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Dr. Scott Ross: どうやって映画産業で1億円を稼ぐか?(その4)

This is a Japanese translation of Dr. Scott Ross's blog. Please check out the original article to verify the translation. (この記事はスコット・ロス氏の2012年に書かれたブログの翻訳です。翻訳の正確さは保証致しかねますが、日本人にとっても興味深い内容で非常に面白い読み物だと思います。)

(その3より続く) 制作開始に必要な資金として受け取った1.7億円のうち、すでに1.2億円を使ってしまった。2人の脚本家への支払い、日本への旅行、何10回というミーティング、2年という月日を費やした結果、残念な結果に終わった脚本のドラフトだけが手元に残り、制作へのゴーサインすらこれまでのところ得られていなかった。

 興味深いことにはデジタル・ドメイン(DD)の銀行口座には直接送金があっただけで、資金をどのように使うかに関しての契約や覚え書き、さらにはDDがお金に関してどんな義務を負うか、という取り決めは一切なかった。日本で起きた経済のバブルは、少なくとも教育機関においては、まだはじけていなかったのである。ツヅキ学園は、ホテル経営、薬学、デジタルコンテンツからフラワーアレンジメントにいたるまで何十もの教育機関で成り立っていた。学校にはかなりの税金の免除があった(実際ほとんど支払う必要がなかった)し、生徒数は数千人にも及んだ。学校は軍隊式で運営されたものの、ことエンターテイメントビジネスに関しては、まったくノータッチだったのである。

 私たちは何らかの合意を得ようとしたものの、両者とも同意できるようなものは一切できなかった。彼らは最終的にはすべてのクリエイティブコントロールをほしがった。俳優は誰か、監督は誰か、そして最終的な脚本の承認まで。しかし一方で彼らはDDが脚本を書くために受け取った資金についてはどうでも良かったらしく、一度もそれを返すようにと言われたことはなかった。実際は、ツヅキ氏はある時期彼らは映画の製作すべてにかかる費用150億を負担できることをほのめかしていた。その可能性について議論するために、美しい彼の娘であるアスカをベニスに送り込むことまでしたが、数ヶ月間の交渉ののち、実際には資金は別のところに行くことになった。ツヅキさんは福岡最大のビルを買い取り、さらには日本中にスターバックスのフランチャイズを広げることにしたのである。

 私は日本への旅行を続けた。各地のスコットロス・デジタル・スクールで講義をした。記者会見も行った。ツヅキさんとあって、主役のケイコにふさわしい女優について話をした。(彼は美しい女優には大変興味があった。) そして引き続き、1945年の8月のあの日まで実際に何が起こったのかより詳しい内容を知るために必要な調査を続けた。何十人もの被爆者にも会ったし、大学教授や歴史資料の収集家、軍隊関係者、そして政府の関係者にも会ったりした。広島市長とは友情を築くことができたし、平和記念館や広島映画コミッションからの完全なサポートも得た。

 しかし、何億円もかけた脚本には未だに満足できずにいた。私はすでに気づいていた。脚本家によって書かれた個人的なストーリーには決して満足することはできない、なぜならそれが書かれた過程において、自分が関わらることができなかったからだ。執筆業を営む人たち、少なくとも脚本家の置かれている立場は微妙だということも学んだ。ハリウッドにいる人たちはみんな、脚本こそが映画の要なのだと言う。ハリウッドで政治的な力を持っている人たちの階級の中では脚本家は2番目であり、その中でも頂点を極めた人達は大金を稼いでいる。もちろんその価値はあるだろう。しかしそれ以外の脚本家達は正当な評価を受けておらず、実力にあった報酬も受け取っていないのだ。

 その結果、WGA、脚本家のためのエージェントと脚本家たちは規則と取り決めをつくり、自分たちを守るための外壁を固めようとした。しかし、他の多くのビジネス同様、さらにはハリウッドのシビアなビジネス環境に対しては、不幸なことにまったく太刀打ちできなかった。みんながお互いから利益をむしり取ろうとし、それゆえに、まず最初に自分たちに利益を確保しようとするのが常だった。

 自分が脚本作業に携わるなら、脚本家チームに入らなければならないことも分った。何人かの優れた脚本家たちと会って話をした結果、彼らはプロデューサが脚本家チームに入ることを拒むことが分った。そこで、すでに確立された脚本家チームで、なおかつ第3者である自分を迎え入れてくれるチームを探すことが自明であった。さらにミーティングを重ね、今一歩な脚本を読み続けた結果、ある二人の若い脚本家チームに出会うことができた。彼らはよくできたSF脚本を書いた。その脚本は「千羽鶴」としては使えなかったが、そのうちの一人の名字に関心があった。彼の名前は「Kebo」と言った。

 チームを構成する二人の若者は、アルゼンチン出身のRudi Lidenと日系アメリカ人のDave Keboだった。

 彼らはDDを訪問した。私はすぐに彼らとの接点を見いだすことができた。彼らはクールで、エキサイトしていたし、熱心で、物語に夢中になった。そこで私はこう切り出した。「君たちと仕事をするには一つ条件があるんだ。私をチームに入れて作業してもらいたいんだ、できるかな。」彼らは考えさせて欲しいと言った。おそらく彼らは彼らの考えをここで披露して、チャンスをぶち壊したくなかったのだろう。そして彼らは戻って来て言った。「すみませんが、うまくいかないと思います。」そこで私は彼らに謝意を伝えて、そういうことなら結構だと伝えた。2、3日して彼らは、普通と違うやり方でもできるかどうか試させて欲しいと言ってきた。個人的に思ったのは、彼らの目的はお金だったのだろう。

 次の何か月間かの共同作業は、私の自分の人生の中で最もクリエイティブな経験の一つとなった。毎日10時ごろ、KeboとLidenはDDを訪れた。キャラクターを描いてその概要を決めて、私たち2人はそれぞれのシーンについて意見を交わした。私が会社のCEOの仕事をしている時は、彼らはキュービクルの中で原稿を書いていた。夕方6時には、再び私たちは集まってその日に書かれたシーンをチェックした。コメント、ディスカッション、かなり熱い議論が交わされたもの、最後には自分たちが誇りに思えるような脚本を書き上げることができた。こんな状態が数ヶ月は続いた。DaveとRudiの両者にとっても、実験的な試みは成功だったし、最終的に出来上がったものは理想的な脚本だったと言えると私は思う。ある時点でKeboはこの業界では働くことを止めたもの、Rudiは引き続き友達としていくつかの別のプロジェクトでも共同作業を行うことになった。

 この新しいバージョンの「千羽鶴」を携えて、とうとうこの業界で「エレメント」と呼ばれるものを探す時が来た。「千羽鶴」は巨額を投じたプロジェクトだし、視覚効果、ドラマ、ロマンス、歴史、興味深いプロットとキャラクター(映画の中のものはどれも私は好きだった)、それらはすでに述べたような理由によって、つくりあげるまでは困難に思われた。私は学習するのがまたちょっと遅すぎたようだった。このようなプロジェクトを立ち上げるには「エレメント」が必要なのだということがようやく分った。しかもこの場合、エレメントはウラニウムのごとく重いエレメントが必要だった。その重みは二つに分類される。映画監督と映画スターである。(続く)

 (※) タイトル画像はクリント・イーストウッド監督による「硫黄島からの手紙」の一場面。本文とは無関係です。

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