【サーフィン小説】ビジタリズム|第15話
15ラウンド目 マチャドヘッド
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、力丸の目の前には、想像していたよりもずっと開放的な光景が広がった。
まず、明るい。
海に面した壁一面に特大の窓がはまっていて、そこから差し込んでくる陽光は、ギラつくことなく程よく加減されている。どうやら外側はバルコニーになっているようで、そこに立てば万里のポイントを足下に一望できることは想像に難くなかった。
窓がはまっていない壁面は、向かって左手に古材の横板が貼られており、それ以外の2面は鮮やかな浅葱色に塗られていた。
そして、入り口から見える範囲にディスプレイされているのは、圧倒的に洋服が多かった。サーフショップでありながら、むしろセンスのいいアパレルショップに踏み入れたかのような錯覚を覚えるが、意外と奥行きがある右手に視線を振れば、そこにはショートからクラシックなロングまで、所狭しとサーフボードが並んでいる。おそらく117シェイプスのものだろう。
店内には、夏の朝聴くのにピッタリなロブ・マーリーのゆるいレゲエがうっすらと流れていた。
(あれ?めちゃくちゃセンスいい……)
ハッキリ言って、意外なほど力丸の好みだった。
今朝、これまでに抱いた万里ローカルサーファーたちへの印象や、この建物自体の公衆トイレのような外観から、力丸は勝手に雑然とした、町の個人商店のような店舗を想像していたのに、この居心地の良さはどうだ。
ここで力丸は、右手奥に据えられたカウンターの中にスタッフが座っているのに気がついた。
そしてその瞬間、スタッフの頭に乗っかっているデカいソフトアフロに目を奪われた。それは、レジェンドサーファー、ボブ・マチャドの全盛期を彷彿とさせる立派なものだった。歳の頃は30前後だろうか。
「こんちは〜」
力丸と目が合う絶妙のタイミングで、マチャド頭は声をかけてきた。その声色は、愛想がいいとも悪いとも言えない、ニュートラルなものだった。
朝の7時半に「こんにちは」というのには少し違和感があったが、初対面の客にサーフショップの店員がとりあえずかけるの言葉としては、一番相応しいだろう。
「こ、こんにちは」
力丸はぎこちなく挨拶を返したが、マチャド頭は、それ以上の言葉をかけてくる気はないようだった。
朝早すぎるからなのか、それともみんなまだ波乗り中だからなのか、店内に他の客の姿はない。力丸とマチャド頭の二人きりである。
こればかりは一見客の運命だから仕方のないことではあるが、マチャド頭の品定めするような視線に、力丸は一抹の居心地の悪さを感じた。
こんな時、和虎なら迷わずマチャド頭にリーシュのありかを聞くだろう。ヤツならリーシュが切れたことまで楽しそうに伝えてあっという間に仲良くなるに違いない。しかし、力丸には何故かそれができなかった。
自分に注がれ続けるマチャド頭の視線を意識しつつも、自らリーシュのありかを探して店内を見渡す。
右手奥にボードが並んでいるのだから、小道具類もそのあたりに陳列されているはずだ。
力丸は、意を決すると歩幅を広げて右手奥へと進んだ。
予想通り、サーフボードが並ぶ壁面の手前に、デッキパッドと一緒に大量のリーシュがぶら下がっていた。
それらは種類もブランドも色とりどり、という感じだったが、力丸はあまりそこでもたつきたくなかった。
マチャド頭と二人きりという空間に耐え切れなかったのか、リーシュを前に悩んで立ちすくんでしまう素人と思われたくなかったのか。あるいはその両方かもしれない。
自分の人見知り加減や謎のプライドに時々嫌気が差すのだが、こればかりはどうしても治らない。仕事をしていてもこの性格のせいで損をしている場面が多いという自覚はある。
とにかく、力丸は目についた手頃なリーシュをフックから手に取ると、俯き加減にカウンターへと向かった。その間にタグに目を走らせ、素早く値段を確認する。
(3,680円か……ま、仕方ない)
決して安くはない出費だ。今日は下道で帰ろう。どうせ和虎は助手席で寝ているだけだから文句もあるまい。
「これお願いします」
力丸は、ため息をつきながら、やや俯いたままリーシュをカウンターに置いた。
マチャド頭は無言のままそれを受け取ると、バーコードをスキャンするべくタグを手に取った。
それを見て、力丸は財布の口を広げた。中から4枚の札を抜き出すフリをしながら、マチャド頭との間を持たせようと財布に視線を落とし続ける。
しかし、いつもまで経っても、リーダーがバーコードを認識したことを示す甲高い音は聞こえてこなかった。
違和感を覚えた力丸が顔を上げると同時に、マチャド頭と目が合った。
「そこの」
マチャド頭は、入り口付近を指差した。
「え?」
不意をつかれた力丸も、釣られて入り口を振り返る。
「入り口に吊るしてあるAssetsのシャツとパンツ、新作なんすよ」
「え?ああ……」
「似合うと思うな〜お兄さんに」
「え……そ、そうですか?」
力丸は内心驚いていた。
入り口付近に豊富に陳列してあるAssetsの存在には、この店に一歩足を踏み入れた時から気づいていた。バイロンベイ発で、ヒッピー要素と都会的な雰囲気の絶妙なバランスが、力丸の感性にドンピシャでハマるアパレルブランドだ。まだ日本で目にする機会はそれほど多くはなく、まさか万里のサーフショップでお目にかかれるとは思わなかった。
それもまた、力丸がこの店に感じた居心地の良さを構成する要素の一つだった。
しかし、これから夏本番を迎えるというのに、陳列されているのは明らかに秋冬物だった。アパレル業界のカレンダーは実際の季節より数ヶ月早く巡っていると言ったって、これはいくらなんでもやりすぎだろう。代官山の最前線を気取ったショップだって、まだ流石に秋冬ものは置いてないに違いない。
それに、今はリーシュで予定外に4,000円近くも出費しなくてはならない状況だ。Asstsに興味がないわけじゃなかったが、少なくとも検討するのは今日じゃない。
「あ、いや、今日はとりあえずリーシュだけで——」
「お兄さんの今履いてるショーツに、あのヘンプのロングスリーブとか合わせたら、かなりイケてると思うんすよねえ。秋口あたり」
力丸はまた驚いた。
指差されたグレーの一見地味目なシャツ、素材感がまさに力丸の好みだったし、今履いているショーツに合わせて羽織るのに一枚何か欲しいと思っていた色味にドンピシャでハマっている。
このマチャド頭、読心術でも心得ているのだろうか?
力丸の心は大きく揺さぶられたが、グッと堪える。
「あ、いや、かっこいいですけど、今日は——」
「ちなみにお兄さんが車停めてるあそこ、ウチの駐車場って知ってました?停められるの、一応メンバー限定でやらせてもらってるんすよ」
また、マチャド頭が言葉を被せてきた。規則を破ってしまうことに対して特に敏感になっている力丸にとって、それは覿面な効果がある言葉だった。
これは……揺すりだろうか?
「え?あ……すみません、てっきり公営の駐車場かと思ってました」
「いやいいんすよ。ぱっと見わからりづらいからね——似合うと思うんだよなあ、ヘンプシャツ」
「……い、いくらぐらいですか?」
もともと自分の好みのツボを押されまくったせいもあるのだろう。今や力丸の心は、背中を指先でほんの少しだけつつけばたやすく踏み出すぐらい摩擦抵抗がなくなっていた。
「いや決して安くはないすけど。12,000円す」
「……ちょっと、袖通してもいいですか」
「もちろんす」
この時点で力丸はもう完全にシャツも購入することを決めていたが、形式上、自分で判断した、という事実を作るためだけに試着を申し出た。
断じて揺すりに応じた訳ではない。マチャド頭の絶妙なセールストークのせいだ。初対面だというのに、力丸の好みにドンピシャな提案をぶつけてくるだけでなく、こちらの財布事情をわかっているかのように、価格に対しても正直。本当に、ただのサーフショップの店員なのだろうか?
マチャド頭は、別段しゃしゃり出てくることもなく、ヘンプシャツを手に取りにいく力丸を、カウンターの中からただにこやかに見守っている。
そして、力丸がシャツに手を通して居住まいを正すと、嬉しそうに文字通り諸手を上げた。
「ほらあ!めちゃ雰囲気でてるじゃないすかあ!」
マチャド頭の言葉は決しておべんちゃらではなく、自分の見立て通り、それが力丸に似合ったことが心底嬉しかった、そんな響きを孕んでいた。
店内の姿見に映った自分の姿を眺めた力丸は、そのシャツが、まるで自分のために存在しているような気分になった。
(ここ、サーフショップだよな)
力丸は改めてそう思わざるを得なかった。だが、決して嫌な気分でもなかった。
(仕方ないからカードで払おう……)
「そしたら、これも……ください」
マチャド頭は、そうなることが当然であるような顔で、力丸が差し出したヘンプシャツを受け取った。
これで、帰りは下道決定なのはもちろん、和虎が行こうと意気込んでいる飯名ミキタ氏の営むブルワリーでは何も飲み食いすることはできないな。
(あ、そう言えば、これで車停めても大丈夫になったってこと……だよな?)
力丸は、ふと車のことが気になって、シャツを丁寧に畳んでいるマチャド頭に尋ねた。
「あの……これで、僕もメンバーになれたりするんですかね?」
「ああ、」
マチャド頭は顔を上げて、何かを言いかけた。
しかし、次に聞こえた声は、マチャド頭のものではなかった。
「メンバーは、ウチでボード買ってもらわないとなれないんだわ」
マチャド頭の背後にある、(おそらく事務室の)ドアが突然開き、野太い声の主が姿を現した。
——お、鬼瓦!?
力丸は、メンバーになれないという言葉と、突然姿を現した男の、いかつい外見の両方にショックを受け、その場でフリーズした。
〜〜つづく〜〜
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