自分らしさを尊重する学びをを実現するための一手『奈良女の教育』に学ぶ信の教育観(完結編)~「聖徳太子」に学ぶ信の教育観とは?~ー『日本人のこころ』25ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
6月もいよいよあと一週間で終わりますね。
令和6年も半年が終わろうとしています。
今年度は、
「日本人のこころ」を主眼に置いて進めてきましたが、
私自身、これまでうっすらとしか見えていなかった先人の教育観が
少しずつですが見えてきて、
これほどまでに我が国のために考えて考えて考え抜いた人々によって
私たちの今の生活があり、
目には見えなくとも、支えられているのかと考えさせられます。
さて、
本主題も、いよいよ完結編です。
最後は、奈良にかかわるある偉人の考えから、
これまでの「令和の日本型学校教育」と
「奈良の学習法」を関連付けてお話させていただければと思います。
よろしくお願いいたします。
個を大切にする、
その人らしさを尊重するという姿勢は、人を信じるということ。
一人一人が各々の各々の役割を自覚し、
自分らしさや持ち味を最大限発揮することで
その人自身が輝き、地域が輝き、国が輝き、未来が輝く。
そのような和の国づくりを目指した人物が同じ奈良県にいました。
それが、
聖徳太子です。
1)聖徳太子って何をした人なの?
聖徳太子は、敏達3(574)年に生まれたと言われています。
父は第31代・用明天皇で、
母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとめひこ)とされています。
崇峻天皇5(592)年に
日本最初の女性天皇である第33代・推古天皇の即位ののち、
20歳前後で摂政の座に就きました。
その他に聖徳太子の有名な偉業として、
等が挙げられます。
学校の授業で習って、
今でも覚えている人がいるのではないでしょうか?
聖徳太子という名前は構成の人が名付けたもので、
本当の名前は、厩戸皇子と言います。
その偉業がゆえに様々なことが語られており、
有名なもので言うと
一度に十人の訴えを誤りなく聞くことができた。
というものがあります。
本当かどうかは定かではありませんが、
そのようなことが語られるほど有能であったことは
間違いなさそうですよね!
仏教を厚く信仰し、和の国づくりを目指しました。
争うことなく建国した日本国でしたが、
豪族が力をつけていくと争いの絶えない時代に入っていきます。
そのような情勢でしたが、
聖徳太子が政治を行っていた間、戦が起こることはありませんでした。
この厩戸皇子の偉業をたたえ、
後世の人々は「聖徳太子」と呼んだのです。
実は、聖徳太子。
我が国で最もお札で選ばれた偉人なのです!
でお札の顔として選ばれました。
一万円札は1958~1986年の28年間、
五千円札は1957~1986年の29年間でした。
それほど、日本国の顔として選ばれた聖徳太子。
いったい何がそんなにすごいのか?
そこに今回の主題である
「自分らしさを尊重する信の教育観」のヒントが隠されているのです。
2)聖徳太子が目指した和の国のかたち
聖徳太子の偉業については先ほどお話しましたが、
なんといってもすごいのが
ことです。
聖徳太子が生きた時代。
当時の日本では、有力豪族同士の争いが続いていました。
一人が物部氏です。
物部氏は、
神武天皇が騰勢を経て畿内に入られたときに対立した
長髄彦(ナガスネヒコ)の末裔であり、
長きにわたって我が国における大豪族の地位を占めていました。
もう一方が蘇我氏です。
蘇我氏は、
神功皇后の三韓征伐などで活躍した
武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫であり、
もともと品部(しなべ)といってものづくりをしていた一族であった
とされていました。
当時は、それほど大きな一族ではありませんでした。
ところが、6世紀に我が国に仏教が公伝されることになります。
百済から仏教の経典と仏像とお坊さんが贈られることになります。
そこで、寺や装飾品、仏像などをつくるということになり、
その儲かった財力をもって朝廷内での地位を確立していきました。
神道のみで国づくりを進めていくという物部氏と
仏教を積極的に取り入れて国づくりを進めていくという蘇我氏とで
激しく対立します。
そして、
両者の対立関係は頂点に達し、
蘇我稲目の息子である蘇我馬子が、
物部尾輿の息子の守屋邸を襲撃するという事態に陥ります。
物部守屋は弓の名手でなかなか強く、
3度襲撃しましたがすべて撃退しました。
その蘇我氏側として攻めていた軍勢の中にいたのが聖徳太子でした。
聖徳太子は何としても物部氏を討ち滅ぼさないといけないと
「もしも次の戦で物部氏を倒すことができたら、
四天王をお祀りする立派な寺を建てます」
と仏教の四天王に願掛けをします。
そして、
4度目の攻撃でついに物部守屋が倒され、
守屋を失った物部氏は滅ぶことになりました。
この後に聖徳太子は、
約束通り、四天王寺を建立します。
しかし、
物部氏が滅んで蘇我氏が勝ったということは
仏教が国の進行の中心となって、
神道は消えてしまいかねないという事態になってしまいます。
そして、
推古天皇2(594)年に「三寶(さんぽう)興隆の詔」という
仏、法、僧の3つを祀るようにする神勅が出され、
これを受けて中央豪族たちがこぞって寺を建てるようになります。
では、
聖徳太子は神道を捨てて、
仏教のみを手厚く保護したのかというとそうではありませんでした。
聖徳太子は、仏教を認め、寺院も建立しましたが、
皇室は、あくまでも神道でいくということを宣言するようにしました。
これは、聖徳太子が起草したものです。
いまだ、日本には、神社やお寺があります。
神様も仏様もどちらも大切にします。
どちらが合っていて、どちらが間違っているかで、争うのではない。
このようにして解決しようとしたのです。
神道とは、「道」である。
その道の中ですばらしい教え「仏教」を得ていこうではないか。
としました。
聖徳太子の生きた時代というのは、
本当に深い対立がありましたが
最終的に両方が共存できる。
しかも、お互いに張り合いながらの共存ではなく、
お互いに安定して生活ができるという共存のかたちをとったのです。
どちらが正しいというのではなく、
お互いが共存していくということが大切であるということが
我が国の一つの道として示されたのが推古15(607)年の
「敬神の詔」なのです。
だからこそ、
外国の優れた文化を取り入れつつ、
自国の文化も大切にするという
日本の文化的伝統につながっていき今の我が国があるのです。
これこそ、聖徳太子が目指したものなのです。
それぞれに良いところがある。
対立するのではなく、伸ばしていこうという信の心が伝わってきます。
3)聖徳太子に学ぶ信の教育観とは?
そして、
豪族が争いをやめ、
天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、
公のために働く役人の心構えと国家の理想が示されました。
それこそが、『十七条憲法』です。
『十七条憲法』の中でも、
第一条の
はかなり有名ですよね!
皆さんは、この条文の意味を知っていますか?
何よりも和が大事なんだ!
だから、けんかをしてはいけないよ。
争いごとがあってはいけないよ。
だからみんな思っていることがあったとしても
我慢してみんながいうことに従いましょう。
このように捉えている方は
聖徳太子が『十七条憲法』に込めた教育観を見出すことができていません。
では、どのような意味なのでしょうか?
最後にここを考えていきます。
まず、
これは、
聖徳太子が何よりも「和」を大切にしましょう、
と考えていたことは間違っていません。
しかし、
その「和」を成すための方法の捉えが違うのです。
つまり、
身分や年齢、立場に関わらず、
お互いに思っていることを徹底的に話し合いましょう。
と言っているのです。
よく、日本人は「和の民族だ」と。
だから、
言いたいことは我慢して、
とにかく「みんなは賛成?」本当は反対だけど、
みんながそういうから賛成。
とか言っているんじゃだめなんだ!
上下関係じゃない。
大切なことをどうするか?を徹底的に話し合うことが大事なんだ。
と聖徳太子は言っているんです。
まずは、
言いたいことを全部出して、ちゃんと議論しましょう。
幕末の志士は、
朝まで仲間と徹底的に話し合って、
時には涙でぐっちょりに、時には抜いた刀を畳に突いて、
一触即発くらいになるまでむきになって、感情をぶつけ合いました。
徹底的に話し合うことが、日本の伝統なのです。
そして、
最後の十七条にもこのようなことが書かれています。
大切なのは、俺が正しいんじゃない。
今考えていることのほとんどが後々になって間違っていることは
よくあるものだ。
そう思って、常に自分の考えを見直していく。
自分自身をどんどん磨いていくということが大切だと言っているんです。
つまり、
『十七条憲法』は、お互いを信じて、
の考えを、自分の思いを徹底的に相手に伝えましょう。
そして、話し合った中で決まったことには従いましょう。
という「議論」をするときの心構えが書かれているのです。
そして、
徹底的に議論をするためには、自分の考えを持っていなければなりません。
自分の考えとは、
日常的に
自分の好きなものは何か?
自分の関心があるものは何か?
自分が考えたいことは何か?
自分の大切なものは何か?
…
を考えておかなければなりません。
そして、
前回お話をした「奈良の学習法」によって
日ごろから自分のやりたいこと、
自分が考えていることを
徹底的に追究している子供は語ることができるのです。
皆で力を合わせることは大切です。
しかし、
各々に得意分野があり、それを徹底的に追究し、
こだわりをもっているからこそ
議論の内容も幅も広がり、
深めることによって新たな知見を得ることができるのだと思います。
「和」とはどのような意味でしょうか?
よく似ている言葉として挙げられるのが「同」です。
では、この違いは何でしょうか?
「同」は、自己の『主体性』を失って他者と協働している状態です。
これでは、
自分の考えをもつことができず、
他人に依存するだけで自分の頭で考える習慣は身に付きません。
その一方、
「和」は、自己の『主体性』を保ちながら他者と協働している状態です。
聖徳太子は、国内も国外も苛酷な状況下にあって、
みんなが納得でき方法を模索しました。
日本はそもそも、神の子孫が治める、神々に祝福された豊かな国。
しかし、
台風や地震などの自然災害、
疫病の流行や戦争といった不安な出来事は起こるはずがない。
ところが、実際は災難はたびたび起こる。
なぜ、この矛盾は生じるのか?
古代の人々は、これを「怨霊の仕業である」と考えました。
天皇がもつ絶大な霊的能力に対抗できるほどの強大なパワーを
持っているのは、怨みを飲み込んだ者(敗者)である。と。
災いをもたらす怨霊を発生させたにための予防処置とは、
争いを避け、勝ち負けをつくらないことだったのです。
みんなで話し合って
上手に落としどころを探る。
不平不満が残らないようにうまくことを収める。
これこそ、
みんなで話し合い、
そこで決めたことを行うことこそ、正しいことなのです。
そして、
そのためには一人一人が自分のこだわりや考えを持つ必要があります。
一人一人が自律した個として極めているからこそ、
我が国も発展していくのです。
今回の「奈良の学習法」を学び、
個別最適な学び・協働的な学びの両輪を実現することによって
「令和の日本型学校教育」を形づくり、
聖徳太子の時代から脈々と受け継がれる和の国を
「信の教育観」によって継承していきましょう!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?