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[悲嘆をめぐるエンタメnote]_001 未亡人と『シン・エヴァンゲリオン』、あるいはボツイチ仲間である碇ゲンドウ君の喪失感について。



ごきげんよう、ある未亡人です。
2度目の緊急事態宣言のまえに『シン・エヴァンゲリオン』を観てきました。

きょうは、初見で得たレビューを書きます。

わたしは<喪失感>というキーワードから、一貫してこのシリーズを観つづけてきました。

人類補完計画は「ひとが喪失感をどう埋めるか」ということが目的なのではないだろうか。

そうおもっていました。

結論からいうと、『シン・エヴァンゲリオン』を観て、それを再確認しました。

解釈の海に漂流し、これまでくすぶっていたエヴァ熱をうつくしく成仏させていただいた気分です。

大好きな作品だし、傑作だとおもっています。


テーマというのは、観たひとが感じるものだとおもっている。
同じ人間であってもそのときどきで抱えているものが違うのだから、感じかたも変わっていくだろうし。

テレビシリーズから25年が経ち、そのころ新婚だったわたしも配偶者を亡くし、碇ゲンドウ君と同じボツイチの身の上になった。

『シン・エヴァンゲリオン』を未亡人のわたしが観ることになるなんてね。

驚きつつも、エヴァのように長期に渡る作品をリアルタイムで追ってこられたことは幸せなことだとかんじている。

庵野秀明監督とは同世代である。
長期にわたった彼自身の苦悩と、わたし自身におとずれた変化と。
エヴァのシリーズは、それらが思いがけずシンクロした共作のようにおもえる。

テレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』を見ていたころ、自分には生活や子育てや家族や喪失という概念が遠くにかんじられ、まだまだ<恋愛のリアル>のほうに近い身だった。

その頃、エンタメ雑誌の編集者やライターさんたちと集まっては、夜通し<エヴァ>の話をした。

最初の映画版はその仲間たちとツアーを組んで、銀座の映画館で観たのだった。

徹夜で解釈をし、朝まで語り明かした。
若かった。
エヴァを、語り合うことで意味を引き出していける創作物だとおもっていた。

「セカンドインパクトは碇ゲンドウの怨念が引き起こしたのではないか」
「恋愛が世界観のすべてを破壊するって話なのでは」
「碇ユイという運命の女が世界を破壊したって話?!」
「そういっちゃー、元も子もないじゃん!」

さいごはいつも泥酔し、わからなさを碇ユイという存在に押しつけ、堂々巡りだったように記憶している。

その頃は、ATフィールドについて、心理学的な知識を総動員して、しきりに話し合っていた。

ATフィールド、セントラルドグマ、伊吹マヤ。
なにかしら単語をいうだけで盛り上がった。愉快だった。
仲間のひとりは登場人物にちなんだペンネームをつけた。

やがて、それぞれが家庭を持ち、編集部も消滅し、大勢で集まることもなくなった。

そしてわたしは夫を亡くした。

遺骨は夫の両親にもっていかれてしまった。
わたしのもとには夫との思い出と、ともに暮らしていた家がのこった。

悲嘆の度合いが酷く、ほぼひきこもっている時期に、テレビシリーズをアタマから見直したことがあった。

ハッとした。


第拾伍話「嘘と沈黙」である。

碇シンジと碇ゲンドウが碇ユイの墓参りに行くという話だ。
父子が一緒に墓参りに行くのは3年ぶりだという。
シンジは父親となにを話していいのか、綾波レイに意見を求めるがつれなくされる。

そして、墓参りがはじまった。

十字架ではなく、黒いみかげ石のようなものでできた細長い墓標が視界のはるか遠くまで等間隔におびただしく並んでいる場所に父と子が立っている。

ほかに来ているひとたちはいない。
ふと、いきのこった誰かのアタマのなかだけで起きている出来事なんじゃないかとおもう。
静謐な方向によくイメージが整理された、夢のなかのようなシーンである。


そもそも、<墓標>とは、なんらかの事情で墓が建てられない場合につかわれる言葉らしい。

これだけのひとたちがおそらく同時に亡くなっているのに、命日に彼らしか訪れていないのはきわめて不自然である。

が、それはイメージの演出である以上に、そこが墓標の集積する場所だからなのかもしれない。


ふたりのまえにある墓標には「IKARI YUI 1977ー2004」とある。

最初に碇ゲンドウが口を開く。

(以下、採録です)

「3年ぶりだな、ふたりでここにくるのは」
「僕は・・・あのときに逃げ出して、そのあとは来てない。ここに母さんが眠ってるってピンとこないんだ。顔も憶えてないのに・・」
「ひとは思い出を忘れることで生きていける。だが決して忘れてはいけないこともある。ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。わたしはその確認をするためにここへ来ている」
「写真とかないの?」
「のこってはいない。この墓もただの飾りだ。遺体はない」
「先生がいってた通りだ。全部捨てちゃったんだね」
「すべては心のなかだ。いまはそれでいい」

「時間だ。先に帰るぞ」と言い、碇ゲンドウは迎えにきたプロペラ機に乗り込もうとする。

シンジの目に、搭乗しているレイの姿が映り、顔に失望のいろがうかぶ。

なにに対しての失望なのだろうか。
去っていく父の背中に「きょうはうれしかった」と礼をいうが、ゲンドウは「そうか」と静かに受け止め、去って行く。

息子を、こんな淋しい場所にひとりきり置いていくんだね。
いっしょに帰らないのね。シンジ、レイ(ユイ)、碇ゲンドウという実体が、そろって同じ地平にいることは叶わないのか・・・。

初見では、そのようにおもったシーンだった。

しかし、こうしてあらためてセリフを採録してみると、あらたな気づきがあった。

ひとの思い出について、父親が息子に語ろうとしている。
不器用ながらも、息子と向き合おうとしていることがわかる。
父親はみじかいことばのなかにも、表象にかんする話をしようとしているのである。

が、しかし。
「写真とかないの?」と返すシンジのあどけなさ。

無理もない。胸が痛む。
そういえば、亡くなった友人の子も写真にこだわっていたな、とおもい出す。
彼も14歳だった。忘れることが怖いから写真が欲しいのだといった。


そして、映画『シン・エヴァンゲリオン』である。


登場するすべてのキャラクターが喪失を抱えて生きている。

喪失後の世界。
ひとを喪い、安全な世界への信頼を喪っている。
しかし、シンジのクラスメイトのようにあたらしく家族をつくり、あたらしいコミュニティに属し、暮らしているひとたちもいる。

いまのコロナ禍と重なる部分がある。
誰もが等しく、<安全な生活><それまでの世界観>を喪失したあとを生きている。
経済的に豊かに見えるひとたちも、仲間や家族に恵まれているとおもわれているひとたちも、仕事で成功しているひとたちも、皆が喪失を抱えている。

喪失というのは、なにかが無いということではなく、無いということがいつもそこにあるということなのだとおもう。

長くなったので、また書きます!


いただきましたサポートはグリーフケアの学びと研究に充当したく存じます。