若き才能を全力で応援したい
今日はミイラ愛を語ろう。
おっと!
離脱を試みたそこのあなた、もう少しおつきあいを。
なにゆえミイラ愛?と訝しんだそこのあなた、お気持ちはよく分かる。
だって、ミイラやもん。
以前、ミイラ展に初めて行ったときの興奮冷めやらぬ記事をご記憶の方もおられるかもしれない。
そこには、大阪で開かれた展覧会で42体のミイラから受け取ったメッセージをこう書いた。
これが僕の中にあるミイラ愛の正体だ。
もうそれで説明を尽くせた、そう思っていた。
ぽぷてさんに出会うまでは。
プロフィールの「ミイラと考古学が好きな中学1年生!文化人類学者を目指し、日々奮闘しています!」に圧倒される。
ぽぷてさんはこの記事でミイラに対する愛と敬意を高らかに述べる。
うぅ、そのミイラ愛の大きさ強さにただただ唸る。
初ミイラは小5ということだけど、僕も小5で見ることが叶っていたら、ぽぷてさんのように世界が展けただろうか。
いや、当時の僕には怪しいな。
あれ? 2年前ということは僕の初ミイラと同じ年やんか。
ん? 会場が大阪ゆうんも同じやんか。
…もしかして、同じ展覧会?
ひょっとするとあの日、隣で食い入るように見ていた少女がぽぷてさん…? だったのかもしれない。
ぽぷてさんと何度かやりとりしているうち、こんなリクエストが。
「その愛をぜひ記事にして欲しいですー!」
は、はい。
*
ミイラとは、抜けた魂がまた還ってこられるように、あるいは魂が宿ったままでいられるように、極限まで肉体を損なわぬよう加工されたものだ。
生きながらに自らミイラの道を選んだ日本の即身仏は永遠の瞑想中だ。
展覧会では1体ずつ足を止め、対話した。
どのミイラからも強い念の訴えを感じる。
生を終え何百年、何千年と時間は進んでいるのに、当時の記憶を湛えたままのミイラは今にもあたりまえの日常を再開しそうだ。
死をもって肉体が朽ちる自然の摂理に真っ向から反し、永遠にその姿を留める超自然性、神秘性、呪術性がミイラにはある。
どんなに努力をしてもどんなに大金を積んでも、死後の世界は誰一人として見ることができない。
それが「死生観」という観念を生んだ。
見えないものに対して恐怖を感じるのが人というものだ。
時間を止めて死に抗うことで生死の境界を滲ませ、その恐怖を和らげる。
ミイラとは太古のものであると同時に、人の思索の先端を行くものなのだ。
ふぅっ。
ミイラ愛、語れただろうか。
ぽぷてさんの記事をもう一度見てみると、こんなことが書かれていた。
ミイラには「それぞれに人々の死生観や生き方が詰まっている」と。
僕がやっと捻り出した「死生観」を彼女はさらりと呈示する。
あぁ、敵わないな。
若き才能を全力で応援したい。
(2023/8/27記)
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