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心理カウンセリングの射程と対象像

 諸富祥彦先生の本を読んだ。なんだかんだPCA系の本を読むのは初めてだと思う。心理屋界隈での先生の評価のほどは知らない。この本を手に取ったきっかけは下記のツイートで、正確にはメンションに本書のことがぶら下げられていたからだ。

 期待を折られていくカウンセリングというのは経験的にわかるところがあり、私の観測範囲でそういうことを言う人があまりいなかったので、おもむろに興味がわいたというわけ。読んでみるとそういう真理を指摘するタームにはあまり紙幅は割かれていなくて、タイトル通りカウンセリングの技法を概観する内容だった。内容自体は読みやすかった。ただ、本書を読んで私のこころに一番引っかかったのは当初心惹かれた上記の個所ではなく、カウンセリングという技法が想定しているクライエント像に関するものだった。

カウンセリングの対象像

 あらかた目を通して思うのは、カウンセリングってやっぱり基本成人期向けなんだな、という印象だった。細かく言うと、器質的な脳機能障害がなく、主たる養育者との愛着関係を持ち、思春期葛藤を経過した成人期向け、という感じ。PCAの人間観と言い換えてもいいのかもしれないが、これはカウンセリングと称される複数の流派に関して著作や言説に触れてきたうえでの感想なので、ある程度カウンセリングに一般化している。

カウンセリングの枠を守るということ

 カウンセリングにおける枠組みを守ることは、誰にでもできることではない。今から書くのは傾向の話であって一般化するつもりではない。

 時間の枠組みを継続的に守れない。他者や社会との関係がうまくいかないことについて、自分の側に原因や解決の糸口を見出すことが困難で時に他害的。自己省察などの抽象思考の困難さ。現実の不都合が妄想によって整合される。葛藤が維持できない。抑制が欠如して話題が散逸する。名前に執着して意味を捉えない。規範と自己が未分化なので自分の意思で決断することが困難。自分が困っている自覚がないのでカウンセリングの場に現れない。話を聴いてもらうことの効用を経験的に知らない。愛着のあるセラピストによる"リフレクション"が困難。生きる動機がないのでよくなる動機も希薄。社会適応が崩壊しているので枠組みを理解していてもカウンセリングの場に来れない。

 現実の人間にあり得る現実の困難を列挙しているだけで、そういう人たちをダメな人たちだと非難するつもりはない。私が言いたいのは、上に書いたような要素が重なり合うように存在している場合には、本書の規定するカウンセリングの適応にはなるまい、或いはカウンセリングを継続できまい、ということだ。では、そういう人たちはカウンセリングという理論と技術の体系からいかなる恩恵にも預かることはできないのだろうか?

カウンセリングの射程

 時間と担当者と費用を決めて厳密な枠組みを設定するような私費のカウンセリングルームのやり方ではないけれど、実際には現場ではいろいろな人たちがその知識と技術を援用しながら仕事をしているのではないかと思う。特に措置施設については、組織が入所者を選ぶというプロセスが存在しないので、必然的にセラピストがクライエントを選ぶ行程もかなり限定的になるかと思う。そういう現場では、カウンセリングの適応如何に依らず、カウンセリングの理論と技術が利益をもたらす場合にクライエントに対して提供されるだろう。
 ただし、そういう場合でも、私たち、或いは彼らが援用するカウンセリングというものが、根本で人間を選別する過程を経ていることは忘れてはいけないと思う。ちなみに、いくつか見てきたうえで言うけれど、病院やクリニックは組織や医師による選別を経ているので無作為でもなんでもないよ。

カウンセラーが出会わない人たち

 限られた人たちだけが門を叩くカウンセリングルームの主には、そこに来ない人たちについて、何かを言うことはできない。そういう人の数が無視できない程度に多いことは、ソーシャルワーカーの経験に照らしてある程度明言できる。カウンセラーがカウンセラーである限り、彼らが何かを言うことができるのは、カウンセリングの適応になる限られた存在についてだけであるにも関わらず、少なくともそこに現れない人たちを抜きにして人間存在の本質を語ることは適切ではないと、私は思う。
 ほとんどのカウンセラーは、正統orthodoxな訓練を受けて資格を得たカウンセラーに寄り付かずにインチキセラピーや霊感商法にハマる人、カウンセリングの価格設定が理解できない人、私費カウンセリングを受ける経済力がない人について、本当は何も知らないに等しいんだ。
 こんなことは既にいろいろな臨床家が手を変え品を変えて指摘しているが、カウンセリングが人を選ぶものである限り、カウンセラーの態度というものも本質的には変わりようがないんだろうかと思っている。だって視界に入らないから無理からぬ事だし、基本的にみんな無自覚で善意なんだと思う。だから救いがないなって思うんだけど。

ソーシャルワーカーの視点から

 PSWは心理屋ではない、ソーシャルワーカーはカウンセリングをしない/するべきではない、或いはカウンセラーではない、という議論がある。まあそうかもしれない。
 しかし、ソーシャルワーカーとして仕事をしていると、ここまで書いてきたような、カウンセリングの適応から外れてしまった人たちと出会う。こころの問題を抱え、その解消を希求する存在に対して、ソーシャルワーカーは何ができるだろうか。カウンセリングを求めながらカウンセリングから疎外されてしまったような人たちに対して、ソーシャルワーカーは何をすべきだろうか。
 結局、ソーシャルワーカーもカウンセリングを援用するしかない瞬間が確かにあると、私は感じる。設えられた上等なカウンセリングではなくて出来の悪い真似事かもしれないけれど、もしも相手がそれを求めてくれるなら、そしてそれが必要なら、やらない選択肢はない。もちろん、ありあわせのものが何もないときよりも有害であってはならないから、学ばなければならない。実際、カウンセリングの理論や技術が私自身の仕事を助けてくれたことは数えきれないほどある。
 私は、カウンセラーでも心理屋でもないソーシャルワーカーとして、カウンセリングの理論や技術を学び、鍛錬し、その所産を求められるときに援用するだけ。そこにはカウンセリングが対象像に想定する狭い人間観もなければ、ソーシャルワークの専門性やPrefessionalismといった美辞麗句で装飾されただけの縄張り争いもない。そんな鉄火場で無力である事を肯定したくもないし、されたくもないし、積極的に何かをやらないための理屈はいらない。

結びに

 カウンセリングについての言説に触れるたび、その前提にある人間像に対して座りの悪い思いをしてきた。そこには、選ばれた人間が広く人間存在そのものの真理として表現することを許された、一種の選民のような状態があった。多くの人はいないのと同じだった。私が出会ってきた人たちがそこに含まれていないと思わされたことは一度や二度ではない。時にカウンセリングの真似事が彼らの助けになったにもかかわらず、カウンセリングの中に彼らはいなかったのだ。実のところ、カウンセラーとともにカウンセリングの理論や技術を培ってきたクライエントは、人間存在の果てしない広範さの前に均質ではあり得ても、諸層に均等ではあり得なかったと私は思う。カウンセリングを学べば学ぶほど、カウンセラーの言説に触れれば触れるほど、今までのところ溝は深まるばかりだ。


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