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演奏者の声を求めて。

私達が演奏する時、音は酷く正直である。
音はそのひとのプロフィールと言ってもよいだろう。声や眼差しのように、隠しようもなくその人そのものを語り始める。音を聴けば何となくその人がわかる。優しい人なのか、情熱的な人なのか、それとも勝ち気な人なのかが。

クラシックを長年勉強していると、様式(スタイル)とか、とにかく楽譜に忠実になどといった、どこか演奏者自身から離れたところに注意が向くようになり、遂にはそうした事柄が演奏に関する技術的なテクニックをマスターすることに次いで最も重要な事だと思いこむようになる。

でも果たしてそうだろうか?
ぴかぴかに磨き上げたテクニックと、作品に対する綿密な洞察力さえ兼ね備えていればひとを感動させることができるのだろうか?

残念ながら、答えはノーだ。例えばバッハを演奏する時に、バロックの時代のオリジナルに近づけなければと文献を漁り、頭で近づこうとすればするほど肝心のハートは遠ざかるばかりだ。
実際にそういう演奏を度々耳にしてきたが本当に退屈してしまう。心に響かない音楽をひたすら知識だけで楽しもうなんて無理に決まっているのだ。
そういう頭の中だけで出来上がった演奏は、度々演奏技術の高さを誇示したり、一点の隙も曇りもない演奏という意味においては称賛に値するかもしれない。

でもそのようなプロの間のみで共有される価値感は、音楽を勉強したことのない視聴者にとってどんな意味があるのだろうか?
このように演奏者の存在自体が希薄な演奏で聴かれる音というのは【美しいけれども無機質なすべてのもの】によく似ていてひんやりと冷たい。
人間臭さとか、怒りや苦しみみたいな感情をすべて取り除いたあとの人工的な感触。人の血が通っているようには思えないのである。

自分が何かに囚われて演奏を楽しめない時、私はよくパブロ・カザルスのバッハを聴く。
カザルスの音はむき出しで力強く、そして熱狂的なのが素晴らしい。聴いているうちにそれがチェロであることすら忘れてしまう。カザルスという人と音が一体となり私に語りかけてくるのである。
もちろん彼は古典的な意味でも素晴らしいチェリストであるが、それ以上に平和への強い意志を持った音楽家(ミュージシャン)なのだ。
本物の音楽家というのは演奏する作品の様式に圧倒されたりしない。音楽家は【自身が】音楽を語ることができるという意味で、テクニックとか様式とかといったものを超えてずっと大きいスケールの世界に生きている人たちのことを指すのだと思う。
 
音楽家かどうかを区別するのに一番わかりやすい方法がある。それは彼らが自分だけの音を持っているかどうかである。音だけは制約を受けないし、そこにこそ人を感動させる源泉が潜んでいる。
グールドやカザルスの音には唯一無二の声がある。それは完璧に彼らのテクニックの一部となっているので、あたかもその声が楽器という境界線すらも超えて私達に語りかけてくるかのようだ。

この肌寒い季節にわたしはそんな魅力的な声を求めて古い録音を聴き、ああ、いつの日か自分も磨き抜かれた自身の声を持つ音楽家になりたいなあとため息をつく。



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