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福島で生まれてから仙台の専門学校に入るまで

1987年5月13日、福島県最南端に位置する矢祭町に長男として生まれる。4つ上の姉。
父親は金庫販売のサラリーマン、20代の頃は東京で本の営業をしていたが、第二子が産まれる前に、両親のことも考え、地元福島へ戻ることに。絵画や骨董品が大好きで、実家にはかなりの絵画と骨董品が置いてある。芸術的な観点は父親譲りかと思うことが多々ある。威厳のある父というより、だらしない面を見せる父であるが、だらしない面を見せてくれていたことが、話し易さに繋がっていたと振り返って気づいたとのこと。

母親は専業主婦と介護職。子どもが小さい頃は母親の愛情をたっぷり与えたいという想いから、専業主婦を。子どもが中学、高校になる頃、介護職の国家資格を取得し仕事に就く。年齢など関係なく、努力を続ける姿勢と常に明るい笑顔を見せてくれる母親には、なんでも話せる安心感があった。老若男女誰とでも仲良くする姿、人はみんな平等であると考える母親から影響の影響が大きいと語る。

幼少期

4歳の頃、父親の仕事の都合で千葉県に引っ越し、小学校2年生の1学期まで通う。父母曰く、福島に戻ることに猛反発し、説得するのが大変だったと語る。8歳(小学2年生)から地元福島の学校へ通うこととなるが、学校に馴染めず、話しかけられても、話し返すことができなく、無口無反応、物静かな時期を過ごす。当時のことを「毎日が緊張で学校に通うのが辛かった。この時から人生や生きる意味について考えはじめた」と話す。

唯一目立ったのが"走り"
体育が得意な先生に足の速さを見つけてもらい、小学校の群大会では100m優勝。リレーではアンカーを務め怒涛の3人抜きで2位入賞。しかし走ることは好きでなく、言われたから走っていたと語る。

学校が終わったらすぐ家に帰りゲームをしていた。数人遊べる友だちはいたものの、本人の心は閉ざしているため『無感覚』になり、遊んでも楽しいと感じることができなかった。

中学時代

2000年(平成12年)、矢祭中学校に進学。無口無反応の自分を変えたいと、話しかけられたら、何かしら反応することを覚えるが、笑われていると感じ、人間関係が苦痛となってくる。この頃K-1ブームによりアンディフグやピーターアーツ、アーネストホーストなどに憧れで格闘技に興味が湧く。しかし、部活に格闘技はなく、仕方なく全身運動ができる野球部を選択。足が早かったため、1番サードというやりたくないポジションに着かされる。部活も楽しくない人間関係が苦痛の中、自負を保てていたのが『勉強の点数』だった。テストの点数が良ければ優位に立てると感じ、点数や順位などを意識し男子の中では常にトップ5にはランクイン。同級生を見下すために勉強をし、強烈な優劣を意識し始めたのもこのタイミングで、31歳になるまで優劣で人を見る癖が治らなかったと言う。

高校時代

2003年(平成15年)白河旭高校に進学。苦痛な学校生活を抜け出すには、優秀な人が集まる学校への進学しかないと話す。電車で30分バスで1時間の往復約3時間の学校生活。中学の同級生が数人のみであることに安心感を抱き、少し解放感も感じることができた。気兼ねなく友人と遊ぶことができたのもこの時期で、勉強より、遊びに時間を費やす。部活は入らず帰宅部で毎日友人とカラオケか帰宅してゲームか趣味のベースを弾くこと。ほとんどの生徒が部活に入る中、野球部のような辛い思いはしたくないことから、入部は拒否。よくカラオケに行った友人も同じ苗字の深谷。しかし、周りの友人が部活で全国大会出場や優秀な成績をおさめる中、自分には何もないことに静かな『劣等感』を感じる。この劣等感をカラオケなどの遊びで誤魔化していたのかもしれないと振り返る。

専門学校時代

2006年(平成18年)東京法律専門学校仙台校へ進学。この頃ファッションに目覚める。勉強は相変わらず覚えるだけで全く楽しみを見出せないまま遊び呆ける毎日。公務員試験では海上保安官、警察、自衛隊とすべて不採用。唯一受かったのが国家公務員試験三種。面接は外務省と経済産業省を受けて、外務省から内々定を頂き入省に至る。この時、外務省の面接と知らずに聞きたいことがあるから話に行ったら受かっていたと話す。

2008年(平成20年)から外務省勤務がスタート


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