多く停まっていた。
工事の人たちは、短時間では幼児が終わらないから60分とかの料金の方がいいと思う」

というように、
ターゲットにする利用者が違えば、
望ましい料金設定が変わってくることも議論されるようになります。

「10分停めただけでも300円とられるのなら、
僕なら20分100円のところに駐車する。
その方がお客さんを集められると思う。」

と、
1回の儲けの多寡よりも集客力の違いを考慮するべきだ
という考え方も出てきます。

「単位量あたり」の視点から見れば、
どれも同じと結論付けられる内容でも、
実生活の豊かな文脈の中で進む学習では、
子供たち一人一人が個別の自分の考えを紡ぎ出すことができます。

奈良女で行われている「個別最適な学び」は、
多様な子供たちがそれぞれに個別最適な学習材を準備するのではなく、
多様な子供たちがそれぞれに自分の文脈で迫ることのできる、
具体的な文脈や状況を豊かに含んだ学習を模索する
ことで
実現できることを大切にしていました。

自分の精いっぱいの考えを紡ぎ出して論じたからこそ、
短期的な記憶の学びではなく、

自ずと印象深く長期にわたって記憶される学びとなり、
特定の教科だけではなく、他の学習にも転移できる学びとなっていく
のです。


3)自らを創るための『めあて』『振り返り』『日記』『朝の会』とは?


子供が自分らしい学びを実現するためには、
教化領域等に特有な見方・考え方を「学びの道具」として
活用することができる
とともに、
子供自身が、
その学習に関する自分自身の状況などを分析的に見つめる力を高めることができるようにする
ことが大切です。

そのために、
「奈良の学習法」では、
『めあて』『振り返り』『朝の会』『日記』を重視しています。

一般的に「めあて」というと、
その時間に子供たちが学習するべき課題を指すことが多いです。

奈良女における『めあて』とは、
「一人一人の子供が「自分はその時間どのように学習をしようとするのか」を見定めることを指します。

一人一人の子供の『めあて』は、
初期の段階では、

「僕は、今日の算数で間違えないように頑張りたいです」

というものも多いです。

しかし、
このような「めあて」では、
その子がその時間に何を学ぶべきかを意識できていないことが分かります。

だから、
いつでも使うことができるような「めあて」では不十分なのです。

教科等の特有の見方・考え方を生かして、
その時間に学ぶべきことを明確に意識できるようにするための
『めあて』
が必要になります。

「今日は、2ケタ+2ケタのひっ算のやり方を考えます。
前の時間は一の位が繰り上がっていたけど、今日は、十の位が繰り上がるところが違うと思うので、繰り上がりのやり方を確かめたいです!」

「今日も、たし算のひっ算をします。前の時間、僕は繰り上がりの書き方がよくわかりませんでした。だから、今日は、繰り上がりをどこに書けばいいのかを確かめたいです!」

とその時間に学ぶべきことを的確にとらえる力をつけることを
目指していくのです。

これから学ぼうとすることについて、
自分がどのような状況であるのかをみつめたうえで、
どのように学びたいのかを考えられるような力を育むことが大切なのです。

このように
一人一人の子供に自分の『めあて』を具体的に見つめる力が育ってくると、
自ずとその学びにその子なりの文脈が伴うようになっていきます。

学習の『振り返り』を行う場面では、


①その時間に学ぶことはどのようなことだったのか?
②そのことについて自分の状況はどのようであったのか?
③だからどのようにして学ぼうとしていたのか?


のように、『めあて』としていたことを踏まえて、
自分の学びがどのようであったのかを振り返ります。

毎時間の『振り返り』を重視することは、
一人一人の子供に自分の学びの文脈がどのようなものであったのかを
強く意識させることに他なりません。

だからこそ、
教科書を活用しての学びにおいても、
自分の学ぶ意味を見出し、
自分の文脈で学ぼうとする力が育っていくのです。




『めあて』と『振り返り』を充実させていくことが、
それまで漠然としていた学びへの意識を、
対象や方法を見極めて自律的に学ぼうとする意識へと変えていきます。

このような自分らしさを尊重して学ぶ姿は、
『日記』『朝の会』の取り組みを通してさらに強化されていきます。

奈良女では、
それぞれの時間ごとに自分の『めあて』を意識して学習に臨みます。

そして、
その都度自分の学びを振り返り、自分自身の学びの文脈を見つめます。

そのようにして、
一日の終わりに『日記』をつづるときに、
自ずと強く印象に残った学びの文脈を想起します。

友だちの考えがどのようなものであったのか、
そのことについて自分はどのように考えたのか、など
短時間の『振り返り』ではできなかった思考も進んでいきます。

学級の学びを俯瞰したり、現在捉えている問題点を見つめなおしたり、
時にはこれからの学びの方向性を思いついたりすることもあるでしょう。

『日記』をつづる習慣の中で、
これまでの学びの文脈を再構成し、メタ認知的視野も働かせて、
その後の学びの方向性も見通すような力を育むことができます。




奈良女では、1日を始める『朝の会』の元気調べとして、
子供一人一人が自分のことを一言話す時間を設けることが多いです。

子供たちは常に自分の生活の中で
「何かみんなに話せることがないか」
自分の生活に目を向けて過ごしています。

当然、
前日に『日記』に綴りながら深めた考えを話すことも多いそうです。

「はい、元気です。昨日、繰り上がりの書き忘れを防ぐ方法を思いつきました。今日の算数の時間に試してみたいです!」

などと、みんなの前で話すことで
自分ならではの学びの文脈への意識が強く印象づいていきます。

「奈良の学習」では、
『めあて』『振り返り』『日記』『朝の会』を習慣づけることで、
子供たち一人一人が自分の学びの文脈を意識できるように
育むようにしています。

そのようにすることで教科書に示された問題に向けても、
一人一人の個別最適な文脈で学びに入っていくことができる力を
育むことができると考えているのです。




一人一人がめあてを設定し、
それを解決するために独自学習を黙々と進めていく。
独自学習の後は、相互学習で調べてわかったことや分からなかったこと、
疑問に思ったことを聞き合う。

友だちの考えにおたずねをしたり、
新たな自分の考えをつけ足ししたりする。

そのようにすることで、発表した子供の思考が深まっていく。
このような独自学習と相互学習を繰り返す中で、
学習がどんどん進んでいくのです。

学習の主体は子供たちで、
子供たちは優れた学習者であるのです。

その思いが形として表れているのが
奈良女子大学附属小学校なのです。

このような先生方の願いを受けて、
子供たちは本当に楽しそうに学びます。

自分の知らないことを教えてくれる仲間の話を
ワクワクしながら聞いています。

このような姿が主体的に学んでいる姿といえるのではないでしょうか。


学びってもともと
「なんか気になる」とか「なんか楽しそう」という
知的好奇心を満たしたり、知る楽しさを得るもの。

学校教育の役割は、
みんな同じように能力を高め、
平均点を上げることではない。
それぞれに個としての能力を高め、
自分の持ち味を自覚し、社会の中で自分をうまく活かせる能力を養うこと



そのための教育技術が奈良女子大学附属小学校には凝縮されているのです。



次回は、
奈良の教育から学ぶ『信の教育観』について考えていきたいと思います。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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