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心の豊かさを取り戻すための一手『伝統文化茶道』に学ぶ詫び寂びの教育観(完結編)~茶道に学ぶ侘び寂びの教育観とは?~ー『日本人のこころ』37ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


執筆活動も進み、
いよいよ第9弾「伝統文化・茶道」に学ぶ詫び寂びの教育観
集大成です!


多忙な日々や過度なストレスで
心が苦しい時にヒントになるのは、
同じように悩み、考え、実行し、学び続けてきた先人たちの
叡智に触れることだと考えています。


今回は、
1000年以上我が国の中で育まれ続けてきた
伝統文化・茶道から今の時代に活かすことができる
考え方を学んでいきましょう!

今回も、よろしくお願いいたします。





トップエリートたちは、
なぜ、茶道の精神に魅了され、
ビジネスや日常に取り入れ、大成功を収めたのでしょうか?




1)茶道の基本精神『和敬清寂』とは?




「茶道」の基本精神は、
『和敬静寂』という言葉で表現され、
「和やかな心、敬い合う心、清らかな心、動じない心」
いう意味があります。

『和敬静寂』にはある逸話があります。

ある時、
侘び茶の祖といわれる村田珠光に、
将軍である足利義政が
「茶の湯の精神とはどのようなものなのか?」と尋ねました。

その時に、
珠光が


「茶の湯は心穏やかに、相手を敬い、礼を尽くす。和敬静寂の心です。」


と答えたと言われています。

それは、


「茶を点てる主人と客がお互いの心を和らげて、つつしみ敬い、
 お茶っや茶道具だけではなく心をも清浄な状態に保ち、こだわりのない境地に達することこそが茶道の精神ですよ」


という意味を表しています。

この『和敬静寂』は、禅思想とも深くつながっています。

禅も心静かに自分を見つめなおし、
自分の中の欲を捨てて清らかな心となり、
周囲の人々と接することを良しとしています。

その後、
千利休が『和敬静寂』を茶道の基本的な心構えとしての
「四規」として示したことで伝わり、
茶道のお稽古やお客様になった時などに思い出し、
心して励むようになりました。




『和』は和合、調和を表します。

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉がありますが、
全ての人、もの、ことを尊重し、
お互いに心を開き思いやることが大切であるという意味です。

お茶をともにする人たちの「和」を生み出すことが
茶道の目的の一つでもありました。




『敬』は尊敬、敬意を表します。

自らを謙虚に慎み、他者を敬い、人にも、ものにも礼を尽くし、
大切に扱うことです。

「実るほど頭のさがる稲穂かな」

これは、松下幸之助さんがおっしゃられた
どんなに立派になった後にも、
人とあった時には自ら先に名刺を出し、腰低くする姿勢を示したものです。

かけがえのない人として、
謙虚に相手を敬う心があってこそ、
相手からも敬愛されるのだと思います。




『清』は清潔、清廉を表します。

目に見えるものだけではなく、
心の中も清らかにするということです。

表面的な者の汚れは目に見えて、
すぐに掃除することができますが、
心の汚れは見えないですし、気が付きにくいものです。

だからこそ、
茶道を通して自分の心の汚れやわだかまりに気づき、
清めようとすることが大切です。

茶道のお点前では、
袱紗(ふくさ)という布を使ってお茶道具類全てをきれいに清めます。

その時に、
自分自身の心も整えて、清めていくといわれています。

海外の人たちからは、
日本人は清潔できれい好きと言われ、
それは道徳心とも通じているのです。




『寂』は静寂、閑寂を表します。
何事にも動じない心をもつということです。

最近は、
情報や時間に追われ、
私たちの心も落ち着きなく、ざわざわとしていることが多いかと思います。

茶道では、
心静かに落ち着いてお点前を鍛錬することで、
この動じない「寂」の心が育ちます。

考えが異なる人々がともに生きていくためには、
お互いを認めて、大切に思いやり、
ゆとりある心や丁寧に過ごす生活が必要なのではないでしょうか。

心が揺れて落ち着かないと感じたときには、
茶道の静けさと安らぎの中で、
自分と向き合い心を整えることが大切なのです。



2)わが国独自の美意識『侘び』『寂び』とは?




また、
茶道は、禅宗と深く関わり、
『侘び』『寂び』という精神文化を生み出しました。


『寂び』とは、
時間の経過とともに古くなり、色あせ、錆びて劣化していきますが、
逆に古くなることで出てくる味わいや枯れたものの趣ある美しさ
を表しています。


例えば、
銀などは時を経ることで、
色味や風合いが変化して落ち着いた味わいになります。

先人たちは、
時間とともに移ろいでいく様を愛でて、
そこに美意識を見出してきたのです。


『侘び』とは、
さびを美しいと思う心や内面的な豊かさを表しています。


例えば、
ゆがみや壊れなど、姿かたちが整っていないものでも、
個性として独自の魅力を見出し、不完全なものを面白がるというものです。

『侘び』は、室町時代に茶の湯と結びついて発達しました。

「侘び茶」の創始者といわれる村田珠光は、
高価な「唐物」の美術品鑑賞を貴ぶ茶会に対して、
より簡素な道具を用いる静寂な茶の湯へと変えていきました。

華麗なものを一切そぎ落として精神的なものを重視することが
『侘び』の概念となりました。




明治時代に
岡倉天心が『茶の本』の中で、


「茶道の根本は、不完全なものを敬う心にあり」


と記しています。

この不完全なものという表現が『侘び』をよく表していて、
我が国の美意識として世界に広まりました。

茶道においては、
この『侘び』『寂び』の精神を大切にしています。

静かなお茶室で、
一椀のお抹茶を点てることにのみ集中することで心を落ち着かせ、
自分自身と向き合い、精神を高めていきます。


3)その日一日いちいちを大切に生きるということ




利休百首といわれるものの中に


「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなることと知るべし」


と読まれたものがあります。

この歌は、
茶の湯はお湯を沸かし、
お茶を点てて、
ただいただく
という茶道は決して難しいものではなく、
日常生活を元にしている教えであるということを伝えています。

しかし、
簡単に見えるものこそ難しい。

心が落ち着かずイライラしている時に点てたお抹茶は苦みが強く、
同じお抹茶を使っても、
心が落ち着いていて優しい気持ちで点てたお抹茶は、
甘みがあり、まろやかな味がします。


一服のお抹茶といえども、
その日の心の在り方で随分と変わるものです。

これは、
私たちの日常生活や仕事、勉強でも言えるのではないでしょうか。

毎朝同じ時間に起きて、
車に乗り、
会社で代わり映えのしない同じ生活があるのではなく、
その簡単で単調に見えるものをどのような心持ちで過ごすのかで
半年、一年後が大きく変わるのではないでしょうか。


その日一日一日を大切に生きること。


それこそが、茶道の重要な精神なのです。




それは、「一期一会」という言葉にも表されています。

『一期』とは、仏教語で「一生涯」を表し、
『一会』とは、「ただ一度の出会い」を意味しています。

つまり、
「一生涯でただ一度の出会い」をいいます。

その日に出会った人とは、
今後もう二度と会うことはできないかもしれないので、
その人との時間を大切にしましょう。

と多くの人が解釈しているようですが、

この言葉の本当の意味は少し異なります。


「たとえ毎日顔を合わせる家族や友人、同僚であっても、
 その日その時の出会いは一生に一度だけであり、
 二度と同じ日や機会が戻ってくることはありません。」


という意味なのです。


この言葉は、
千利休の弟子のひとりである山上宗二が記した『山上宗二記』の中に
「いつもの茶会であっても、臨む際は一期に一度のものと心得て誠意を尽くせよ」といった一文が
最初であると言われています。

そして、
この言葉を広めたのが江戸幕府の大老で、
茶人でもあった井伊直弼です。

著書である『茶湯一会集』の中に次のような文章があります。


「そもそも茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、
 今日の会に再びかえらざることを思へべ、実にわれ一世一度なり。」
(たとえ同じ人と何度も茶会で同席する機会があっても、今、この時の茶会は一生にその日ただ一度のこと。
 二度と同じ時に戻ることはできない。だから一回一回の出会いを心を尽くして臨まなければならない。)


と述べています。

「一期一会」という言葉は、
お茶会に限らず、実生活でも役立つ生き方だと思います。

私たちの人生は、出会いの連続です。

家族や友人、同僚などさまざまな人たちとの出会いがあります。

たとえ、
毎日同じ人と同じ場所で、何度出会いを重ねても、
やはり毎日が「一期一会」で同じ日はなく、戻ることもできません。

今日という日はかけがえのない一日だと感じることができれば、
いつもの平凡だと思ている日常が違って見えるのではないでしょうか。


その日一日を大切に目の前のことに一生懸命向き合っていく。
自分を、周りの人たちを、時間を、大切に誠意をもって生きる。
現代の心が落ち着かない時代だからこそ、
「一期一会」の出会いを大切に、
丁寧に生きることで、
自分自身を輝かせることができる


のです。





心がざわざわと不安になったり、
悲しくなったり、嬉しくなったり、
心の状態で元気になったり、病気になることもあります。

毎日忙しくて時間がない。
心に余裕が持てない。

パソコンやスマホ、仕事に追われて疲弊している。

今、私たちが一番求めていることは、
心の平静、安定ではないでしょうか?

目には見えない心の汚れや曇りを
我が国の伝統文化である「茶道」で整えて、
癒してみてはいかがでしょうか。

季節の花を飾り、
繊細で美しい和菓子をみて味わい、
茶筅でお抹茶を点てる心地よい音を聞く。

お茶碗のぬくもりを感じながら、
自分のために点てた一椀を軽く目を閉じながらいただく。

普段の生活とは全く違うゆっくりとした時間の流れを感じ、
心を整える。


「ものの豊かさより、心の豊かさ」


これからも先人たちから受け継がれた大切な伝統文化とともに
これからの日本をつくっていきましょう。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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