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嫉 罪

拝啓 罪人の私へ

これは単に1人の人間の呟きに過ぎない。
それは単に何かを掴もうとしているのか、又は何かを掴みそびれてしまった者のくだらない呟きの一つだ。
こんなちっぽけなアプリ一つで誰かに影響を与えられる様な力すらも隠し持っていない。
単にこの様な愚痴を淡々と一つに絞っては綴っている無様な人間だ。
唯一できるのはここで愚痴をひとつの文にして吐き出す自分の「存在証明」だけだ。

*注意

この文面には感染性の高い文が存在する。
他人の痛みや感情を受けやすい人は直ぐに感染してしまう恐れがある為読むのを避けるのを推奨する。

幾らこの様に言語化して文章を形作ろうとも読んでいるのは単に成功者ばかりでうんざりだ。
まあ愚痴を単に考えられる程私には余裕などないのではあるのだがね…。
そもそもそう言う時間が無駄過ぎる。
そんな迷惑極まりない事に1日と言う時間に与えられたエネルギーを消費等するのは以ての外だ。
そんなくだらない、そんな自殺行為をするのならもっと他に楽しい何かを考える事ができたらいいのだが…。

嫉妬と言う迷惑過ぎる概念

私が思うこの世で一番要らない感情の一つでもある。
私が思うに人の心より怖い物等存在しない上にどれ程の人々がこの様な感情のせいで自ら命を絶った或いは人を傷つけた或いは人を不幸にさせた事だろうか。
それに人の心は唯一人を殺している凶悪殺人鬼でもある。
誰も気付かないだろう。
それはそうだろう、そもそも人は誰しも自分の心に関しては一切興味すらない。
単に興味があるのは熱中しているものやじゃれた猥談位だろう。
そんなものにしか興味が無いのはSNSを通せばわかる話だ。
誰も自分の心等分かろうとしない。
分かろうと言うより、そこに存在していないかのようにまるで無心な奴らばかりだ。

話を戻すが、私が一番この世で要らない感情と言うのは大袈裟のように見えるかもしれない。
それはひとりひとりの価値観によっては「必要だ」って意見も散見されるかもしれないが、私にとってクソが付くほど迷惑極まりない存在のひとつだ。
それに私以前に多くの著名人も発言しているのだから、共感する人も多い事だろう。
マジで要らない。

ここまで言い張る理由は私が嫉妬しているからでは無い。
私にとって嫉妬なんて石ころ程度の様なものだ。
何故なら、生き延びる事で精一杯な私にとって他人を妬むなど自殺行為にも等しい。
来たる理不尽な日々を乗り越える事で精一杯な私にとって他人の幸福等を妬んでいる暇などない。
かと言って私もそのクソ迷惑極まりない存在である「嫉妬」に精神を貪られている被害者のひとりではあるのだが。
だが、私は「嫉妬」と言うより単に「恨み」があるだけだ。
それは人に対しての「恨み」ではなく、この理不尽過ぎる世界に対しての「恨み」である。
これを聞いた率直な感想には「何をバカなことを言ってんだ」なんてコメントも飛び交って来そうだが、単にその人は何事にも挑戦などした事がない無の人間だと私は思っている。
そもそもそんな人間に自分に与えられている時間と言う権利を使うのは勿体ないに越したことはない。
今すぐやめた方がいい。

単に「嫉妬」如きに貪れると本当にいい事なんか起きやしない。
思考力も低下すれば、精神すらも低下する精神が低下すれば免疫力も低下するまさに負のオンパレードでしかない。
それにその時に限って人々の見つけた幸福を祝福する声だけが響く。
雑音の様に激しいノイズと共に鳴り響けば、耳を塞いでも目を塞いでも残響としてその場に滞るのだから厄介意外の言葉もない。

だから私は人々の幸福に触れたくがない為に街に駆け出す時も、孤独を感じる時もネット等は見ずにイヤホンを使って耳を完全に遮断して好きな曲を片っ端から聞き流している。
そんな「嫉妬」と言うクソ迷惑な概念に貪られる位なら残響を全て遮断する音楽を聞いていた方がまだマシだ。

「他人の幸福なんか要らん。とっとと消え失せろ」

そんな事を思う時だってある。
他人の幸福が無性に響く残響に精神を左右されるよりかは遮断した方がマシな位だ。
こんな私にとって他人の幸福等単なる毒でしかない。
それも精神を貪る或いは体調すらも貪る猛毒だからだ。
タダですら「嫉妬」と言う概念に精神や体調すらも貪られているのに、また同じルートで直行しては頭に鳴り響いてくる他人の残響なんてゴメンだ。

正直なことを言うと、自分に不可欠なものを探すにも幾ら引き出しを漁ろうが出てこないのが正解だ。
過去を探ろうにも嫌な記憶ばかりで探すだけでも億劫になってしまう。
億劫の次はなんだろう、恐らく鬱なのではないか、その次は言うまでもなく死しかないだろう。
はてさてここまでの理不尽受けてまだ絶命すらもしていない自分に拍手喝采等して褒め讃えたいくらいだ。
まあ通の一般人からすれば「甘えだ」だの「何言ってんだろこいつ」感覚の脊髄反射コメントが殺到するかもしれないが、それくらいにはこの理不尽を受けても絶命していない事は奇跡だろう。
仮に今を楽しんでいるものが自分と同じこの理不尽を耐えきれる事ができるだろうか。
恐らく途中で諦めて絶命するに違いない、それ程に私の今まではあまりにも狂い過ぎていてそして孤独なのだ。
もう一度同じ人生を送り今の年齢まで来れるかと問われれば、私は吐き気しかしないだろう。
「またあれに耐えるのか」「またあの地獄を見るのか」出せば出す程毒しか出てこない、ここまでハッキリしていると自分でも毒のある過去しかない と思えてくる。

そもそも私にとっての教育が洗脳で満たされていた。
保育園や小学校、中学校、高校 全てを狂わせたのはこれに属している間に洗脳しか受けてこなかったからだろう。
しかし、その洗脳を普通にの様に受けて何の変哲もない日常生活を送った後に気付くには致命傷並に手遅れでもあるのだが、仕方ないじゃないか。
そもそも人間は怪我してからじゃないと痛みには気付けない。
怪我をしなければ自分が出血している事すらも気付かない生き物だ。
しかし、私が傷付いているのは体ではなく心そのものだ。
心そのものが傷付いていては、怪我しているのか又は出血しているのかすらも確認する事が出来ない。
今はもう傷口が悪化して出血多量になっているのかもしれない程気付いた時には致命傷並に手遅れだった。

まあその傷口を裂いたのも、出血多量にしたのも自分とは違う人間である事に代わりはないのだが…。
「人のせいにするな」なんて言われても仕方ないじゃないか。
そもそも人間はいつ誰かを傷付けたのかもすらも気付くことが出来ないバカな生き物なのだからな。
知らず知らずのうちに傷つけていると言う認識すらもしない。
若しかすると聖書に出てくる悪魔と言うのは人間の裏の心を具現化したものなのかもしれないなと思っている。

まあ先に言っておくが

「人間誰しも心のある殺人鬼である」

と言っておくとしよう。
我々人間は誰しも殺人鬼なのだよ。
そもそも殺人鬼である自覚すらないバカな生き物でもあるが、唯一人をいつ殺めたのかすらも分からない善良なサイコパスなのではないか。
我々人間には自覚する事が出来ないのは仕方の無い事だ、卑怯な上に無責任過ぎる生き物だ。

そう、我々人間は何もかも無責任なのだ。
無責任だからこそ、人を平気で殺める事もあれば助ける事もできるのだ。
ネットなんて以ての外だ。
みんな自分の発言に責任等感じていない。
寧ろ好き勝手過ぎる、まるで「野に放たれた猿かよ」言わんばかりにあれやこれやと発言していく。
それは「誰かを殺めるかもしれない」、「誰かを傷つけるかもしれない」と言った感情等一切ない。
単に本能だけで生きている猿みたいな連中しか見当たらない上に、みんな雲隠れがなんと言っても上手だな。

「いや、これネタなんだけど」とか言うのも雲隠れみたいなものだ。
幾ら過激な発言した所で後々「いや、これネタなんだけど」とか言っても通用するのは猿の仲間だけだ。
それに、それで雲隠れと思っているのだから本当に哀れだよな。
幾ら雲隠れしようとも、ネットに書き込んでいる事に代わりはないだろう。
後から慌てて消してもネットには記録されているのだから完全に消す事等容易いことでは無い。
「本能だけで生きている猿」本当にこれが該当する動物がうようよとネットにはいるんだな。

まあそんな事があって私が時折SNSを見ている時「おえっ」となってしまうので恐らく私はSNSには向いていないのだろう。

あのな、どれもこれも成功者の発言ばかりでうんざりなんだよ。

SNSに転がっているのはどれもこれも成功者の発言ばかりだ。
それも「いや、あいつ何かやりましたか」ってレベルで凄さも何も痛感しない何の道を得て成功したのかすらも不明瞭な成功者ばかり。
本当に気味が悪いな。

冗談抜きで気味が悪いと思うのは、大抵そう言う奴らのターゲットとなり得るのは私のような孤独を生きる者達なのだ。
まるで生ゴミに話しかけるかの如く現れては消えの繰り返しだ。

「副業なんかどうでもいい、あんたの意見を押し付けてくるな」

これが私の本音である。
まあ単にこれは嫉妬とかではなく、単に目障りなだけなのだが、うざい具合にフォローやDMを送ってくるのでそろそろ呆れそうにもなってくる。
そこから何が汲み取れるのかと言われると、DMの最初に打ち込んでくる文面やプロフィールが詐欺師がよく使うような手であると言う事だ。
これは相当SNSに慣れていないと発見し難いから初心者の人は気をつけた方がいい。

奴らはあなたの成功なんか考えていない、考えているのは自分の利益だけだ。

これが大半以上だろ。
ネットビジネスなんて言う気持ち悪い言葉もあるくらいだが、彼等はそもそも私の様な孤独者ではなく自分にとって多額の現金を払ってまでも付いてくる様な人間しか自分の元には起きたがらない。
これは実質この腐れきった世界の社会構造でもあるのだから、SNSも現実社会もさほど差など生じていないのだろう。

来る日も来る日も「いや、こいつ何かしましたか?」って奴らの戯言でSNSは覆い尽くされているので私は苦手だ。

唯一のストレスを発散できるSNSではあったのだが、その様な連中が増えてきた為私は嫌になりそうだ。
「~~~」や「○○○」等愚痴ばかり思いついてしまう、そんな時間でクヨクヨしている時間をそいつらの戯言だけで消費しているのはあまりにも勿体ないとまで思えてきている。
それに前と比べていらない情報ばかりが殺到している為、何度も散見すると「まじでこいつだけ睨むだけで呪い殺せねえかな」なんて思ってしまう程役立たず情報ばかりだ。
だいたいそんな奴らに限って人を叩いて名声を獲得している猿なんだけどな。

そんな事にイライラして無駄にエネルギーなんか使いたくもないよ。
何故、しょうもない事やどうでもいい他人の発言や幸福をネット上でも見ないといけないのか本当に訳が分からなくなってきている。
そろそろ頭が破裂しそうだ…。
私がSNSを嫌いなのはそこにもあるが、一番は人の色々な混沌とした情報が目に飛び込んできてマイナス思考に感染してしまうと言うものだ。
他人の感情や痛みを痛感しやすい私にとってはそれらが厄に過ぎない。

成功者の声は常にシャットアウト

これが私の心掛けている事だ。
他人の成功は他人の成功、それに自分の思い描いていた未来像があるのなら照らし合わせ等自殺行為そのものだ。
トントン拍子だ?そんなのどうでもいい。
そもそも赤の他人、私の痛みがそいつに通用するはずがない。
それがトントン拍子だと以ての外だろ。
あまり私を痛めつけるなと声が出てしまいそうになる。
私は病みやすいと言うより、どちらかと言うと他人の感情等に自分を照らし合わせる様な謎の能力を持っている。
これがある事で 私のような人は無駄なものにエネルギーを使ってしまう。
そんな他人の感情等で自分の感情にブレーキをかける事が出来ずにエネルギーを使うのなんて勿体ない。
他人の成功等に「あ〜だこ〜だ」とコメントを付けたがる評論家等になるよりは、そのエネルギーを自分にとっての成功を考えるアクセルに変えた方がいい。
そもそも自分に与えられたエネルギー等、他人の感情等に使うのではなく自分に使うべきだ。
他人の感情に使う為にエネルギーが与えられている訳では無い。
にも関わらず、SNSと言ったらそんな事にエネルギー等使う気もない上に自分の目で見たくもないのにも関わらず強制的にそれを見せてくるのだから戯け以前に呆れが正しいくらいだ。
そんなどうでもいい情報よりか自分にとって何かプラスとなる様なヒントが欲しいのであって、他人の幸福なんかどうでもいいのにも関わらずマイナスな情報しか与えない上に強制的にと言うのが気に食わない。
他人のドッカンドッカンガヤガヤしてるクソみたいな幸福なんてどうでもいい。
だからと言ってSNS上で私のプラスになるような、私の為の幸福を幾ら探そうとも見つかる訳もない。
そんなこんなで途方に暮れていると他人にネタの種にされるわで「一体なんなんだこの世は」と思ってしまう。
youtube等でも、Twitter等も聞こえてくるのは成功者の声ばかりでうんざりしてくる。
全て雑音だ。
広告等、上級国民の戯言だ。

だから私の様な者にとって成功者の声等シャットアウトしてしまって自分の事にエネルギーを使った方がいいのだ。
この事に間違えなどない。
そもそもこの世には正解や間違え等明確には存在しない。
自分で間違えや正解等を決めるべきだ。

昔の偉人に惑わされて自分の価値観を捻じ曲げるな。

これはあながち間違ってはいないだろう。
私も時折、哲学などの語学に目を通しているのだが「これは違うだろ」と思う様な文等も散見する。
これを読んでいる人も「これは違うだろ」なんて思う所があるかもしれないが、私はそれが正解や不正解だとも思わない。
先程書いた通り、人によって考え方も違うのだからどれが正解で間違えなのかなどその人でないと分からないからだ。
だからこの文にもし批判的な意見があったとしてもそれが正解とも間違えているとも私は思わない。
「必ずしも大昔に偉業を果たした人々の生き方が正解と言う訳では無い」と言う事。
これに尽きる。
それに古典等の生き方についての文も一種の判断材料として使うべきであって、それが絶対的な答えなんかでは無い。
確かに恰も「これが正解だ」と言わんばかりに正しいと思ってしまうかもしれないが、それでその選択をして後悔するのは自分だ。
だから、自分の中では「これは間違え」「これは正解」と言う決定権を自分に与えるべきであると同時にこの決定権を自分以外の他人なんかに与えたらダメだ。

運命も奇跡も何も信じない。

運命も奇跡も何も信じない方がいいのは私の経験による結果ではあるのだが、そんな物は一切信じない方がいいと言っておくとしよう。
何故なら、そんなものを信じて生きようなんて思う方がバカバカしいから以外に答えなんか出てこない。
バカ騒ぎしている奴等が正しい生き方をして幸福なんか掴み取る。
私のような真面目過ぎる人間はそんな小動物の餌食になるか、またはネタの種にされて養分となって摂取されるかのどちらかにしかない。
それに幾らこいつらが度の過ぎたふざけを行おうが罰なんかはくだらずに、私のような人間に罰が与えられる。
それにしても本当に狂った世界だなこの世界は、なんて愚痴ばかりを垂れ流していても誰の耳に届く事はないのだが…。
幾らこの様に大声で愚痴を空に向かって吐こうが、近くで木霊するかその場に残響として留まるか又は行き交う何かの音によって直ぐに掻き消されてしまうかのどちらかだろう。

それに幾ら私のような人間がせっせこ頑張って「あと少しだ〜」なんて呟いては奇跡等を信じてみても何も起きやしない。
その代わりに赤の他人、それも何を頑張っていたのか努力していたのかすらも全然感じ取れやしない遊んでばかりな奴等にその奇跡が舞い込むのだから狂っている。

本当に「私の頑張りは一体なんだったんだ…、何の為にここまで頑張ってきたんだ…」とも思えてしまう程だ。
それもそんな事がここ数年は続いているのだから、そろそろ考えにも生き方にも諦めがついてしまうくらいだ…。

「なんなのだろう…。
私は誰かの笑いの種にされる為に生まれてきたのか、養分を摂取される為だけにこの様な腐れきった世界に生み出されたのか…」

こんな事を考えていても限がないのは承知の上ではあるのだが、それ程私はこの世界には怨みしかない。
多分今のまま自殺等して死んだとしても、怨みが残っている為成仏なんかできずにその場に佇む事になるだろうからそんな事はしないが。
いや本当はそうしたいのではあるが、怨みを持ったまま絶命したとしても何にも満足いかない結果に終わるだろう。

それに本当にその様なものがあるのなら、報われずして死ぬの等理不尽過ぎる。
私にとってこの世界は本当に本当に前を見て歩くのが難しい程に息苦しいくらいだ。
足に何らかの重りが付けられているのかと疑いたくもなる程何かを掴もうとしてもその場所にまで辿り着けない、いや辿り着かせようとしない。
おまけに私の前に飛び込んでくるのは何を頑張っていたのか努力していたのかすらも全然掴めやしない遊んでばかりだった奴らの幸福ばかりだ…。

私は何か罪を犯してしまったのか…。
殺人も犯罪も何もしていない上に私は人々を助ける様な立場の人間なのにも関わらず、どうしてこんなにも罰が降り注ぐのか。
本当に神など存在するのならこの手で殴ってやりたいくらいだ。
私よりか犯罪もどきを犯しては平気でヘラヘラしている奴らに罰を与えるのが真っ当じゃないのか…。
何故私のような人間が罰や罪を受けて、ヘラヘラ遊んでいる奴らが幸せを持っているのか。
私に理解等できるわけが無い。
理解できていたらここまでこの世界に対して怨みなんて持つはずがないだろう。
愚痴を吐こうにも吐けず、毒を吐こうにも吐けず。
傷口が癒えることもなく、次々に傷口を開く様な事しか起きない。
この世界に怨み以外の感情を持つ日が私にも訪れるのだろうか。
こんな世界を許せる日が私にも来るのだろうか。
生きていてよかったと言える日が来るのだろうか。
幾ら考えても仕方ないが。
これ以上罰が降り注ぐのであれば、私は自ら絶ってしまうかもしれない。
何故ならその様な事が続いているのにも関わらず、まだ多くの罰を乗り越えろ等、そんなの私の人生ではなく他人の歩むべき人生だからだ。

本当に神様などがいるのなら私の人生を邪魔しないでくれ。
私は私の人生を歩みたいだけなのだ。

私にも私なりの生き方と言うものがある。
「〜して成功したい」、「これをやってみたい」そう思うのは最初だけでいざやってみると案外私よりかできる人がいて参ってしまう。
本当にこの世界は私で言う 「〜で成功したい」と言う目標が叶わない世界なのかもしれない。
もしくはそれの成功者として選ばれない世界なのかもしれない。
考えるだけでも頭痛と吐き気がしてくるが本当にそうなのかもしれない、と思ってしまう私がいるので自分自身を嫌いになってしまいそうだ。
この世界よりか幸せな世界があるのならそこに行きたい位にこの世界は私にとって生き辛い。
悔しい程に生き辛い。
生き辛くてしょうがない。
惰性に行きては惰眠しての繰り返しだ。
何故これ程までに孤独なのか、これ程までに生き辛いのか本当に嫌になるくらいだ…。

こんな事を述べても何も変わるはずもなく、明日と言う明日はやってくる。
私を置き去りにして世界は廻り続ける。
私は昨日と言う場所、下手すれば数年前の空間に私の本当の魂は置き去りにされているのかもしれない。
そう思うと私の時計の歯車は数年前に止まっているのかもしれない。
あの様な理不尽がなければ今の私は若しかすると怨みなど持たずに笑っていたのかもしれない。
他人の幸福も受け入れる事ができていたのかもしれない。
嫌いな奴らを許せていたのかもしれない。

私が生き生きできないのはこの世界が悪いからか、それとも私自身が悪いからなのか分からない。

分かっているのはこの理不尽過ぎる世の中にどんな罪や罰が自分に降り注ごうとも前に進むしかないと言う事だ。
これ程までに理不尽を与えた上にまだ耐えろ等ふざけるなと言う話だ。
でもそれが人生なのなら仕方の無い事なのかもしれない。
生き辛い私にとって理不尽過ぎる人生等追加で受け入れられる訳が無い。
過去が理不尽過ぎるのだからそろそろ光を掴ませてほしい。
私の人生を後悔ばかりにしたくはない。
寧ろ後悔など二度としたくない、いや二度と来んなと言いたい。

頼むから…
そろそろ光を掴ませておくれよ…。
もう色々と限界だ。
周りの声が何もかもが雑音に聞こえる程私は弱っている。
悔しさ等で涙など流したくもない。
後悔だけで覆い尽くされた人生なんて御免だ。

私は私の人生を歩みたいのだ。
何にも邪魔されずに自分の思い描いた道を歩いて行ける人生を…。

拝啓 罪人の私へ
未来の私は笑っていますか?
罪から解放されていますか?

そう言い残し、私は歩みを進める。
今度こそはと思いながら、自分を信じて歩みを進める。

明日と言う道へ。

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