【サーフィン小説】ビジタリズム|第14話
14ラウンド目 入店
力丸が再びステップワゴンまで戻ると、ちょうど和虎が上がってくるところだった。
その顔は、付き合いの長い力丸から見ても、過去最高の笑顔、と言えるものだった。いや、表情自体は、口角がうっすらと持ち上がっている程度で、そこまで笑って見えないかも知れない。しかし、溢れでるアドレナリンは隠せていなかった。特に和虎の目は、完全にキマっている人間のそれだった。
「おせえよ、カズ」
「いやあ、スーパー波よすぎた。上がるのもったいなくてさ。マジで俺史上ナンバーワンのコンディションかも」
「まあ、これは、そうかもね」
力丸は頷きながら、ステップワゴンのリアゲートを跳ね上げた。
ボードを車内に挿し入れ、ポリタンクの水を砂を落とすためだけに控えめに浴びる。まだ1日は始まったばかりだから、ここで水を使い切るわけにはいかない。
自分が水を浴び終わると力丸はポリタンクを差し出したが、和虎はそれを受け取らなかった。
「いいわ、俺、水分補給したらまたすぐ行くから。さすがにこのままやってたら熱中症ヤバいでしょ」
和虎は空を仰いだ。太陽はさらに高度を上げ、じっとしていると肌が焦げるのを感じられるほどになっていた。
「ていうか、マエノリくんも早くもっかい行こうよ」
「いや、俺は後でいいや」
「なんで?こんな波いいのなかなかないよ?まあ、前乗りのことはもう切り替えてさ」
「違うんだよ。リーシュが」
力丸は、まだカップに繋がったままラゲージスペースに垂れ下がったリーシュの切断面をつまみ上げてカズに見せた。
「おお、巻かれた?」
「うん。ちょっとね。だからあそこでリーシュ買ってくるわ。あれ、サーフショップだった」
パトカーの向こうにある建物を指さす。
2回目の前乗りのことは、あえて伝えるのをやめておいた。ついでに言うと、あのパトカーは十中八九オッキーのボードが積んであることも、サーフショップが「ワイプアウト」というふざけた名前であることも伏せた。
何せ力丸自身、いろんなことが一度に起き過ぎて頭がバグってきているのだ。それらを要領よく説明する自信はなかったし、早く2ラウンド目に行きたがっている和虎に今それを喋ったところで聞く耳を持つとも思えなかった。後で整理できたらゆっくり教えればいい。まあ、永遠に整理できる自信もないのだけれど。
「カズも行く?」
不吉な名前のサーフショップを指さしたまま、形式上、聞く。
「いや、俺は後でいいや」
予想通り、さっき力丸が発したのと寸分違わない言葉が返ってきた。
「そしたら、リーシュ買ったら行くよ」
「おけ」
和虎が助手席からコンビニで買ったお茶のボトルを取り上げキャップを捻る。その間にも、常に目線は南端のピークでブレイクする波に釘付けだった。
(完全にイっちゃってるなあ、カズ)
これもある種のゾーンなのだろう。力丸はウェットを脱ぎながら、自分もそこまで入れ込める域に達する日が来るのだろうか、と考えた。
「カズ、今日何ラウンドするつもりなの?」
「今何時?——7時半か。午前中もう1ラウンドして、メシ食って、ちょっと昼寝して、午後も2ラウンドじゃない?」
和虎はきっと、万里ローカルたちと遜色ないぐらいの波数を乗っていたに違いない。あのペースで4ラウンドもするつもりかよ——あ、そういえば——
「カズ、今日3時からマッサージ予約したから」
「え?」
「マッサージ」
「は?」
無理もない反応だ。何せ力丸の言葉は、今置かれた状況に照らし合わせてあまりにも文脈を無視し過ぎている。しかし色々な出来事の中で、どう言うわけか、これだけはカズに伝えようという気になったのだった。
「アウトでさ、なんか春麗に話しかけられたんだよ」
「ちゅんりー?」
「あ、いや、ロングの女の人」
ここで、眉間にシワを寄せていた和虎の顔がパッと明るくなった。
「ああ、あのめちゃ上手い人?青いロンスプの」
どうやら和虎もその存在には気付いていたらしい。まあ、他はショートボーダーばかりの中で、あのライディングをするロングボーダーは目立つに決まっている。
「うん。あの人、多分中国人でさ。アウトでマッサージの客引きしてるんだよ」
「いやいやいやいや。ないないないない!」
大真面目な力丸の言葉を、和虎は爆笑しながら即座に否定した。これもまた無理のない反応だ。何せ力丸にだって未だに信じられないのだ。
「いやマジなんだって。俺が2時からで、カズが3時から。なんか強引に予約入れられて」
「いやいや、どうやって?」
「なんか、多分アップルウォッチつけてて、電話してた。多分中国語で」
「いやいや、それ平日終電後の新橋じゃん。ここ休日朝の万里だよ?」
「それ、まったくおんなじこと思ったよ俺も!」
「で?店の場所は聞いたわけ?」
「いや……聞いてない」
「ほらあ。そんなの成立しないでしょフツー」
実際、力丸も成立するとは思っていない。そもそも力丸は、この馬鹿げた申し出に同意した覚えもないのだ。それに、春麗は肝心の店の場所を伝え忘れているのだから、すっぽかしたとしても自分に過失はないはずだ。
それでも、それをすることに一抹の罪悪感を覚えてしまところろが、力丸の弱点と言えるだろう。要するに人が良すぎるのだ。
「そんじゃ、アウトで!」
和虎は飲み干したお茶のペットボトルを助手席に放り投げると、117シェイプスのボードを小脇に抱え、くるりと背を向けた。
それを見送ってしまうと、力丸はもう覚悟を決める他なかった。
正直なところ、初めてのサーフショップの敷居を跨ぐのは思いのほか勇気がいるものだ——ここ万里では、なおさらというものだろう。
オッキーの(ものと思しき)パトカーを通り過ぎ、再びチョークアートが施された看板の前に立つ。
やっぱり、「ワイプアウト」などというネーミングから考えても、常識的なショップではない可能性が高い。
力丸は、ひとつ深呼吸すると、階段を踏みしめる。
10段ほどを上りきると、正面に観音開きのドアが現れた。
(へえ、木のドアか)
風合いの出た古木で仕立てられたドアは、公衆トイレを思わせるコンクリートの建物の外観からは想像もつかなかった不思議な魅力を放っている。
ドアには、やはり「WIPEOUT MANRI」とサインペイントされたガラスがはめ込まれていたが、外が明るすぎるせいで中の様子は分からない。
力丸は、入り口に敷かれたマットの上でもう一回深呼吸をすると、思い切ってドアを引いた。
〜〜つづく〜〜
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