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自らの生き方を見つめなおすための一手『先人の生き方』に学ぶ誠の教育観(後編)~世界に広がる和の精神とは?~ー『日本人のこころ』32ー

こんにちは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


8月は、
講演会の準備、指導案作成、教科書編纂、学習会、
そして、執筆活動、「日本が好きになる」シリーズのspaceなどなど…
やりたいこと、やるべきことがたくさん詰まっており、
一日一日があっという間に過ぎてしまう日々を過ごしております。

休みの中でも生活リズムを整え、
体調も整えて、息子や妻と過ごす時間も大切にしながっら
過ごしていきたいと思います。


さて、
今回は、わたしが日本に生きる全ての人に伝えたい先人たちの
「日本人のこころ」を凝縮した内容になっております。


ぜひ、最後までお読みください!
よろしくお願いいたします。






ここまで、「修身教育」「道徳教育」との違いについて、
我が国の道徳教育の歴史を明治期の学制発布から現代までを紐解くことに
より見てきました。
「修身教育」は謀略により廃止せざるを得ませんでしたが、
「修身教育」でも行われていた
先人の生き方から価値を見出すような学習の進め方は、
現在の教科化された道徳科でも生かすことができる考えています。

次は、
世界で活躍した先人たちの歩みをいくつか取り上げることによって、
我が国に失われつつある和の精神について
見つめなおしていきたいと思います。



1)台湾と日本との絆~「和の精神」を伝えた八田與一さんの話~





2011年3月11日、東日本大震災。

多くのかけがえのない命、
そして当たり前のように過ごしてきた里山や漁港での人々の
生活や思い出が一瞬にして失われました。

その被害の大きさが報道されると、世界中に衝撃が走り、
人々は悲しみに暮れました。

そのように傷ついた我が国に、
世界中の国から義援金や支援物資が届けられ、
我が国のために寄せられた支援にどれだけの力をいただいたでしょう。

そして、
世界から寄せられたあたたかい支援の約3分の1を占めたのが台湾でした。

台湾からの支援は、日本赤十字社が把握しているだけでも
義援金は200億円以上、支援物資も400トンを超えます。

日本赤十字社を通さない支援が何倍もあり、その合計は計り知れません。

東日本大震災が起こった当時、
台湾の人口は約2300万人(我が国の約5分の1)、
平均年収は約160万円だったと言われていますので、
どれほど我が国のことを考えてくださったのかということが
伝わってきます。

では、
なぜ台湾の方々はわが国に対して
このような温かい気持ちをもってくださっているのでしょうか?

実は、

1895(明治28)年から1945(昭和20)年までのおよそ50年の間、
台湾は日本国だったのです。

よく誤解されがちですが、
先の大戦以前の台湾を日本は植民地にしたのではありません。

インド人がイギリス国民の扱いを受けず、
あくまでもインド国民だったのは、
イギリスの植民地であったからです。

この当時の列強は、
このようにアジアの国々を中心に植民地化していました。

しかし、
我が国は、あくまでも「日本国」「日本国民」として、
台湾も朝鮮も統治していたのです。

そのような日本統治時代において、
台湾の人々のために尽力し、
今でもなお台湾の方々に愛されている日本人がいます。




それが、土木技師の八田與一さんです。

1886(明治19)年、
八田與一さんは石川県金沢市の大きな農家に生まれました。

東京帝大工科大学土木科に進学し、勉学に励みました。

大きな現場で人々の役に立つ仕事がしたいと、
大学卒業後、日本統治下にあった台湾にわたり、台湾総督府に勤めます。

そこで、
上下水道の設計や工事をしたり、
かんがい事業で米の収穫量を4倍に増やしたりと、
台湾の近代化に大きく貢献する仕事をしていました。

台湾の嘉南平野は10万ヘクタール以上もの面積をもち、
香川県ほどの大きさです。

しかし、
雨季には洪水、乾季には干ばつ、
海岸近くは砂にしみた塩のために作物が育たないというほど
手に負えない荒れた土地でした。

そこに住む農民のほとんどは貧しく、
将来の生活を悲観していました。

八田與一さんは


「水を安定して供給すれば、この地を豊かにすることができる。川の上流の烏山頭にアジア最大のダムをつくろう。ダムから水を引き、平野全体に給排水路を張り巡らせよう。」


と立ち上がりました。

しかし、
計画が壮大なだけにお金も膨大にかかります。

まずは、
80人の部下を引き連れ、ダムをつくる場所の調査を行いました。

熱帯の酷暑とマラリアなどの病気と闘い、山々を何度も駆け巡りました。

苦心の末、
ついに国会で総予算4200万円、
期間6年という計画が認められたのです。

1920(大正9)年、
アジア最大の大土木工事が始まりました。

計画は、当時多くの人々に無理だと言われ、馬鹿にされました。

それほどの大事業だったのです。

大工事にあたって、
與一さんはこれまでになかった3つの方法を取り入れました。



1つ目は、「セミ・ハイドロリック・フィル工法」です。
土と石の組み合わせでコンクリート以上の強度をもつ堤防を造る特殊工事法で、世界でまだ誰も取り入れたことのない者でした。


2つ目は、「大型土木機械を数多く取り入れたこと」です。
操作できる者はいませんでしたが、
「機会を使って早く工事が終われば、早く費用が回収できる」と反対する者たちを説得しました。


そして3つ目は、「ダムをつくる労働者や家族のためにまちづくり」です。

與一さんは、
「良い仕事は、安心して働くことができる環境から生まれる」
と考えていました。

住宅をはじめ、商店、市場、病院、学校、浴場、弓道場、
テニスコート、プールなどをつくり、
山奥の烏山頭に小さくとも活気あるまちをつくったのです。

「働く者は、日本人も台湾人もみな同じだ」と家族で烏山頭に引っ越し、
ダム工事を行う日本人と台湾人2000人も移り住みました。

「働く人間を大切にすることが、工事の成功に結びつく」
という考えを貫きました。


しかし、工事は苦難の連続でした。

トンネル工事でガス爆発が起こり、
日本台湾合わせて50人以上の死者がでるという事故があったのです。

與一さんは、
陣頭指揮を執り、原因究明と遺族へのお見舞いに奔走しました。

事故によって工事は中止に追い込まれるかもしれませんでしたが、


「それでも、工事の続行を許してください。このダムは台湾の人々の暮らし
を豊かにするために、絶対に必要なものなのです。」


と遺族に心からのお詫びをしたうえでこのように語り、
誰もが心を打たれ、工事の続行を了承しました。

失われた命の重みと、遺族から託された思い。

これらが工事関係者の心を一つにして結束がさらに強まりました。

そして、
1930(昭和5)年に、10年の歳月と5000億円の費用をかけ、
ついに烏山頭ダムをはじめ、1万6000㎞の水路、
分水門や発電所など4000もの施設からなる
「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」が完成しました。

大圳とは、大きな農業用水のことです。

この「嘉南大圳」はなんと万里の長城の6倍、
地球半周にあたる長さでした。




この世界に類を見ないほどの大掛かりな土木工事によって、
台湾の農業は飛躍的に発展し、農民たちの暮らしは豊かになりました。

しかし、
八田與一さんが戦後80年経った今もなお台湾で愛され続けているのは、
「台湾の人々の暮らしが豊かになった」という、
経済的な理由からだけではありません。

八田與一さんは、10年という気の遠くなるような年月をかけて、
苦労に苦労を重ね、大事業を見事に成し遂げたのですが、
実は最大の難関が予想外のところに潜んでいたのです。

黒部ダムができるまで烏山頭ダムは東洋一の規模を誇ったのですが、
嘉南平野があまりに広いためにたとえダムが満水になっても
3分の1の土地しか潤すことができませんでした。

もちろんこのことは設計段階から分かっていたことで、
この難題を解決するために、
嘉南平野の農民たちにある提案をしました。

それは、
「嘉南平野を3つに分け、1年ごとに水を送る地域を変える」
ということでした。

それぞれの地域は、
水が供給された年には水を大量に必要とする稲作を行い、
水が供給されない年には、水をそれほど必要としない
サトウキビやイモや雑穀を順番に栽培します。

ところが、
他の作物に比べて格段にお米の値段が高いために、
輪作に反対する農民が相次ぎました。


「ほかの土地なんてどうでもいいから、
自分だけは毎年お米を作れるようにしてほしい」

という訴えがあちらこちらから湧いてきたのです。

しかし、
八田與一さんは次のように語りました。


「嘉南の農民みんなで豊かになることが大切であり、
 そのために利益も痛みも分け合いませんか。」

と。

農民たちは、最後は與一さんのいうことを聞くしかありませんでした。

なぜなら、
工事期間だで10年、設計期間も入れたらそれ以上、
毎日ほとんど休日も取らずに、朝5時半から夜11時まで働き続ける
與一さんの姿を目の当たりにしてきたからです。

八田與一さんの提案通り、輪作に励んだ結果、
嘉南平野に住む60万人の農民はみんな豊かになりました。

「自分さえよければ…」

「今さえよければ…」

という思いを端において、
少しでいいからみんなのこと、そして次の世代のことを考える。

そのようにして痛みも悲しみも分かち合い、
喜びや利益も分かち合うことで
みんなが豊かになっていくということを台湾の人々は経験したのです。

このかけがえのない経験が、台湾人の美徳を育みました。

台湾には、
「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉があります。

時間や約束を必ず守る、勤勉で誠実で、親切で、
自分の仕事に誇りを持っている、
みんなのことや次の世代のことを考えることができる。

それが「日本精神のある人」なのです。

八田與一さんが台湾でこれだけ愛されている最大の理由は、

台湾人にとって與一ささんの存在こそが、
「日本精神の象徴」だからなのです。

日本が統治する以前の台湾は、
衛生環境が悪く病気が蔓延し、
農業生産も低く、世界一貧しい地域の一つでした。

人々は、教育も受けることができず、
それどころか部族が違えば、言葉も通じないという有様でした。

1895(明治28)年、
日本と清国の間で下関条約が結ばれ、日本の台湾統治が始まると
日本人はまず学校をつくって、台湾の人々に教育の場をつくりました。

そして、
衛生環境を整えて人々の生活を向上させ、
警察制度をつくって治安を安定させ、
さらにダムや水路をつくってインフラを整備し、
農業をはじめとする台湾の産業発展に尽力しました。

終戦と同時に日本の統治は終わりますが、
台湾には、かつての日本の統治を肯定的に考え、
今もなお日本に感謝の気持ちをもっている人が多く、
その感謝の気持ちが、
東日本大震災後の支援につながったのではないでしょうか。

台湾の人々がこんなにもあたたかく、
そして深い思いを日本に寄せてくれている。

かつて日本人を見て、
台湾の人々はそこに美しいものを感じたのでしょう。

それを「日本精神」と呼んで、
戦後もずっと大切に継承されてきました。

今を生きる私たちに「日本精神」は息づいているでしょうか。



2)トルコと日本との絆~「和の精神」を伝えた大島村人々の話~





1980(昭和55)年、
国境紛争が続いていたイランとイラクの間で戦争がはじまりました。

イラン・イラク戦争です。

この頃、
イランの首都テヘランには世界の先進国が出資した会社が
220社以上ありました。

もちろん日本の会社も多く、
家族と一緒にテヘランで生活をしている日本人も大勢いました。

1985(昭和60)年になると、
イラン北部がイラク機の爆撃にさらされるようになり、
不安が広がっていきました。

そして、
3月18日、イラクのサダム・フセイン大統領は驚くべき声明を出しました。


「イランの上空は航空禁止区域とする、3月20日午前2時以降、
 イラン上空を飛ぶすべての航空機は攻撃対象になる。」


テヘラン上空を航空する飛行機は、
この40時間後から、どこの国のものであろうと撃墜するというのです。

この時点で、
テヘランに在住する日本人は、およそ500人もいました。

イラン側がイラクの首都バグダッドにミサイル攻撃を始めてしまい、
事態はますます悪化するばかりです。

当時の我が国の航空会社は、イランとの間に定期便をもっておらず、
自衛隊が海外で活動できるという法律もなかったので
イラン在住の日本人は、
外国の航空会社を利用して帰国するしかありませんでした。

連日、多くの日本人が航空券を握りしめ空港に詰めかけますが、
どの航空会社も自国民の救出を優先するために、
帰国できる日本人は1日数十人という厳しい状況が続いていました。

タイムリミット前日の19日には、
多くの便が軒並み欠航です。

日本航空は、救援のための旅客機成田空港に準備しましたが、
我が国の外務省とイランの日本大使館や在留日本人会との
打ち合わせが遅れ、タイムリミット前の救出に間に合わなくなって
しまいました。

結局、
日本航空は、「帰る際の安全が保証されない」という理由でテヘランに飛ぶことを断りました。

万策尽きた現地の日本人は絶望でパニックに陥りました。

テヘランの日本人は、どうなってしまうのでしょう。

刻々と時間が過ぎ、タイムリミットまで残り1時間50分と迫り、
テヘランに取り残された300人以上の日本人が諦めかけていた
その時、
空襲警報が鳴りやまないテヘランのメヘラバード空港へ颯爽と乗り入れる
2機の旅客機がありました。

これこそ、日本人たちを助けるためにきた旅客機だったのです。


その旅客機こそ、なんと「トルコ航空機」でした。

日本人はタイムリミットぎりぎりでテヘランから脱出することが
できたのです。


それは、なんとイラク軍の攻撃開始わずか1時間前でした。

トルコ航空のパイロットと搭乗員は死を覚悟して、
トルコを飛び立ったと言います。

この自国の航空機に乗ることができなかったトルコ人たちは、
危険極まりないイランの地を3日間もかけて陸路で脱出しました。

日本人を優先的に脱出させて、自国民が危ない状況に陥ったにも関わらず、
先に脱出した日本人や日本人救出を決断したトルコ政府を非難する
トルコ国民は、誰一人いませんでした。

では、


なぜ、
このような危険な状況下、
トルコ人たちは日本人のために動いてくれたのでしょうか?



元駐日トルコ大使バシュクッドさんは、次のように語りました。


「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の感情でした。
 その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の遭難の際に受けた
恩義です。ご恩をお返ししただけなのです。」


と。




エルトゥールル号の遭難。



話は、1890(明治23)年にさかのぼります。

トルコの使節団がエルトゥールル号という軍艦で我が国を訪れました。

日本で友好を深めた後、
9月14日、トルコに戻るために横浜を出港しました。

しかし、
不幸にも台風が直撃し、樫野崎に連なる岩礁に激突し、座礁。

その結果機関部に浸水が始まり、
その後水蒸気爆発を起こして
トルコ使節団656人を乗せたまま和歌山県大島付近で
沈没してしまったのです。

この日、樫野崎灯台には、2名の灯台守がいました。

彼らが業務に当たっていると、
大きな物音とずぶ濡れになった大男が倒れこんできました。

服は破れ、身体は傷だらけ。息も絶え絶えの状態です。

しかも、
いくら問いかけてみても、言葉が通じません。

仕方がないので、手元にあった地図をさしだすと、
男は震える手でトルコを指さしました。

彼は、60m近い断崖を這い上がって、助けを求めにやってきたのです。

二人の灯台守は、あわててけがの手当てを始めると同時に、
村人たちに協力を仰ぎました。

村人たちが現場に急行すると、
海岸には何百人もの男が打ち上げられ、
座礁した軍艦の残骸が山のように海面を漂っていました。

そして、
おびただしい数の遺体が高波にもまれて浮かんでは沈み、
沈んでは浮かび上がっています。


「まずは生きた人を救え!」


村人たちは、荒れ狂う海に飛び込んで、生存者を探しました。

負傷者を見つけると、
服を脱ぎ、冷え切った男たちの体を体温で温め、
帯を包帯代わりにして応急手当を行います。

そして、
自分たちよりも二回りも大きい身体のけが人を背負って
断崖をよじ登ったのです。

崖の上では、他の村人が待ち構え、
負傷したトルコ人を手厚く看護したのです。

この大島村(現在の和歌山県串本町樫野)は、
当時は半農半漁の貧しい村でした。

しかもこの年は台風が続いたので、
漁に出られない村人たちは、その日に食べるものにも事欠く有様でした。

そこに、現れたのが助かった69人もの負傷者です。

彼らに対して、
村人たちは浴衣や布団を提供し、わずかに残っていた卵やサツマイモ、
非常時に蓄えていた米や、正月用にとっておいたニワトリまで差し出して、必死に介抱をつづけたのです。

この件は、すぐに新聞に大きく掲載されました。

すると、日本全国から多額の寄付金が寄せられました。

知らせを聞いた明治天皇も
「できるだけの協力をするように」と政府に働きかけたと言います。

この時代は、理不尽な時代でした。

エルトゥールル号が遭難する4年前。

1886(明治19)年、
和歌山沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が遭難し、
乗り合わせていた25人の日本人乗客全員が亡くなるという痛ましい事件が起こりました。

この時、
イギリス人の船長、船員は、あろうことか自分たちだけボートで脱出し、
日本人乗客を見捨てたのです。

悲しくて悔しい出来事でした。

まだ幕末に結んだ不平等条約が続いていて、
日本はイギリス人の船長や船員を裁くことさえできなかったのです。

このことは日本人なら全員知っていました。

まだ人々の記憶にはこの悲しみと悔しさが残っていたはずです。

そのような時代背景があったにも関わらず、
そのような時代背景があったからこそ、
大島の人々は、深い仁愛の心で遭難した外国人を全力で救出したのです。

救出された69人は、
村人たちの手厚い看護でその後誰一人命を落とすことなく、
日本の軍艦によって無事にトルコまで送り届けられました。

日本を発つ日。

彼らの代表は、このように言いました。


「私たちは、この度の日本人の措置に心から感謝している。
乗員一同は帰国後、広く日本人の温情を同朋に伝えるつもりだ。」


と。

その言葉の通り、この一連のお話はトルコ国民の多くが知る処となり、
のちにトルコの歴史教科書にまで掲載されるようになるのです。




トルコの航空機の日本人救出から14年が経った1999(平成11)年8月、
トルコで大地震が発生しました。

死者は、1万7000人を超え、被害も甚大でした。

このとき、
日本政府は人命救助・物資・医療など
さまざまな分野でトルコの復興を支えました。


「今度は日本がトルコを助ける番だ!」


と、日本政府に働きかけた人たちがいました。

それこそが、あの時大混乱のテヘランからトルコ航空機に
命懸けで救出してもらった人々です。

そして、
今度は、2011(平成23)年に起こった東日本大震災。
トルコの人たちは、すぐに動き出してくれました。

被災地に救援物資を届けたり、宮城県で炊き出しを行ってくれたり。

そして、
「喜びも困難も共に分かち合おう」という優しい言葉がけまで
してくださりました。

トルコ国内の世論調査では、
日本が常に「好きな国」のトップにランクされます。

トルコの人々の厚情には感謝しかありませんが、
トルコがこれほどの思いを日本に対して抱く理由は、
エルトゥールル号事件に対する感謝の思いだけではありません。

1904(明治37)年から起こった日露戦争で
十倍以上の国力をもつロシアに勝利したことに対して、
さらには、先の大戦での荒廃からの奇跡的な経済大国への躍進に対して、
トルコの人々は尊敬の念を抱いているというのです。

子供や孫に「トーゴ―(東郷平八郎)」や
「ノギ(乃木希典)」の名前を付け、
イスタンブールには「トーゴ―通り」があります。

アジアの東の端にある日本と、
西の端にあるトルコ、物理的な距離は離れていても、
心の距離はこれほどにも近いのです。

エルトゥールル号事件となった和歌山県の串本町南紀大島の岬と
地中海に面するトルコ南岸の両方に同じ形の慰霊碑が建てられています。

串本町では、5年に一度、中日トルコ大使館との共催で
エルトゥールル号の「殉難将士慰霊祭」が行われています。

2008(平成20)年には、
アブドゥラー・ギュル大統領がトルコの大統領としては
初めてこの地を訪れて献花を行いました。

そして、
2011(平成23)年、震災直後には、
混乱のテヘランから日本人を救出したオルハン・スヨルジュ機長が来日し、慰霊碑に献花をしています。

日本とトルコとの良好な関係。

それは、
あの嵐の和歌山から始まり、今もなお続いているのです。

先人たちのおかげで、
私たちは今もなおこのように恵まれた環境の中で生かされています。

100年後の日本を担っていく子供たちが世界から信頼され、
愛されるために、
今を生きる私たちの責任は重大です。

私たちは、100年前に先人たちがしてくださったことを
継承していくことができるでしょうか。


そのために、
先人たちが発揮してくださった「和の精神」を見つめなおすことが
必要ですね。



3)ウズベキスタンと日本との絆~「和の精神」を伝えた日本人の話~




中央アジアに、
シルクロードの中継地として栄えてきたウズベキスタンという国が
あります。

日本人にはあまりなじみのない国かもしれません。

その首都タシケント市に繊細な彫刻に彩られた
ビザンチン様式の美しい「国立ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」があります。

1948(昭和23)年に建造され、
収容観客数1400万人、舞台面積540㎡を誇り、
一流アーティストによるオペラやバレエが公演される国民自慢の大劇場です。

じつは、この劇場は日本人がつくったのです。

1945(昭和20)年の8月、
大東亜戦争終結後、
ソビエト連邦はポツダム宣言に違反してシベリア抑留を強行します。

ソ連の鉄道、道路、市庁舎、学校、水力発電所、
炭鉱の建設や森林伐採、農業開拓など
膨大な費用がかかるインフラ整備のために、
強制連行された日本人はなんと65万人。

このうち6万人が亡くなったといわれています。

抑留者の中には、関東軍の工兵をはじめ、
満州鉄道の職員や技術者集団も多数含まれていました。

ソ連は日本人にろくな食事も与えず、
ただ働きで奴隷のように酷使されました。

社数を見れば、ぞれだけひどい環境であったかは明らかです。

当時、
ソ連の一部だったウズベキスタンには13の収容所が設けられ、
2万5000人の日本人が分散されて送り込まれました。

慣れない気候と過酷な収容生活によって、
栄養失調や病気、事故などで813人もの日本人抑留者が亡くなっています。

しかし、
そのような中でも彼らは決して手抜きをせず、
懸命に仕事に取り組んでいました。

ウズベキスタンのお年寄りたちは当時のことを振り返って、

あの過酷な状況の中で、
日本人たちは捕虜なのにどうしてあんなに真面目にあそこまで
丁寧な仕事をするのか不思議だったと言います。

そして、
日本人のことをこのように語っています。


「日本人の捕虜は正々堂々としていた。
ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、

彼らが、戦いに敗れてもサムライの精神を持っていた。
強制労働でも粛々と作業に取り組む姿を見て、
我々市民は彼らに何度か食料を運んだ。」


「日本人はとてもいい人たちだった。
几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。

時間が来ても仕事が終わらなければまだ続けている。
うまくいかない時にもいろいろな工夫をしてやり遂げる。

また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。
日本人がつくるものはすべていいものだった。

本当にすごい人たちだった。とても大切な友達だったんだ。」


このようにウズベキスタンの人々は、
次第に好意と尊敬の念をもつに至るのです。

捕虜の待遇が悪いのを不憫に思ったウズベキスタン人は、
折を見ては子供に食料をもたせ、
収容所にそっと置いてくるようにしました。

すると、
その数日後に差し入れが置かれた場所に、
木製の精巧につくられた手作りのおもちゃが必ず置かれていました。

受けた恩に誠実に報いようとする日本人の道徳的な態度に、
ウズベキスタンの人々は、深く感心したと言います。

ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場を建設したのは、
457人の日本人捕虜で構成された「タシケント第四ラーゲリー隊」
でした。

隊長は24歳の永田行夫陸軍技術大尉です。

18歳から30歳までの部下たちを前にして、
永田さんは次のように言いました。



「全員が無事に日本に帰国し、家族と再会することだ。

そして、つくるとなったからには、
後の世に笑われるような建物ではいけない。
ソ連の歴史に残る劇場を

日本人の誇りと意地にかけて作りたいと思っている。」


部下たちは、そのような隊長の熱い思いに共鳴しました。



「そうだ!やるからには、
さすが日本人のつくったものは出来が違うと言われる劇場を建てよう!」



この日本人の誇りと意地こそが、抑留者たちを支えました。

なんと、わずか2年で大劇場を完成させてしまったのです。




1966(昭和41)年4月26日のことです。

首都タシケントで直下型の大地震が起こりました。

1960年代までの世界の大地震の中で、
5本指に入るほどの規模の大きさだったと言われています。

市内の建造物の三分の二にあたる約8万棟が崩壊し、
がれきの山になってしまいました。

そのような中でも、
ナヴォイ劇場は何事もなかったように凛として建ち続けていたのでした。

ウズベキスタン人は、
悠々と建つナヴォイ劇場を日本人への畏敬の念をもって見上げていたと
言います。

この話は、
またたく間に中央アジア各国に伝わり、
一様に日本人の技術力の高さに驚愕したそうです。


時は流れ、1991(平成3)年、ソビエト連邦が崩壊し、
ウズベキスタンは独立を果たしました。

その5年後、
カリモフ大統領は、
ナヴォイ劇場に掲げている日本人抑留者の功績を記したプレートをリニューアルしました。

実は、
以前から設置されていた古いプレートには、
ウズベキスタン語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てた」
と書かれていました。

しかし、
新しく作られたプレートには、
ウズベキスタン語、日本語、英語、ロシア語の順で
「1945年から46年にかけて、
極東から強制移送された数百人の日本国民が、

このナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」
と書かれているのです。


変更した理由についてカリモフ大統領は、

「ウズベキスタンは日本と戦争をしていないし、
ウズベキスタン人が日本人を捕虜にしたことなどない。」

と話しています。

シルクロードに伝説を刻んだ日本人に「捕虜」という
言葉を使うことはふさわしくないと考えたのです。

日本人の心に対する敬意がうかがうことができます。




ウズベキスタンには、13の日本人墓地があります。

この国で亡くなった抑留者たちが眠っています。

実は、日本人抑留者が帰国した後、
この墓地が存続の危機にさらされたことがありました。

ソ連政府が日本人墓地を潰して更地にするように命令してきたのです。

ポツダム宣言に違反して強制労働をさせた
日本人の存在を抹殺したかったのでしょう。

しかし、ウズベキスタン人たちは、

「ここは日本人が眠っているのだから」

とソ連政府の命令を無視して墓地を守り続けてくださったのです。

2000(平成12)年、
当時の駐ウズベキスタン特命全権大使・中山恭子さんは、

べカバードという街にある日本人墓地を訪ねました。

中に入ると、ウズベキスタン人、トルコ人、ロシア人などの
墓地に囲まれた中心部あたりがぽっかりと野原のようになっている場所を
見つけました。

なんと、ここが日本人墓地だというのです。

墓標はなく、
頭のある辺りにはがきほどの大きさの鉄板が刺さっていて、
そこには捕虜番号だけが彫り込まれていたのです。

この有様に中山恭子さんはショックを受けます。
経済的な事情もありましたが、
もともとソ連政府に「更地にするようにしろ」と命令されていたので、
表立って整備することができていなかったのです。

それでも、
ウズベキスタンの人々は、雑草を刈ったり、
掃除をしたりして大切に守ってくれていたのでした。

そして、
スルタノフ首相は、


「日本人墓地の整備は、日本との友好の証として、我がくずべきスタン政府が責任をもって行います。
これまでできていなかったことはたいへん恥ずかしい。即刻、整備に取り掛かります。」


と伝えてくださります。


それ以来、
日本人墓地のある各地域で現地の多くの人々がボランティアで参加し、
整備事業が進められました。
なんと、1年ほどですべての墓地整備が完了したそうです。

一つ一つの墓に白い墓石が並びました。
それだけではなく、各墓地には「鎮魂の碑」が建立され、
4つの市には、「抑留者記念碑」が建立されたのです。

これらの碑の建設にかかった費用は、
日本で集めた募金で賄ったのですが、
実際に石を運び出して、墓石を磨いて設置したのは地元の方々でした。

中山恭子さんは、
日本側で負担しようと申し出ましたが、
ウズベキスタン政府は一切お金を受け取らなかったそうです。

さらに、
墓地が完成した後に、
中山さんは残っている募金したお金で桜の苗木を買って、
日本人墓地に植えたらどうかと考えました。

毎年、春になれば、美しい桜の花が墓地を照らします。

なんとしても日本に帰り、
家族に会いたかった20~30代の若者に、
もう一度きれいな日本の桜を届けたい。

この地に眠る英霊も喜んでくださるに違いない。

この計画もすぐに実現することとなります。

日本から苗木を空輸して、日本人の造園業者の指導の下、
ウズベキスタンの人々と協力して植えることに決まりました。

ナヴォイ劇場の周辺に30本、
タシケントの中央公園に600本、
その前の大通りに250本、
なんと大統領邸にも100本の桜が植えられました。

いつの間にか国を挙げての大事業となり、
ウズベキスタン人の憩いの場である中央公園には、
「さくら公園」と呼ばれるようになっています。

地元のウズベキスタン人に日本人墓地のことを尋ねると、
必ずと言っていいほど、
「とても大切な人たちが眠っているんですよ」と答えるそうです。

そして、

「ここで働いた人たちは大変優れた人たちだった。尊敬している。
だからお墓を守っています。」と。

日本人がつくった道路や工場の多くが現在も使われており、
今でもウズベキスタンでは、


「日本人のようになりなさい。」


と子供に教えているそうです。

多くのウズベキスタン人に、


「戦いに敗れても、
日本人は誇りを失うことなく、立派な仕事を残した。素晴らしい国だ。」

と言わしめた先人たちの偉業を、
当の日本人が忘れてしまっているのではないでしょうか。

そればかりか、

「真面目」「勤勉」「実直」などはかっこ悪いというような風潮が
広がっているような気がして
先人たちの生き方に報いることができるでしょうか。





どのような状況であっても、
勤勉で誇りをもって生き、「和の精神」を世界中に広げ、
多くの外国人に尊敬された先人たち。

今の豊かな生活は、
戦前の伝統的な日本の教育を受けて、
「日本人のこころ」を継承してきた多くの先人によって支えられています。

そのような先人の生き方を知ることは、
将来の日本を担う子供たちの自己肯定感の醸成につながるはずです。

だからこそ、
修身がそうであったように、
我が国の先人たちの生き方で構成された「道徳科」の授業づくりや、
教科書の編纂を目指したいと、僕は考えています。



私たちは、
先人たちが誇りに思う国づくりをすることができているでしょうか。


私たちが先人から学ぶべきことが何でしょう。


最後に、
先人たちの生き方から私たちが学ぶべきこと、
受け継ぎたいことについて考えていきましょう。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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