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【旅のはじまり】

「あなたは今、食べて生きていますか?」


これからお話する「食」のよもやま話。それは、今からずっと以前の話であり、けれど、紛れもなく現在であり、これから先、変わる事のないスペインの千夜一夜物語。


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そう聞くと、おとぎ話なのかと思うかもしれない。そうではない。今から何百年、何千年、何億年も前から人々が受け継いできた「食」。今のように美食という言葉が存在しなかった頃、「食」は、人だけでなく生物が純粋に生命を維持するための最も重要な源だった。

食べ物に関する栄養をネット検索する術もなく、自然の中で自分たちの手で探し出し、暮らしの中に取り入れていく作業は、時として命がけの作業でもあり、同時に、恵を与えてくれる自然に対する敬意も、はかり知れないものだったに違いない。雨乞いや収穫を祈る祈祷の存在も、そう考えるとごく当然だろう。

ならば、飽食の時代に生きる私たちの多くが「食」を自分たちで選択できるようになった今、栄養管理された食べ物を規則正しく食べていればそれで良いのだろうか。

どうしても舌の記憶から離れない懐かしい味わい。朝露を受けて目を見張るような鮮やかな野菜たちの色彩。驚くほど魅力的に鼻孔をくすぐる匂い。湯気を掻き分けながらフゥッと息を吹きかけながら食べる時の鼻から耳に伝わる音。そういったものはもう必要なくなってしまったのだろうか。

身体の機能を維持するために機械的に取り込む無機質な「食」は、どこまで意味を持つのか分からない。

子どもの頃食べた味をいつまでも忘れないでいるのはどうしてなのだろうか。

必ずしも良い思い出ではなく、たとえ美味しいものではなかったとしても、時には食べられなかった記憶であったりするのに、人はどうしてその味を心に刻むのだろう……。

そんな「食」についての疑問をずっと持ち続けてきた。



日本を離れ、スペイン第三の都市バレンシアで暮らしてもう四半世紀以上が経つ。2040年には世界一の長寿国となるこの国の人たちは、食べて生きる人たち。彼らは決して裕福な人たちばかりではない。けれど、暮らしの中の「食」を愛し、自然の恵みとしての「食」を敬う。

満たされる時代の中であっても、決して満たされないものがある。その正体をこの連載を通じて読み取っていただきたい。


マドリードを起点にスペインをぐるりと一周する旅。どうぞお付き合いください。


≪訪問ルート≫

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【まずはリンゴを用意して】

スペインへの玄関口マドリードのバラハス空港。長時間にわたる機中の密度の高い個室から解放されてゲートを潜り抜ける。

異国の空気を肺一杯に吸いこむと、一気に目が覚めたようにスタンドで販売されている搾りたての オレンジジュースが目に飛び込んできた。ピッチングマシーンのように、ポン、ポンと一つずつ先端に押し出されたオレンジが自動絞り出し機の中ギューっと絞られていく。


舞台は1992年。今から29年も前に初めてスペインの大地を自分の足で踏んだ。飲んだ搾りたてオレンジジュースを初めて飲んだ。コップの端ギリギリまで注がれたそれは生温かく、オレンジ色というよりも黄色い色をして口にするとやけに酸っぱく少し苦かった。一緒にサービスされた朝食セットには、焼き過ぎて少し焦げてしまったハーフバゲットの上に、擦りおろしたトマトと、向こうが透けて見えるほど薄くスライスされた生ハムが一枚だけ乗っかっていた。

オレンジの主要産地はバレンシア地方でマドリード近郊では収穫されないこと、トマトの乗っかったトーストがパン・コン・トマテと呼ばれるカタルーニャ地方の名物であること、あの時のゴムみたいな生ハムではない本物の生ハムは、口の中で蕩けるのだということ知り、スペインが私にとって第二の祖国となったのは、これからずっと先の話である。 

30年近く前の話を聞いても仕方がない?

ご心配はいらない。過去のない現在はないように、現在のない未来も存在しない。過去の散在する限りない数の点が現在に集まり、一本の線となって未来に向かって伸びていく。過去から現在、そこから未来が見えてくる。立ち止まって過去を見つめ直してみると、今まで見えなかった未来がより一層、色どりを増して視界に広がってくる。



随分前に、DNA検査に関するという動画を見たことがある。この検査によって、自分はヨーロッパ系米国人だと思い込んでいたのに、実はアフリカ系の血が混ざっていたというような事実が次々と明らかになっているらしい。

先祖代々日本人の家系だと思い込んでいても、もしかしたら、どこかでヨーロッパ系の血が自分に入っている可能性はゼロではない。そう考えると、日本の歴史と同様に、他国の歴史も他人事ではなくなる。

国を超え、大陸を超えて「食」は常に人と共に動いている。人は食べなくては生きていけない。人が動く場所では必ず「食」が動き、それぞれの場所で順応し、融合されて新たな文化を生み出してきた。「食」の向こう側に歴史が見えるのだ。

17もの自治州に分割統制されたスペインの土地。各自治州で、それぞれの風土自然の中で生まれた伝統を頑なに守りながら生きる人たちの素顔がある。自分の土地を愛して止まない人たちの母なる大地の集結。スペインの食文化は、一国の文化でありながら、まるで複数の異なる小国家のそれが一カ所に集結しているかのように多様だ。

スペインの各自治州を一つ一つ訪れながら、「食」を通して人々が生きる姿に触れる旅。この旅により、ジグソーパズルのようなスペインを一つの絵画として鑑賞する鍵を手に入れる。鍵は、生きることをより楽しみ、より広い視野で未来を見つめる可能性に広がる扉の鍵でもある。

日本にも、スペインと同じように各地方で先祖代々に渡って自分の土地を守り、家族を守り生き抜いてきた人たちの血肉が土となって形成されている場所がたくさんある。そこには、語り継がれるべき歴史やその地に住む人たちにしか理解できないものがあり、何があっても守り続けるべきものがある。

多様性という言葉が以前にも増して使われることが多くなった今、こうした伝統もまた、尊重し合いながら、共有していく時代になっていく。土地に伝わる文化や伝統だけではない。人も同じだと思う。人それぞれの個性に目をつぶることなく尊重し合いながら、理解し、共存していく必要がある。


 
ここで一つお願いしたいことがある。
りんごを一つ食べて欲しい。
そして、その時に感じたことをどこかに書き留めておいて欲しい。

食べて生きる人たちが教えてくれる未来への小さな扉の鍵を探す旅は、既に始まっている。旅を終えた人たちだけが手にする鍵。


「あなたは手に入れてみたいですか?」



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