マガジンのカバー画像

ミラノ回想録

26
毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
運営しているクリエイター

#ミラノ

スポレートの夏

その夏は忘れられない夏だった。私たちのオーケストラはひと月の間、ウンブリア地方にあるスポレート(spoleto)というちいさな町で開かれる有名な音楽祭に招待されていた。アッシジの聖フランチェスコが‘神の声を聴いたか、幻視を体験したとも言われているこの町の中心にはドゥオーモと呼ばれるロマネスク様式の大聖堂があり、内陣はフィリッポ・リッピ(*)の見事な色彩のフレスコ画で装飾されている。私たちは毎日のようにこの聖堂でリハーサルをし、ファサードの下の冷たい石のベンチで涼んだり、おしゃ

ステファノの死

オーボエ奏者のステファノが死んだと私達が知らされたのは、風が少しだけ夏の匂いを含んだ5月の夜だった。その夜私達は定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏する予定だった。 私が会場に近づくと、エンリコが道端に佇んで迷子のような顔でこちらを見ている。私を見るなり彼は子供のように泣きじゃくりながら [ステファノが死んじゃった] と言う。 あまりに突然の事で私は返す言葉もなかった。 え?死んだ?何故。。。「死」という言葉が、そこだけ物語のようだった。    楽屋に足を踏み入れるとそこ

Rock me Amadeus...!

オーケストラの仕事は紛れもなく流れ作業だ。毎日毎日リハーサルに行くと、譜面台の上には望むと望まざるに関わらず決められた楽譜がセットされている。当たり前のことだが「この曲が弾きたい!」とか「これは面白い曲だからやろう」ではなく、「これを弾け」という命令に従っているということになる。そして譜面台に乗る曲の回転率が速ければ速いほど、そしてそれを消化していくスピードが上がれば上がるほど、段々と自分が何万個の音符を処理する無機質なマシーンに思えてくる。それでは今まで培ってきた勉強がもっ

生活の中心としてのバール

劇場の周りには、いくつものバール(日本でいう庶民的なカフェとバーの中間であって、おしゃれなカフェ・バーというのとは違う)があり、私たちはリハーサルの休憩時間ごとにバールへコーヒーを飲みに行った。でもこの際「飲む」という表現が適切かどうか、いささか疑問が残る。というのもイタリアのコーヒーは基本的に濃いエスプレッソで(母いわく「鼻が曲がりそうな」コーヒー)、しかも3口くらいで飲み終わってしまう量なのだ。  だからイタリア人たちは、バールに入って来るとカウンターでそれをさっと飲み、

[若者の集団]という個性

オーケストラの仕事はどんどん忙しくなっていった。休みはほとんどなく、時には日曜日まで潰れるほどだった。それでも毎週のように、世界中からドミンゴやアルゲリッチをはじめとするクラシック界のスターたちが私たちと共演するためにやってきた。 有名なソリストの中にはリハーサルやコンサートの後も、楽団員と食事をしに行ったり楽しく交流する事を好む人たちもいた。どんなに有名な演奏家や歌手も、ミラノではどことなくリラックスしているようにすら見えた。彼らと言葉を交わすチャンスというのは、例えばリハ

新しい友達

マーラーのコンサートの週に新しい友達ができた。 絹糸のように細くてしなやかな金髪を背中まで垂らした北欧系ドイツ人の彼女は  ウテという名で、オーケストラのハープ奏者だった。 ボッティチェッリのヴィーナスを思わせる完璧に美しい顔は、時々血が通っていないかのようで人を不安にさせるのだが、いったん微笑むと、その顔はとたんに子供のあどけなさを湛えた。 私たちが初めて言葉を交わしたのはマーラーのコンサートの休憩時間だった。 すらりとした長身をぴったりとした黒い衣装で包んだウテは、真

新生活

そうこうするうちに、オーケストラで新しい友達ができた。人懐っこいビオラ奏者のカーティア、そしてバイオリン奏者のマルコと,チェロのパオロは揃ってラヴェンナ出身で同郷というだけでなく、二人そろって背が高く美男だった。彼ら3人は、私がイタリア語を解さないと分かっていても毎日私に話しかけに来てくれた。私にとって素晴らしかったのは、カーティアが子どものような無邪気さで、誰とでも友達になる才能を持っていることだった。私たちは自然とひとつのグループを作り、休憩時間には連れだって,向かいのバ

雨の夜の出来事

ミラノで始まったばかりの仕事と家探しで疲れ果てていた或る晩、電話が鳴った。出てみると、オーケストラ専属の合唱団員の女性からで、私が事務局の掲示板に貼った「アパート探しています」の紙を見たとのことだった。彼女の家のアパートがちょうど一室空いたので、良かったら今夜見に来ないかという事だった。 時計を見るともう21時近かった。私と母は顔を見合わせたが、実際に部屋探しは困難を極めていて、私たちは今週トルトラさんのアパートを出て、日本人マダムの経営する小さなホテルに移ったばかりだった

仮の住まいからの初出勤

トルトラ婦人の真っ白なアパートで、私は27歳の誕生日を迎えた。九月も終わりに近づき、その日の朝はシーズン最初のプログラムであるマーラーの「復活」の初リハーサルの日でもあった。私はどきどきしながら、一週間後にマーラーでのこけら落とし公演を控えた新しいホールのある、ナヴィリオ地区へと向かった。この地区というのは大小の運河が顔を覗かせ、古き良きミラノの面影が残るいわゆる「下町」のような独特の界隈である。市電がポルタ・ティチネーゼの門をくぐり抜け、ゴトゴトとサン・ゴッタルド通りへ入っ

ミラノの5日間広場

二度目のミラノは相変わらず埃っぽくて、私は母を連れて Piazza-5giornate(ミラノの5日間広場)でトラムを降りた。二週間の間、私たちの「仮の住まい」となるマダム・トルトラのお宅は、賑やかな街中の広場に面したデパートから目と鼻の先というところにあった。 ちなみにミラノの5日間とは、1848年まだオーストリアの統治下にあったミラノが、オーストリア帝国の支配に対して蜂起した5日間に由来するらしい。皮肉にも150年後、その「オーストリア帝国」から私たち親子はこの広場を目

夜行列車

飛行機嫌いの母のおかげで、ウィーンからミラノまで夜行列車の旅をすることになった。 私たちは洗面台付きの、割に居心地のいいコンパートメントに入り、今度ばかりは喧嘩をすることもなかった。お互いに引っ越しの疲れで、ほとんど話もせずに窓の外をぼんやりと眺めていた。 ちょうど夕焼けで、はじめ黄金色だったコンパートメントはあっという間に真っ赤に染まった。窓の外の田園風景が、みるみるうちに燃えるような夕日に包み込まれていく様子は圧倒的なまでに美しく、私はそれを母と感嘆の想いで見つめた。

ウィーンの幽霊アパート(2)

トシコさんは、どんな学生生活を送っていたのだろうか? 私たちは同じアパートの隣同士ではあったが、ほとんど会うことはなかったし、廊下ですれ違うことも滅多になかった。 トシコさんの部屋のドアは、19世紀の建物の特徴がそのまま感じられる木製の重厚なドアで、手で内側から開ける「ちいさな覗き窓」の扉も木製だった。 表側の黒光りのする木彫りも含め、アパート内の扉にしてはちょっと怖いほどの威厳があり、教会の扉のようだった。 部屋の中では彼女の練習するピアノの音を聴いたことは一度もなか

ウィーンの幽霊アパート

私の部屋のすぐ隣には、すでにウィーンでの留学生活7年になるトシコさんというピアノ科の音大生が住んでいた。 7年間の留学生活を送っている日本人学生は意外に多く、下の階に住むバイオリニストもオーボエ奏者も皆この幽霊アパートに7年住んでいた。 学生としての7年間の過ごし方というのは人それぞれだとは思うが、彼らは一様に26歳くらいにはなっていた。 つまり私と違い、彼らは日本の音大には行かずに(もしくは中退して)19歳くらいでこちらへやって来て音大で勉強しているのだろう。 ちなみにウ

引っ越し

私が引っ越しのために再びウィーンへもどったのは9月も半ばに近かった。 母も、日本で心配しているよりはと言って私について来た。 [ついて来た]と何気なく書いたが、母にとっては命がけの決断とも言えるものだ。 なぜかといえば、母は大の飛行機嫌いで東京~札幌間の飛行機の中ですら、まるでジェットコースターに乗っているかのように私の手を握りしめたまま、心配になるほど見を固くしているのだから。 そんな状態が12時間もの間続くかと思うと私の方まで気が重かった。 ウィーンでは山のような引っ越