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【食の坩堝に落っこちて】

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マドリードの町の空気は重量感がある。圧し潰される感じではなく、肩の上に何かを乗せられたような緊張感の伴う重さ。街角の出店から漂うチュロスの匂いが、ゆっくりと鼻先を通過していく。ドーナツとは異なる香ばしく懐かしい匂い。道行く人の熱をもらったような湿気を帯びた石畳が静かに敷き詰められている。

歴史を語るバロック様式の建築物と、現代的な洗練された建築物が共存する不思議な空間が幾所もあるマドリードの歴史は、9世紀後半にイスラム教徒たちがマンサナーレス河の岸辺に砦を築いたことからスタートする。

1083年、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世がマドリードをイスラム帝国の手から奪回の後、この一帯はイサベル1世とフェエルナンド2世のカトリック両王による統一国家となる。

両王の孫でありカスティーリャ王国の国王カルロス1世が、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世として兼任することによりスペイン・ハプスブルグ家が誕生する。スペイン・ハプスブルグ家が絶大な勢力を誇る黄金世紀と呼ばれる時代の到来である。

やがて間もなく、カルロス1世の長男フェリペ2世によってトレドからマドリードに遷都。首都マドリードが誕生する。


マドリードの歴史を語るこの数行の文章だけでも既に、この地に数カ国の文化が入り乱れているのに気付く。

カルロス1世の父方の祖父母は神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリー。母方は『狂女ファナ』の名で知られるカトリック両王フェルナンドとイサベルの娘。『太陽の沈まぬ国』に君臨したフェリペ2世はポルトガル王の娘を妻としている。貴族・皇族の婚姻関係の成立により政治協定が結ばれたこの時代、人種だけでなく芸術、文化、習慣といったものが必然的に国境を越え、別国のそれらに融合されていったのは容易に想像できる。

その後、幾度も歴史を塗り替えながら様々な国の文化や習慣が共存しているマドリード。21世紀の今、各国から様々な人が押し寄せるスペインのヘソは人種の坩堝となっている。一歩、都心部に足を踏み入れると、ヒタノ(ジプシー)やイスラム人種、アフリカ・アジア人種、中南米、ヨーロッパと様々な人種が混ざり合い、薄くグレーがかった青空を当然のように分け合って生活している。

不特定多数の人種が混在しているということは、各国料理を専門にする飲食店もガイドブックに載せきれないほど山程あるということになる。極端な話、日本料理やイタリア・フランス料理はもちろん、各国の郷土料理や珍料理を食べたいと思えば、わざわざ遠くまで足を運ばなくてもマドリード近郊で容易に事足りてしまう。

けれど、それでは全く面白くない。歴史や文化・習慣だけではなく、その土地の持つ匂い、空気、音、光の強弱、人々の体温や言葉といったその地ならではの個性の全てが料理に反映されるからだ。

郷土料理というは、その空間で味わってこそ、本当の味わいを楽しむことができると思っている。その地に生きている人たちの味だと思うから。





【扉の奥でかけられた呪文】 

マドリード中心部の人混みから抜け出し、石畳を踏みしめながら街角に漂う「マドリード臭さ」を探し歩く。ガイドブックはあえて見ない。

しばらくすると、歴史を感じさせる格式のあるレストランが顔を出す。飴色の扉が、何十年もの昔から同じ場所に息づいてきたことを無言で教えてくれる。

レストランのすぐ側には、レストランとは対照的な薄汚れたタイル張りの市民の溜まり場のようなバールがある。バールというのは、スペインになくてはならないカフェ的庶民の憩いの場。狭い間口の奥に、ホールが細長く伸びている。

さらに先を進んでいくと、古ぼけた風合いのお菓子屋がある。木製ショーケースの中の商品は何年前から並んでいるんだろうと思っていたら、奥にいる店のお婆さんと目が合ってしまった。お婆さんの方が古いことを祈る。

そんな地味で味のある景色の中に飛び込んでいく時、緊張感と躍動感が入り混じって何とも言えない感情に飲み込まれる。そして、思いがけなく「その土地臭さ」を見つけると、自分だけが宝物を発見したような気分になって、こっそりとほくそ笑んでしまう。

宝物は小さくて、誰にも知られていない物ほど魅力的で、いつまでも果てることなくずっとその場で輝いていて欲しいと願って止まない。自分だけの宝物。それがいい。

同じ場所でも様々な「食」の場面があり、人それぞれが求めるものを満たしながら時代の中を流れていく。一体、何を満たしているのだろう。

レストランの窓から見える年配のカップルが、何やら談笑しながらワイングラスを傾けている。同じ味を、同じ時間を共有している。


***



夕暮れ時、飴色のバールの扉を押す。思いの外、重厚な木製の扉がゆっくりと開き、不釣り合いなチリンという可憐な鈴の音をたてる。夕食にはまだ早く客の姿は多くはないけれど、この国では女性一人がこうしてビールを飲みに行って誰も嫌な顔をしないのでほっとする。
 
入口に一番近いカウンターの隅に腰を下ろす。一人で静かな時間を過ごすのもいいし、カマレロ(ウェイター)と軽く世間話をして過ごすのもいい。ただ、椅子の背が高くて地に足が着かない小さな違和感が、異国で一人っきりでいる不安に無意識に重なる。

カニャと呼ばれる小さなグラス入り生ビールは、ジョッキのような厳つさがなくて女性にも頼みやすくていい。カウンターに固定されたビールサーバーから注がれた金色の液体がコトリと目の前に置かれると、雲のような肌理細やかな泡がフルンと踊る。

グイッと一気に半分くらい飲んでしまってから喉が渇いていたことに気づいた。まだしっかりと水滴が付いたままのグラス。ゆっくり飲めばよかったと後悔ながらグラスを空にして席を立とうとすると、頼んでもいないのに、もう一杯ビールが出てきた。

「あそこの紳士からの奢りだよ」

カマレロの声の方向に振り返ると、隅の席に座った初老の紳士が私に向かって軽く会釈をしている。襟元の青紫地に小さなピンク色の水玉模様のある蝶ネクタイが嫌味なく、それどころか清潔さと上品さを添えている。

「グラシアス」

不慣れなスペイン語でお礼を言うと、キュッと片目ウィンクが返ってきた。下心のない優しいウィンク。ここは有難くいただくべきだろう。しかし、新たに用意されたビールを飲み干すのを待たずに老人は席を立ち、店を去る際に一言だけこう言った。

「君にとって素敵な旅になるように」
 (間違いなく素敵な旅になるから……)

この時にかけられた呪文は、あれからずっと私を温かく縛ってくれている。


マドリードを起点とするスペイン一周の旅は始まったばかり。そろそろ夜の街が目を覚ます。





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